性善説と性悪説

僕は人の本性は「悪」だと思っている

そもそも「悪」とは何か?
それは集団や社会、またはそれに属する人
にとって不利益なモノである。

では善か悪かという話に入るが
性悪説とはどういうモノかといえば
それは

人の性はそもそも自然なモノだと考え
その自然なままの姿を悪だと唱えたわけで
ある。

世界に共通しているがわかりやすい例え
として「 7つの大罪 」を上げたい

人はなにも縛るものが無い時

傲慢であり、憤怒し、嫉妬し、怠惰で、
強欲で、暴食で、色欲に溺れる。

そう言った事は集団の社会生活において
マイナスである。
故に本質は悪だと言えると述べているのだ。


逆に性善説では
人には本来4つの良い心が備わっていると
述べている。

憐れみ、悪を恥じ、自ら引き下がり譲る
善悪を見極めること

この四つだ。

だが100円しか持っていない人が人に
100円を差し出すだろうか?
悪を恥じたからと言って自分の都合を
優先しないだろうか?

より多くの人は今上げた心より、先に
あげた大罪にあたる方を優先させては
いないだろうか?

僕は思う
確かに人はそれらの善とされる心も
持ち合わせているだろう
しかし、優先順位は常に自分にある。
であれば人の本質は悪なのだ。

本質が善であるならば自分の利益よりも
集団の利益を優先すべきである。


孟子ですら、性善説を唱えながら
人は放っておけば悪いことをすると
述べている

なぜ人の本性は善なのに悪を行うように
なるのかといえば、周辺、外からの影響
によるものらしい。

周辺からの影響とは何か?
それは食糧を確保しなければならないとか
社会生活を送らなくてはならないとか
自分が行いたい事では無く、環境に
それを強いられるという事である。

例えばお金持ちの家に生まれたとする
すると人からモノを奪わなくても生きて
いける。

しかし、貧しい家に生まれたらモノを
奪わなくては生きていくことも出来ない
かもしれない。

このように外からの影響によって
本質が歪められると言っているのだ。




僕はそうは思わない、もし持っている
者は善の心が発揮されるのなら
人はなぜ自分の財産を分け与えて
アフリカの飢餓で苦しむ人を救わない?
もし、この説が正しいな原理共産主義的
社会が自然に構築されていなければ
おかしいではないか。


人には自分が類するグループへの
愛着がある。
それ以外のグループとは優先順位が
違ってくる。
たった一個のパンを種を見つけたら
自分のグループに持ち帰る。

それは全体よりも自身の利益に近い
方を優先する本質があるからである。


人の本性は悪である。