一つの言葉で、全てを済ましてしまう人は多いもので。


例1:ご近所の、おはよう5歳児。

朝。
遊びに出たいのだが、ママの支度が遅いのでごねている。と、そこに私が通りかかる。
『マ~マぁ~、おそとに遊びに行きたぁい~。ママ~、まぁだぁ?まぁまっ!あ、おはよう。どこ行くと?(行き先を教える私)……、そんなとこ知らん。ばいばい。』

昼。
サッカーボールで2歳児の弟とお遊び。と、そこに私が通りかかる。
『きゃ~、きゃ~。ギャー!(私に気付く) あ、おはよう。どこ行くと?(行き先を教える私)……、そんなとこ知らん。ばいばい。』

夕方。
毎日誰かしら来るので、この時間帯はお見送りタイム。5階の廊下から、帰る人を見送る。とそこに、ぼくちゃんが通りかかる。
おはよう。何を見ようと?(見送っていると説明) 僕も見たい!抱っこ! (彼を抱え、見せてあげると) う~、う~。(下のぼくちゃんもおねだり。二人を抱え、手を振らせる。降ろすと、) ばいばい。』

時間の感覚がないのか、その言葉しか知らないのか、なにげに業界人か。

補助輪付き自転車のペダルには、片足しか届かない彼だけど、
『いつか両方届いて見せるぞ』ってな感じで、ひそかに練習を重ねていることを、
私は知っているのだからね。

がんばれ、僕ちゃん。




例2:同級生“なかちん”

小学6年の時に東京から越してきた彼は、背が高くて、走りが早いけれど、
ランニングフォームは最低の、無口くんだった。
おかげで担任の先生から「硬派の中川君」と勝手に命名され、
授業中のなかちんは、いつも「硬派の」という形容が付いていたし、
クラスの友達にも何かにつけて『硬派だからね』と言われていたが、
男友達は多かったので、内弁慶だったのだろう。

それはともかくとして。
硬派のなかちんには、部下的存在の友人がいた。
彼の名はシンドウ。
小学4年の時に、池で溺れて意識不明の境地に立った事のある奴で。
あだ名は『溺死のシンドウ』。
(思い出せば当時、学校では『シンドウがしんどう(死んどう)』というギャグが大流行した。
小学生は無情だが、今となってはどうでもいい過去である。これもともかくとして。)

彼を呼ぶ時のなかちんはいつもこうだった。

『おい、おやじ!

いつもいつも、シンドウは
 
おやじ!

だったのである。
でも、彼はきちんと振り返っていた。
『溺死のシンドウ』と言う名があるのに。

ある日、私はなかちんに聞いてみた。
何故、シンドウを『おやじ』と呼ぶのかと。

すると、意外な答えが返ってきたのだった。

『俺は、シンドウの事だけおやじと呼ぶんじゃない。俺が男を呼ぶ時は、みんな「おやじ」だ』

『誰に対しても、おやじと言えば振り向くの?』
私は、尋ねた。

『振り向くよ。してみせようか?』

そういって、ちょっと遠くにいた男子セキジン(石に神と書いて、イシガミという苗字の男の子)に向かい、叫んだ。

おやじ!

すると、セキジン振り返って
『何、なかちん?』
と答えたのである。

『どうして、おやじと呼ぶの?』
と聞くと、
『面倒くさいから』
と答えただけに、
私は、彼の力に只々笑うばかりであった。


特定の誰かに対するあだ名などではなく、
『あなた』と同じ意味合いで『おやじ。』と男子を呼ぶ硬派な彼、なかちん。

今はすっかり軟派らしいし、
シンドウの話も蛇足に過ぎなかったけれど、
言葉も使いようによっては、とっても意味のないものになってしまえるのね。


というわけで、長々とお送りしました『コラム深夜便』。
今回で3回目を迎えましたが、いかがだったでしょうか?
どこぞのblogで勝手に次回予告をしてしまったので、本日急遽載せてみました。
見苦しい、聞き苦しい点が数々ございました事をお詫びしつつ、
今夜はgood-byeのお時間です。

では、ジェットストリームで羊を数えながら、
今夜も夢さえ見ない深い睡眠をお祈りしています。

おやすみなさい。