以前、5億円もの大金がすりかえられる事件が起こったが、単独犯じゃないだろうと予測。
あくまで、勝手に予測。新潟の地震も、もう起きないで欲しいと、希望的観測。
さて、「趣味は?」と聞かれたら何と答えるだろうか?
私は答えに困った。何せ、履歴書に書かなければならないからだ。ありきたりでは読んでもらえない。「またか」という顔をされる事だってある。一応「芝居」としてみたものの、他の設問にもその線で書いており、内容が重複してしまう。悩んだ。ものすごく悩んだ。そして出した結論は…「相談」。私は、友達から相談を受けることが多い。なんでも、「聞いてくれるから、話したくなる」そうだ。「そうかなぁ?」という疑問もなきにしもあらず。確かに話を聞くのは好きが、こんな人間に話したくなるものかね?私だったら、もっと別の人に相談するがな。まあ、もっともらしいアドバイスを受けて納得してくれる子も多いから、このまま相談は受け続けるけれど。
「本当に、私でいいんですか?」
…落ちが無いな。
次。
相談はされる私ではあるが、相談をすることは少ない。特に同世代の場合、アドバイスが表面的だからだ。言いたいことはわかるけれど、それに経験が伴っていないせいか、信じがたいのである。それに比べて、年上の人間には思いっきり頼る。私の知人達は20代後半と30過ぎの人間が多いのだが、特に30歳を超える彼らの発言には、どことなく安心感を覚える。20代の場合は大抵「愚痴」を聞いてもらう。ただ話をして、「うんうん」と言ってもらうのが目的だ。しかし30代になると本気でアドバイスを求めてしまう。「どうしたらいいですか?」が口癖になるほどに、いろいろ尋ねている気がする。40代以上になると、もうずっと説教になる。諭すように話をするから、ひたすら聞きっぱなし。これが結構、癖にもなる。そして思うのだ、「まだまだだな、私は」と。
今の私は20代。これから知恵と経験を積んでいく中で、精神的成長を遂げることは出来るのだろうか?30歳になってもやっぱり「まだまだ」と思い、40歳になっても「変わってないな」と思うのは、あまりに寂しすぎる。成長って、どうしたら出来るんだろう?1万円札がつもりに積もればかなりの額と重さになるってのに、経験ってのはそうもいかねぇ。
色々と、難しい世の中さ。
あくまで、勝手に予測。新潟の地震も、もう起きないで欲しいと、希望的観測。
さて、「趣味は?」と聞かれたら何と答えるだろうか?
私は答えに困った。何せ、履歴書に書かなければならないからだ。ありきたりでは読んでもらえない。「またか」という顔をされる事だってある。一応「芝居」としてみたものの、他の設問にもその線で書いており、内容が重複してしまう。悩んだ。ものすごく悩んだ。そして出した結論は…「相談」。私は、友達から相談を受けることが多い。なんでも、「聞いてくれるから、話したくなる」そうだ。「そうかなぁ?」という疑問もなきにしもあらず。確かに話を聞くのは好きが、こんな人間に話したくなるものかね?私だったら、もっと別の人に相談するがな。まあ、もっともらしいアドバイスを受けて納得してくれる子も多いから、このまま相談は受け続けるけれど。
「本当に、私でいいんですか?」
…落ちが無いな。
次。
相談はされる私ではあるが、相談をすることは少ない。特に同世代の場合、アドバイスが表面的だからだ。言いたいことはわかるけれど、それに経験が伴っていないせいか、信じがたいのである。それに比べて、年上の人間には思いっきり頼る。私の知人達は20代後半と30過ぎの人間が多いのだが、特に30歳を超える彼らの発言には、どことなく安心感を覚える。20代の場合は大抵「愚痴」を聞いてもらう。ただ話をして、「うんうん」と言ってもらうのが目的だ。しかし30代になると本気でアドバイスを求めてしまう。「どうしたらいいですか?」が口癖になるほどに、いろいろ尋ねている気がする。40代以上になると、もうずっと説教になる。諭すように話をするから、ひたすら聞きっぱなし。これが結構、癖にもなる。そして思うのだ、「まだまだだな、私は」と。
今の私は20代。これから知恵と経験を積んでいく中で、精神的成長を遂げることは出来るのだろうか?30歳になってもやっぱり「まだまだ」と思い、40歳になっても「変わってないな」と思うのは、あまりに寂しすぎる。成長って、どうしたら出来るんだろう?1万円札がつもりに積もればかなりの額と重さになるってのに、経験ってのはそうもいかねぇ。
色々と、難しい世の中さ。