私は子供の頃から本が好きで、勉強は国語が一番出来た。
先生にも恵まれて、中学校から高校の時には、
国語の担当の先生に随分本を頂いた。
読書感想文をこの本で書いて欲しいと、
ヘッセの「車輪の下」、ヘントフの「ジャズカントリー」。
高校の時は1年からずっと担当だった先生から、
大学に行ったらぜひ平安文学のゼミに入って源氏をやってくれと
円地文子訳の源氏物語を全巻頂いた。
大学も文系へ進んで、平安か中古をやろうと思っていたけれど、
卒論は上代、古事記の言語解析だった。
今はシステムエンジニア。国語とは縁もゆかりもない職業。
・・そうでもない(笑)
国語は日常生活で絶対に使う勉強で、知っていて損はない。
むしろ誰でも出来ることで、本当は優劣はなく、
個人の感性が真面目に導いた答えを正としていいなら・・
全員100点。
それでいい教科のはず。
私が国語の教員になるのを辞めたのはそれが理由。
まだ2歳くらいから、甥っ子には読み聞かせをしていた。
セブンイレブンにあるボノロンがお気に入りで、
一人何役もの役柄をこなしながら、時には読み聞かせ中に
私が泣きながら(笑)、たくさん本を読んだ。
だから甥っ子は今でも本が大好きで、何を読もうかと
質問のメールを送ってくる。
私と甥っ子の共通点、良く言われることがある。
「表現が難しい。」
特に何をしている訳でもないのだけれど、難解なのだそうだ。
同じことをわざわざ違う言い回しにしたり、
描写が多いかと思えば、ぴしゃりと漢字のみで表現したり。
私から言わせていただけば、
それが「文章の味」というヤツなのだけれど(笑)
婉曲な表現というのは日本の美徳だと思う。
悪いところではない、とは言わない。
それはいわゆる「隠蔽する」ことでもあるわけだから。
・・その隠蔽にドキドキする。
どちらかというと、直接的な表現が多くなっている今、
それとは判らないように半透明の何かで柔らかく隠されていると・・
覗きたくなる。
それが人間心理というヤツで、想像力を刺激される。
想像の余地のないほど見えてしまっていると、
それを越える詳細な説明が欲しくなってしまう。
中途半端に晒された事実は、美しくない。
美しくないだけにとどまらず、
暴露という更に汚い行為を誘発してしまう。
人は教えたがりで知りたがりだから。
そういう機微を理解しないで
リアルだと言って即物主義に走ると、・・文章が汚れる。
故意に汚すこともあるけれど、それはその言葉が引き起こす
インパクトを何らかの形で狙ったときで、
こういった行為そのものは日本的な表現ではないと思う。
例えばパンクロックの歌詞は
当然そういったものを狙うことがあるわけで、
それでも、
「ドブネズミみたいに美しくなりたい」という表現は、
【ドブ】という言葉の持つ一般的な汚さを土台にして
即物的なヘドロの色とか、
そのネズミが住んでいるであろう世界を背景にしているだけで、
人の脳の中にある何かを喚起しているだけ。
一昔前は、文学の格調を持った歌詞も多かったけれど、
最近はそうでもなくなってきているかもしれない。
いないとは言わないけれど^^
触れたら壊れてしまいそうな繊細さや
電流が流れてるんじゃないかと錯覚しそうな情景描写、
形容しがたいヒリヒリした痛みを伴う温度感・・
冷たいと書かずに月の光の冴え渡る空を描いたり、
木立を吹き抜ける風とそれに舞う一枚の葉を描いたり。
経験したことのない温かさや幸せ、狂気や絶望を
そうとは書かずに見せられる表現者が減って来ているような、
そんな気がして。
抒情的ではなく、叙景的な表現者、とでもいうのかな。
ただありのままを描くだけではなくて、
ありのままのではあるのだけれど、それを激さない。
今時期なら、低温火傷のような表現者と言おうか・・
目に見えている風景を感情に変換『出来る』表現者のではなく、
その風景を見せることで他者に感情の変換を『促せる』表現者。
媚びることなく。
私はそういう人が好きだし、これからもそういう人を
きっと探していくんだろうなと思います。
それとは別に、単純な応援歌とか恋愛の曲も好きだけど。
表現者として尊敬し、慕うのはきっと、
文学的な視線を自分の分野に持って行ける表現者。
想像力の欠如は人間の可能性を潰す行為だと思うのですよね。
「我思う、故に我在り」
深淵まで考えなくなったらもったいないと思う。
私は国語が大好きで、それを専門に勉強してきて、
日本文学の構造とか根底に流れるものとかを知っていて。
それはこの国の歴史にも当然繋がっていくのだけれど、
世界に発信する日本らしさというのをもう少し考えても
いいのではないかなって思います。
結果的に今、高い評価を受けている作品ってみんな同じ。
そういうものだと思う。
たわいもなく、そんなことを思う、今日この頃。
