- 前ページ
- 次ページ
昨今のニュースやキーワードにはいろいろ考えさせられる。
二律背反の命題をいかに自分なりに昇華し、真心をもって活かしていくか。
母なる地球と同行二人。
そういう私も有限ユニーク自然の分化。
愛し、学び、守りたい。
そんな心骨を忘れなければ、
仮にも自らの身体にチップやプラグを埋込むような時代になろうとも、
豊かに生きていけるにちがいない。
二律背反の命題をいかに自分なりに昇華し、真心をもって活かしていくか。
母なる地球と同行二人。
そういう私も有限ユニーク自然の分化。
愛し、学び、守りたい。
そんな心骨を忘れなければ、
仮にも自らの身体にチップやプラグを埋込むような時代になろうとも、
豊かに生きていけるにちがいない。
人間には、“欲と二人連れ”という言葉もあるように、
自分の利によって動くという面と、
使命に殉ずるというか、
世のため人のために尽すところに
喜びを感ずるといった面がある。
だから人を使うにしても、
給料だけを高くすればいいというのでなく、
やはり使命感というものも
持たせるようにしなくては
ほんとうには人は動かない。
もちろん使命感だけで、
給料は低いというのでも、
これはよほど立派な人でない限り
不満を持つだろう。
普通の人間であれば、
使命感半分、給料半分というところだと思う。
そのようなあるがままの
人間性に則した処遇をしていくところに、
適切な人の使い方があると言えよう。
-
『松下幸之助』
-----
「人をつかう」という経営者の立場で書かれた内容が多く、
本稿もその視点で記述されているが、自身にあった理解・咀嚼が必要だろう。
働き手の立場からみると、なるほど、給料が安くて生活に困るようではまずいし、
だからといって、いくら給料が高くても、使命感あるいは社会への役立ちが感じ
られない仕事ばかりでも困る。そもそも家庭を守る使命に基づいて働いているが・・・。
それはさておき、真の仁人であれば、すでに欲など昇華した境地に至るのかもしれないが、
私のような凡人はやはり多少の欲望は現在のところ捨てきれない。
一歩一歩、仁人をめざしていきたいとは思っているが、一朝一夕にはいかぬ。
使命と給料の配分が半分ずつか?は別として、
「人間とは欲と二人連れ」という言葉にはシンクロした。
人間には「欲」があることを認め、「良心」を源泉とする「使命感」があることも認める。
「欲」に支配されきってしまわず、「使命感」に息切れしてしまわない個人なりの配分。
個人が自己の内面をコントロールするにおいてその人なりの良い按配をきめていく。
良い按配は絶えず変化するから、そういう意味から自己練磨を怠ってはいけない。
とにかく気に入った。「人間とは欲と二人連れ」
自分の利によって動くという面と、
使命に殉ずるというか、
世のため人のために尽すところに
喜びを感ずるといった面がある。
だから人を使うにしても、
給料だけを高くすればいいというのでなく、
やはり使命感というものも
持たせるようにしなくては
ほんとうには人は動かない。
もちろん使命感だけで、
給料は低いというのでも、
これはよほど立派な人でない限り
不満を持つだろう。
普通の人間であれば、
使命感半分、給料半分というところだと思う。
そのようなあるがままの
人間性に則した処遇をしていくところに、
適切な人の使い方があると言えよう。
-
『松下幸之助』
-----
「人をつかう」という経営者の立場で書かれた内容が多く、
本稿もその視点で記述されているが、自身にあった理解・咀嚼が必要だろう。
働き手の立場からみると、なるほど、給料が安くて生活に困るようではまずいし、
だからといって、いくら給料が高くても、使命感あるいは社会への役立ちが感じ
られない仕事ばかりでも困る。そもそも家庭を守る使命に基づいて働いているが・・・。
それはさておき、真の仁人であれば、すでに欲など昇華した境地に至るのかもしれないが、
私のような凡人はやはり多少の欲望は現在のところ捨てきれない。
一歩一歩、仁人をめざしていきたいとは思っているが、一朝一夕にはいかぬ。
使命と給料の配分が半分ずつか?は別として、
「人間とは欲と二人連れ」という言葉にはシンクロした。
人間には「欲」があることを認め、「良心」を源泉とする「使命感」があることも認める。
「欲」に支配されきってしまわず、「使命感」に息切れしてしまわない個人なりの配分。
個人が自己の内面をコントロールするにおいてその人なりの良い按配をきめていく。
良い按配は絶えず変化するから、そういう意味から自己練磨を怠ってはいけない。
とにかく気に入った。「人間とは欲と二人連れ」
事業でも、力づくでやっておると、
いずれ競争になって困難になる。
事業が人間性から滲(にじ)み出た、
徳の力の現れであれば、これを徳業という。
事業家は進んで徳業家にならないといけない。
また、その人の徳が、古に学び、歴史に通じ、
いわゆる道に則(のっと)っておれば、これを道業という。
東洋人は事業だけでは満足しない。
徳業にならないと満足しない。
現代の悩みは、事業が徳業にならないで、
利業・機業になってゆくことだ。
-
『安岡正篤』
-----
徳業なる言葉は、
いまの日本では誰も口にしなくなりました。
わたしも安岡先生の本を読むまでは知らない言葉でした。
しかし、東洋思想及び歴史の勉強をすればするほど、
安岡先生のおっしゃる
「東洋人は事業だけでは満足しない。徳業にならないと満足しない」
ということがわかるようになりました。
それは東洋人、とくに日本人の
「経済よりも道徳に重きを置く」
という江戸時代までは庶民にまでしっかりと根付いていた価値観によります。
それを「武士道精神」とも言います。
明治二十年代から三十年代にかけて英語で書かれて
世界中が注目した、内村鑑三(うちむらかんぞう)の「代表的日本人」や
新渡戸稲造(にとべいなぞう)の「武士道」という本を読めば、そのことがよくわかります。
近代化路線を驀進(ばくしん:まっしぐらに進むこと)した明治時代の日本人には
たしかにまだ「武士道」が根付いていたのでした。
しかし、いまの日本では「風前の灯火」のようです。 (白倉信司:私淑の人)
以下、安岡正篤(著)「経世瑣言」より抜粋引用。
-
宇宙人生の依(よ)って成立活動する所以(ゆえん)のものを「道」と謂(い)う。
「道」は人生に発して「徳」と謂う。
「道」「徳」は決して抽象的なものではなく、
それは産業や学問や芸術やすべての人間生活を勤める文化…「功」となるのである。
そしてそれは実際人間を左右する「力」でなければならぬ。
「功」「力」を離れた「道」「徳」は無い。
たとえ功力を著しく発揮せぬ場合はあっても、道徳はやはり功力を含んでいる。
しかし功力は道徳から遠ざかり易い。恰(あたか)も根幹に対する枝葉の様に。
けれども勿論そんな功力は脆弱(ぜいじゃく)である。
-
『安岡正篤』
-
名文です。道と徳とは何か。それに対して功と力とはどういうものかを
極めてわかりやすく説明されておられます。事業には「功」があります。
それは企業の側に立てば、売上や利益となって現れ、
顧客の側に立てば、便益や効用となって現れます。
その「功」が強くなれば、企業は成長発展していき、
大きな「力」を持つようになります。
これを顧客は「信用」とか「ブランド」と捉えます。
つまり、企業の側に立てば「力」は成長発展となって現れ、
顧客の側に立てば信用、ブランドとなって現れます。
しかし、その「功」と「力」は「道」と「徳」によって裏づけなれねばなりません。
「道」「徳」の無い「功」「力」は、やがてその効力を失います。
いまの日本では大企業、有力企業が引き起した倫理観の喪失による企業事件が頻発
しておりますが、それは「道」「徳」の無い、あるいは失った企業の「功」「力」が
その効力を失う段階で現れた現象と言えるでしょう。(白倉信司:私淑の人)
-
以下、安岡正篤(著)「先哲講座」(致知出版社)より抜粋引用
-
『財は徳から生まれる』
予(よ:自分)弱冠の時、四とせ(四年)がほど、
※弱冠【じゃっかん】
1.《「礼記」曲礼上の「二十を弱と曰ひて冠す」から》男子20歳のこと。
2.年が若いこと。「―二七歳で代議士に当選した」
仙台の儒臣(じゅしん)大槻翁の門に遊べり。
※儒臣【じゅしん】 儒学をもって仕える臣下。
ある日うちつどい輪講なんなし侍(はべ)るとき、
※うちつどう【打ち集う】[動ワ五(ハ四)]大ぜいの人が寄り合う。集まる。
※輪講【りんこう】[名]スル
一つの書物を何人かで順番に講義すること。「論語を―する」
※なんなし【難無し】非難するところがない。差し支えない。
※侍る【はべる】 [動ラ五(四)]
《「はべ(侍)り」が「侍(じ)す」の意に意識されて意味の変化したもの》
身分の高い人のそばに付き従っている。
かしこまってその席などにいる。「芸妓を―・らせる」
大学の「徳は本なり。財は末なり」の章に至り、
予、翁に問いけるは、国窮乏(きゅうぼう)し、
※窮乏【きゅうぼう】[名](スル)
金銭や物品が著しく不足して苦しむこと。「生活が―する」
すでに浮沈にも及びぬらんとする時、
※浮沈【ふちん】[名](スル)
1.浮いたり沈んだりすること。うきしずみ。
2.栄えることと衰えること。うきしずみ。「会社の―にかかわる重大事」
いかほどいみじき才徳の人を得たりとも、
※いみじ【忌みじ】 [形シク]
《「い(忌)み」の形容詞化。忌まなければならないほどひどい、というところから》
善悪ともに程度のはなはだしいさまにいう。
財なからんには、仁も徳も施(ほどこ)してんや。
※施【[音]シ(漢) セ(呉) [訓]ほどこす】
〈シ〉計画を実地に移す。実際に行う。「施工・施行・施策・施政・施設/実施」
◆「施工・施行」は「せこう」とも読む。
〈セ〉ほどこし与える。「施行(せぎょう)・施主・施与・施療/布施」
[名のり]とし・のぶ・はる・ます・もち
かくある時は、財は本にして、徳は末ならんかと。
翁笑うていえらく、
国・天下を治むるに、一日片時も財なきことあたわず。
子(し:学問・人格のすぐれた者の名に付ける敬称)は其財を
いかにして生ずるとおもえるや。
徳をもって生ずるにあらざるよりは、皆さかりている(逆入)の財なるべし。
徳といえば財は其うちにありとこたえられしも、
今を去ることはや十有(ゆう:更にに加えて)五年のむかしなり。……
金子得處『心の儘』
-
大槻磐水は学徳ともにすぐれた傑物で、蘭学に志し、杉田玄白門下の逸材であります。
この人はつきあえばつきあうほど、だれもが敬慕の念を深くせしめられた人で、
(中略)
つきあえばつきあうほど、年を経れば経るほど、敬意・敬慕の念を抱かしめられる
というのは、それこそ本当の人物というものであります。
人間はお互いに敬意をもちあった中でなければ本当のことはできません。
大槻磐水先生はこういう意味で非常に偉く、またできた人物であることは、
いろいろな文献を見ますと間違いありません。
(中略)
その大槻翁の門に遊学して、ある日楽しく輪講(ゼミナール)をやっていました。
そのとき大学の章句の中の名高い一節である「徳は本なり。財は末なり」の章にいたり、
私は大槻先生に、
「国が窮乏して、もはや浮沈の瀬戸ぎわになろうというときに、
どんなすぐれた才や徳のある人がおっても、肝腎の財がなければ、
才だの徳だのと言ったってどうにもならぬのではありませんか。
それを考えると財が本で徳が末だと言えないでしょうか。」
と質問しました。
これは最も常識的な質問であります。
そして世の中の大部分の人は徳だの才だのといっても、
金がないとどうにもならぬと考えておるでしょう。
翁は笑いながら
「一日片時も金がないとどうにもならぬが、君はその金がどうしてできると思うか。
徳がもとで生まれた、真理にかなってできた金でなくては、本当の金とは言えない。
本当の金は徳の中からできるのだよ」
とおっしゃったのは、自分が仙台に遊学していた十五年前の話である……。
この問題は深く追求するまでもなく、少し常識的に考えてもわかることですが、
今日の世相をみましても、金がなければ何もできない。
と言って幾ら銀行をたずねてまわって、借金しようとしても、
金と謂うものができるものではありません。
やはりその人の人物、すなわち徳がものを言います。
「あの人になら貸してやろうか」
とか、あるいは、その人を愛する人や、信ずる人が中に立ってくれて、
銀行の責任者から「あなたがそれほど信用しておられる人なら、何とかしましょう」
というふうになるので、つまりは徳の問題です。
国家も同様であって、世界的に信用をうけ、尊敬されていると、
財は幾らでも運用できます。日露戦争のときなどは、
日本がもっていた国際的な輿望(よぼう…期待、引用者注)が、
イギリスからもアメリカからも援助となって、日本の運命を決定的に強くしました。
この「財」の字は大変面白い字で、貝偏に才を書きます。
貝は昔、貨幣であったことは申すまでもありません。
その貝が現在金にかわっておるわけですが、
また旁(つくり)の才の字は働きをあらわす文字、
つまり『貝が通貨としての働きを示す文字』で、能力という字にも使いますし、
あるいは「わずかに」と読んで、僅少(きんしょう)を示す意味もあります。
※僅少【きんしょう】 [名・形動]
ほんのわずかであること。また、そのさま。「―の差」「―な金額」
そこでこの財というものは非常に大切なもの、有効なものに相違ありませんが、
人間に決定的な力を与えるものではなく、手段方便的なものにすぎません。
これは文字学から見た大変面白い一例であって、やはり財は末であります。
-
『安岡正篤』
-----
(注釈)kadodesmo
いずれ競争になって困難になる。
事業が人間性から滲(にじ)み出た、
徳の力の現れであれば、これを徳業という。
事業家は進んで徳業家にならないといけない。
また、その人の徳が、古に学び、歴史に通じ、
いわゆる道に則(のっと)っておれば、これを道業という。
東洋人は事業だけでは満足しない。
徳業にならないと満足しない。
現代の悩みは、事業が徳業にならないで、
利業・機業になってゆくことだ。
-
『安岡正篤』
-----
徳業なる言葉は、
いまの日本では誰も口にしなくなりました。
わたしも安岡先生の本を読むまでは知らない言葉でした。
しかし、東洋思想及び歴史の勉強をすればするほど、
安岡先生のおっしゃる
「東洋人は事業だけでは満足しない。徳業にならないと満足しない」
ということがわかるようになりました。
それは東洋人、とくに日本人の
「経済よりも道徳に重きを置く」
という江戸時代までは庶民にまでしっかりと根付いていた価値観によります。
それを「武士道精神」とも言います。
明治二十年代から三十年代にかけて英語で書かれて
世界中が注目した、内村鑑三(うちむらかんぞう)の「代表的日本人」や
新渡戸稲造(にとべいなぞう)の「武士道」という本を読めば、そのことがよくわかります。
近代化路線を驀進(ばくしん:まっしぐらに進むこと)した明治時代の日本人には
たしかにまだ「武士道」が根付いていたのでした。
しかし、いまの日本では「風前の灯火」のようです。 (白倉信司:私淑の人)
以下、安岡正篤(著)「経世瑣言」より抜粋引用。
-
宇宙人生の依(よ)って成立活動する所以(ゆえん)のものを「道」と謂(い)う。
「道」は人生に発して「徳」と謂う。
「道」「徳」は決して抽象的なものではなく、
それは産業や学問や芸術やすべての人間生活を勤める文化…「功」となるのである。
そしてそれは実際人間を左右する「力」でなければならぬ。
「功」「力」を離れた「道」「徳」は無い。
たとえ功力を著しく発揮せぬ場合はあっても、道徳はやはり功力を含んでいる。
しかし功力は道徳から遠ざかり易い。恰(あたか)も根幹に対する枝葉の様に。
けれども勿論そんな功力は脆弱(ぜいじゃく)である。
-
『安岡正篤』
-
名文です。道と徳とは何か。それに対して功と力とはどういうものかを
極めてわかりやすく説明されておられます。事業には「功」があります。
それは企業の側に立てば、売上や利益となって現れ、
顧客の側に立てば、便益や効用となって現れます。
その「功」が強くなれば、企業は成長発展していき、
大きな「力」を持つようになります。
これを顧客は「信用」とか「ブランド」と捉えます。
つまり、企業の側に立てば「力」は成長発展となって現れ、
顧客の側に立てば信用、ブランドとなって現れます。
しかし、その「功」と「力」は「道」と「徳」によって裏づけなれねばなりません。
「道」「徳」の無い「功」「力」は、やがてその効力を失います。
いまの日本では大企業、有力企業が引き起した倫理観の喪失による企業事件が頻発
しておりますが、それは「道」「徳」の無い、あるいは失った企業の「功」「力」が
その効力を失う段階で現れた現象と言えるでしょう。(白倉信司:私淑の人)
-
以下、安岡正篤(著)「先哲講座」(致知出版社)より抜粋引用
-
『財は徳から生まれる』
予(よ:自分)弱冠の時、四とせ(四年)がほど、
※弱冠【じゃっかん】
1.《「礼記」曲礼上の「二十を弱と曰ひて冠す」から》男子20歳のこと。
2.年が若いこと。「―二七歳で代議士に当選した」
仙台の儒臣(じゅしん)大槻翁の門に遊べり。
※儒臣【じゅしん】 儒学をもって仕える臣下。
ある日うちつどい輪講なんなし侍(はべ)るとき、
※うちつどう【打ち集う】[動ワ五(ハ四)]大ぜいの人が寄り合う。集まる。
※輪講【りんこう】[名]スル
一つの書物を何人かで順番に講義すること。「論語を―する」
※なんなし【難無し】非難するところがない。差し支えない。
※侍る【はべる】 [動ラ五(四)]
《「はべ(侍)り」が「侍(じ)す」の意に意識されて意味の変化したもの》
身分の高い人のそばに付き従っている。
かしこまってその席などにいる。「芸妓を―・らせる」
大学の「徳は本なり。財は末なり」の章に至り、
予、翁に問いけるは、国窮乏(きゅうぼう)し、
※窮乏【きゅうぼう】[名](スル)
金銭や物品が著しく不足して苦しむこと。「生活が―する」
すでに浮沈にも及びぬらんとする時、
※浮沈【ふちん】[名](スル)
1.浮いたり沈んだりすること。うきしずみ。
2.栄えることと衰えること。うきしずみ。「会社の―にかかわる重大事」
いかほどいみじき才徳の人を得たりとも、
※いみじ【忌みじ】 [形シク]
《「い(忌)み」の形容詞化。忌まなければならないほどひどい、というところから》
善悪ともに程度のはなはだしいさまにいう。
財なからんには、仁も徳も施(ほどこ)してんや。
※施【[音]シ(漢) セ(呉) [訓]ほどこす】
〈シ〉計画を実地に移す。実際に行う。「施工・施行・施策・施政・施設/実施」
◆「施工・施行」は「せこう」とも読む。
〈セ〉ほどこし与える。「施行(せぎょう)・施主・施与・施療/布施」
[名のり]とし・のぶ・はる・ます・もち
かくある時は、財は本にして、徳は末ならんかと。
翁笑うていえらく、
国・天下を治むるに、一日片時も財なきことあたわず。
子(し:学問・人格のすぐれた者の名に付ける敬称)は其財を
いかにして生ずるとおもえるや。
徳をもって生ずるにあらざるよりは、皆さかりている(逆入)の財なるべし。
徳といえば財は其うちにありとこたえられしも、
今を去ることはや十有(ゆう:更にに加えて)五年のむかしなり。……
金子得處『心の儘』
-
大槻磐水は学徳ともにすぐれた傑物で、蘭学に志し、杉田玄白門下の逸材であります。
この人はつきあえばつきあうほど、だれもが敬慕の念を深くせしめられた人で、
(中略)
つきあえばつきあうほど、年を経れば経るほど、敬意・敬慕の念を抱かしめられる
というのは、それこそ本当の人物というものであります。
人間はお互いに敬意をもちあった中でなければ本当のことはできません。
大槻磐水先生はこういう意味で非常に偉く、またできた人物であることは、
いろいろな文献を見ますと間違いありません。
(中略)
その大槻翁の門に遊学して、ある日楽しく輪講(ゼミナール)をやっていました。
そのとき大学の章句の中の名高い一節である「徳は本なり。財は末なり」の章にいたり、
私は大槻先生に、
「国が窮乏して、もはや浮沈の瀬戸ぎわになろうというときに、
どんなすぐれた才や徳のある人がおっても、肝腎の財がなければ、
才だの徳だのと言ったってどうにもならぬのではありませんか。
それを考えると財が本で徳が末だと言えないでしょうか。」
と質問しました。
これは最も常識的な質問であります。
そして世の中の大部分の人は徳だの才だのといっても、
金がないとどうにもならぬと考えておるでしょう。
翁は笑いながら
「一日片時も金がないとどうにもならぬが、君はその金がどうしてできると思うか。
徳がもとで生まれた、真理にかなってできた金でなくては、本当の金とは言えない。
本当の金は徳の中からできるのだよ」
とおっしゃったのは、自分が仙台に遊学していた十五年前の話である……。
この問題は深く追求するまでもなく、少し常識的に考えてもわかることですが、
今日の世相をみましても、金がなければ何もできない。
と言って幾ら銀行をたずねてまわって、借金しようとしても、
金と謂うものができるものではありません。
やはりその人の人物、すなわち徳がものを言います。
「あの人になら貸してやろうか」
とか、あるいは、その人を愛する人や、信ずる人が中に立ってくれて、
銀行の責任者から「あなたがそれほど信用しておられる人なら、何とかしましょう」
というふうになるので、つまりは徳の問題です。
国家も同様であって、世界的に信用をうけ、尊敬されていると、
財は幾らでも運用できます。日露戦争のときなどは、
日本がもっていた国際的な輿望(よぼう…期待、引用者注)が、
イギリスからもアメリカからも援助となって、日本の運命を決定的に強くしました。
この「財」の字は大変面白い字で、貝偏に才を書きます。
貝は昔、貨幣であったことは申すまでもありません。
その貝が現在金にかわっておるわけですが、
また旁(つくり)の才の字は働きをあらわす文字、
つまり『貝が通貨としての働きを示す文字』で、能力という字にも使いますし、
あるいは「わずかに」と読んで、僅少(きんしょう)を示す意味もあります。
※僅少【きんしょう】 [名・形動]
ほんのわずかであること。また、そのさま。「―の差」「―な金額」
そこでこの財というものは非常に大切なもの、有効なものに相違ありませんが、
人間に決定的な力を与えるものではなく、手段方便的なものにすぎません。
これは文字学から見た大変面白い一例であって、やはり財は末であります。
-
『安岡正篤』
-----
(注釈)kadodesmo









