舞台『ナルキッソスの怒り』を観に行きました。
一人芝居って、ファンミみたいなものだなと思う。
お客さんの中にキャストを嫌いな人はまずいないわけで。これは俳優としては、演りやすいのか演りにくいのか、どちらなんだろう?
当たり前だが、2時間もの間独りで語り続けるから、セリフの量がとんでもない。
次々と淀み無く出てくるセリフに、頭の中どうなっているんだろう?と、ぼんやり考えてみたりする。
たとえ1ページ飛ばしていたとしても分からないと思う。他の役者に影響しない分、リカバリーもしやすいかもしれない(裏は大慌てだろうけど)。
最初に「これはモノローグではありません」というセリフがあった。
たしかにモノローグと言うよりも、台本を持たないリーディングアクトのようだった。
舞台セットは、乱雑に家具が散らばった部屋。
場内の影アナウンスも成河さん。
それどころか、開演3分前くらいから客席通路で直接、上演中の注意事項を話し始める。
そこからステージに上がり、前説みたいなトークが始まる。いわく「セルヒオとイギリスで会って意気投合した」「彼が日本に来て、銀座久兵衛で鮨を食べた」「一緒に熱海に行った」と。
しかしその辺で、何とも得も言われぬ違和感が…成河さんてこんな人だったっけ?こんなふうに喋る人だったっけ?
⚠️以下はネタバレが含まれます。
その、私の違和感は的中した。
人間の直感って意外とあてになるものだ。
作品の終盤になると、成河さんが舞台に上がった時、あるいは客席に入ってきたその時から、既に作品が始まっていたのかも、と思い至る。
それは、最後に作中で種明かしがあって、おおむね当たっていた。
"演劇は自由だ"
という事を、あらためて感じた作品だった。
作中で自分を殺してしまう作家も大概だが、登場人物として自分自身を演じる俳優も自由だ。そこにリアルは必要ない。
演劇の世界では何でも出来る。
私がオープニングで観ていた「自分のことを語る成河さん」は、既に「日本の俳優・成河」という登場人物だった。
上着を脱いで、表情を変えたときから作品がスタートしたと見せかけ、実はもっと前から芝居は始まっていた。
この作品は、「オートフィクション」と銘打たれていた。
リアルとフィクションがシームレスになった物語、と理解した。
実在する人物たちや都市を登場させつつ、フィクションを語る。事実を適度に織り交ぜることで、リアリティが増す。
俳優が語る内容は、どこまでがリアルで、どこからがフィクションか分からない。
このやり方でフェイクニュースを作ったら、容易に見分けがつかないほど真実味があるものになるだろう。空恐ろしくなった。
「被害者はフランス国籍の40代男性」と聞いたとき、私の中でセルヒオに死亡フラグが…。
オチはまさかの「自分が死ぬ物語」。
作:セルヒオ・ブランコ
翻訳:仮屋浩子(「ナルキッソスの怒り」 北隆館刊)
上演台本:#仮屋浩子 #成河 #藤田俊太郎
演出:藤田俊太郎
音楽:吉田能
美術:原田愛
照明:杉田諒士
音響:けんのき敦
出演:成河
#ナルキッソスの怒り
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