『私事 ――死んだつもりで生きている』 中村雀右衛門/著

岩波書店 1,680円 四六判 226ページ 2005年1月発行 ISBN4-00-025755-2 C0074

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歌舞伎見人(かぶきみるひと)


■出版社の案内文


遅いスタートのハンデを背負い60歳にならないとものにならないと言われながら,いかに芸を磨いてきたのか.戦争体験,歌舞伎界追放の危機,人間国宝から文化勲章受章へ.当代最高の女形と言われるまでの役者人生を振り返り,芸から学んだ知恵を披露.



■著者からのメッセージ


埒もない繰言,私事ばかりを連ねたような気がいたします.
 自分の恥ずかしいことばかりを書き連ね,果たしてお役に立つことがあるのか.そんな心配もしております.
 あまりに長い生涯も,語ってしまえば,これだけのことにすぎないようです.語っていくなかで,暗いお話,辛いお話を多くしたように思いますが,いつも暗く辛いことばかりあったわけではありません.楽しいこと,嬉しいこともいくつもございましたが,それは自分の心のなかにしまっておけばいいことなのでしょう.
……
 女形として,遅いスタートでした.その遅れが,いつも身体や心の隅に残っており,わたしをあるときは焦らせ,あるときは絶望の淵に立たせもしました.
 投げ出したいと不埒なことを考えたこともありますが,そのたびに,自分の芸に我慢を重ねてやってきました.
 戦前,戦後の女形修業,映画界,大阪歌舞伎――人さまから見れば波乱万丈の生涯,なんと紆余曲折の多い人生だと思われるかもしれませんが,わたしはいつも歌舞伎のことだけを考え,歌舞伎だけを見てきたように思います.それでもままならないことが,人生にはあるものだと痛感いたします.
 長年,明日の舞台こそ満足できるものをお見せしたい,お見せしようと,それだけを考え精進してまいりました.
 上達は遅々として進みませんが,長いあいだには,少しずつ実をつけていたのかもしれません.それでもこの道は,まだまだつづくと思っております.


(「あとがき」より)


■目次


まえがき (←出版社のサイトへのリンクがあります)


第1章 女形というお仕事
  遅すぎたスタート――ハンディがあったから頑張れた
  「60歳にならないとものにならない!」――芸にも人生にも到達点はない
  芸への絶望――燦然と輝く歌右衛門
  自分を消したいと自殺を考える
  色気は技術,好きは心――後悔している女房とのこと
  友右衛門,芝雀――家族のことなど
  歌舞伎役者の母と妻――ふたりの女性との別れ


第2章 歌舞伎役者と戦争
  運の良し悪しも,大きな目でみるとわからない
  嫌なことでも,思い出せるのは生きているからこそ
  生と死は紙一重――蚊帳のなかで惨殺された一隊
  戦争のなかの歌舞伎――だれにもある変身願望
  デング熱とマラリア――ただ空を見ていた


第3章 戦後,混乱期のなかで
  家屋敷を売り払う――マイナスからの出発
  厳しいGHQの規制――手錠をかけられ連行
  風呂屋での歌舞伎――小道具がなかなか届かない
  女性に間違われて男に襲われたことも


第4章 歌舞伎界追放の危機
  映画の世界へ――百倍のギャラなのに「火の車」
  「六世歌右衛門襲名披露」――出演できなかった辛さと和解
  大阪に「左遷」――苦しいときは「時を待つ」
  雀右衛門襲名――鏡は真実を映さない


第5章 豊かで幸せだった子供時代
  全身で吸った大正ロマンの香り
  7歳で初舞台――おしっこを漏らす


終章 そしてまた,限りのない芸の道へ
  年齢の壁を克服――未熟だから,いつまでも若い
  今日できないことは,明日必ずできるようにする


  あとがき



■歌舞伎見人メモ (抜き書きの部分もあれば、まとめた部分もあります。時系列順にお読みいただけるよう、編集してあります。)


●戦前


・小学校へは振袖を着て通っていた。役者の子が振袖を着て学校に通うことも珍しいことではなかったが、

 それほど多くはなかったようで、「変な格好だね」などとからかわれても、「そう?」とおっとりしたものだった。


・父は非常におしゃれな人で、わたしにショートパンツにフリルの付いたブラウスという当時流行した「小公子」

 ルックをさせたりした


・当時は、お世話係の番頭さんと女性がひとり、毎日の洋服を着せてくれる人はまた別という、いまからは

 考えられないほど多くの人のお世話になって育てられた


・実父、大谷友右衛門の弟子として我が家に入ってきた文蔵というお弟子さんがいたが、ほとんどの演目の芸を

 覚えていて、芸を習うというと、まずこの人に教えてもらった。昔は、こういうお弟子さんがどこのうちにもいた。


・最初は家の近くの公立の小学校に通っていたが、九段にあった暁星という私立に移った。その学校には役者の

 子供が通っていたので。学校には車で送り迎えという贅沢さだった。


・いまは寿司やてんぷらというとお座敷でいただくものになっているが、当時は屋台でいただくファストフードだった。


・立役として育てられていたので、十五代目市村羽左衛門など、すごい役者だ、こんな役者になりたいと目を

 凝らして芸を見ていたものだった。自分が女形になるなど夢にも思っていなかったので、女形の芸を見ても、

 どこがどううまいのかということもわからなかった。


・江戸から明治にかけての芝居小屋は、朝の六時くらいから開いていたそう。わたしが通った踊りのお師匠さん

 も、朝の七時には生徒が来たものだった。


・初舞台は七歳のとき、「菅原伝授手習鑑」を子役ができるように書き換えた「幼写劇書初」での、桜丸にあたる

 八重丸だった。


・歌舞伎をする劇場はいまよりたくさんあった時代だったので、子役の需要が大きく、舞台に立つたびに大人たち

 は「かわいいね」「うまいね」とちやほやしてくれた。名子役などといわれ、得意になっていたのか、一回見得を

 切ればいいところを調子に乗って二回見得を切って父に叱られたこともあった



●戦争中


・赤紙、いわゆる召集令状が来たのは昭和十五年の暮れだった。真珠湾攻撃があったのは昭和十六年なので、

 わたしが召集されたのは、日中戦争のためだった。戦局はそれほどひどくない時期だったが、それでも、

 戦死の報はあちらこちらから聞こえていた。

 徴兵検査で、わたしは「頑強というほどではないが、病弱でもない」というクラスだった。その私が召集された

 のは、車の運転免許を持っていたため。当時は車の免許を持っていること自体が珍しかったので、戦争も馬

 から車の時代に入り、免許を持っている人なら猫の手でも借りたいくらいだったと思われる。

 車の免許を持っていたために戦争に行くことになったが、歩兵で行っていたら、果たして無事日本に帰れたか

 どうか。


・歌舞伎役者で戦争に行った人は、知る限りでは、今の尾上松緑のおじいさん、市村羽左衛門のお兄さん、

 中村又五郎さん、岩井半四郎さんのお弟子さんくらい。



・歌舞伎界のなかには、戦争にいかなかった人もいた。どこかに「話をつける」こともできたようで、召集された

 ものの、一日で軍隊から帰ってきた人もいるようだった。方法はあったようだが、父はそういうことはしなかった。



・本来「中村雀右衛門」という名前を継ぐべきだった中村章景さんという人は戦争で亡くなっている。

 彼と家系的なつながりはなかったが、踊りや長唄の稽古先で知り合い、同じ年代ということもあって非常に

 仲良くなり、親戚付き合いのようなことがはじまった。雀右衛門を襲名するはずだった章景さんは、歩兵で

 戦争に行き、亡くなった



・徴兵されたときから、もう日本の土を踏むことはない、もう歌舞伎をやることはできないんだな、と思いながら

 出征した。



・「近衛三連隊」、通称「キンポ三」というのが、最初に所属した隊だった。

 それまでは「お坊ちゃん」と呼ばれて育ったわたしが、いきなり上官に殴られるという環境に入ったが、

 そんな環境に順応できる、できない以前に、それしか道はないわけで、そんなことを考えることもできない

 否応なしの時代だった。


・珠江に上陸したわたしの部隊は、ベトナム、タイ、東アジア、いまのインドネシアへと、どんどん南下した。

 当時の東アジアの国は、フランス、イギリス、オランダの植民地となっており、それらを駆逐するために進軍

 するのだが、占領している国によって都市の色が違った。

 フランス領のベトナムでは、建物の屋根や壁は淡いブルーやピンク、イギリス領はイエローやブラウン。

 オランダ領にしても、開拓が早いので、ジャングルの中にいきなり街が現れ、その街の街灯は透明なガラスで

 できていて、きらきらと輝いていた。

 カーキ色の軍服やジャングルといった色を見慣れた目には、そんな淡い色やイエロー、反射するガラスと

 いった美しい色やものがきれいに見えた。戦争という厳しい日常の中でも、人は美しいものを、心のどこかで

 見たいと探していた。


・戦地では、トラックの運転手になった。医者の部隊の運転手で、前線のあとを、負傷兵などをトラックに乗せて

 野戦病院に運ぶ仕事だった。前線で直接、戦闘にかかわるということはなかった。



・人目につくと狙撃されるので、すごい暑さの中、深い森の中や湿地帯を前進するのだが、湿地帯に入ると

 重いトラックはズブズブと沼地に沈み込んでしまうので、籐で編んだ大きな敷物を敷き、人間が敷物を肩で

 支え、その上をトラックは走った。戦争では人間よりトラックの方が貴重とされていたので。


・戦争の恐ろしさを感じたのは、シンガポールに入ろうかというくらいのとき。トラックを運転していると、目の前に

 土煙がたっており、目を凝らすと、煙のなかから、わあわあと何人もの人がこちらに向かって走ってくる。

 敵味方が入り混じった乱軍というもので、戦闘がはじまったものの、みんな、ただ怖くて、ひたすら逃げていた

 ようだった。トラックを守らなくてはならないので、あわててトラックを樹林の中に隠し、そのときはじめて弾の

 一発や二発は撃ったのではないか。

 目の前で戦闘のありさまを見て、はじめて、戦争は人の命のやり取りをするものだと実感した。


・車を運転していると、一キロ、いや二キロくらい前から、戦場があるなとわかる。それは、死体の臭いのせい。

 南の太陽にさらされて、死体は膨張し、腹が膨らんで、その上をぎっしりと蠅が覆い尽くす。自分もこの人たち

 と同じで、次の瞬間には死んでいくのだと思いながらも、身体だけは機械的に動き、累々とつづく死体と負傷兵

 の中から、息のある兵隊を衛生兵が抱えてきて、トラックの後ろに乗せ、ひたすら病院に向かった。

 傷ついた人を、でこぼこの道を通って運ぶわけなので、野戦病院に着いたときには、半分以上の人は息絶えて

 いたものだった。


・戦争も後半になると、スマトラ島に渡ることになった。スマトラは石油、パーム油、ゴム、コーヒー、天然ガス

 といった天然資源が豊富なところで、日本軍もその資源が目的で占領したわけだが、敵国もその資源の

 重要性を知っていたので、あまり空爆されないところだった。


・現地の人の日本への抵抗も強く、蚊帳を吊って寝ていると、夜中に現地の人に奇襲攻撃を受け、蚊帳の紐を

 切られて身動きできなくなったところを全員殺されるというやり方で、一つの部隊が全滅したこともあった


・フィリピンのルソン島に渡った部隊は、戦闘末期になると非常な飢えと激戦にさらされたようだったが、

 スマトラではある程度まで食糧は輸送されていたので、いつもお腹は空いていたが、飢えに苦しめられることは

 末期になるまであまりなかった


・父、大谷友右衛門の死を知ったのも、スマトラに駐屯していたとき。地方公演で鳥取に行ったときに地震に

 あい、建物の下になって亡くなった。


・戦争も終わり近くになると、軍医たちのあいだから、慰安会をやろうという話が出た。慰問袋に「京鹿子娘道成

 寺」のレコードが入っていたことから、それを踊りたいという酔狂な人がいたため。歌舞伎を見たこともない人

 だったが、白拍子の格好をしてみたいという。「あなたは歌舞伎のプロです。そんな方に、中途半端なことを

 させるのは申し訳ない。だからプロデューサーとして、いろいろ教えてください」と懇願された。

 華僑のところに行き、衣装や鬘らしきものを作り、行った。


・道成寺をやったのが面白かったのか、次は「白浪五人男」をやりたいと、みな口ぐちに言うのだが、みんなが

 みんな「弁天小僧をやりたい」と言う。五人分の弁天小僧の衣装を作り、「五人弁天小僧」をやった。


・戦地では、「デング熱」という、蚊に刺されて発病する感染症にかかり、高い熱と出血に苦しんだ。ただぼんやり

 と、横になって熱が下がるのを待つしかできることはなかったが、半月ほど寝ていると、幸いなことに熱は

 だんだん下がっていった。


・戦争が終わり、帰国の船に乗った後も、途中の島で下船を命じられる兵隊が大勢いた。インドネシア復興の

 ための作業をするためだった。幸い自分は、一度もそれにはひっかからず、無事日本に帰ることができた。



・日本に帰って2年目に、マラリアにかかっていることがわかった。舞台の上で、震えに襲われ、七三で跳び

 上がったときに一気に熱が出て、再び花道に足を下ろしたときには、気を失っていた。



●戦後① ~女形への転身~


・昭和二十一年、十一月、日本に帰ってきた。二十六歳だった。青春の一番いい時期の六年間を戦争に取られ

 てしまったという無念な気持ち、成長のある時期が空白だという無念さは、その後ずっと自分の中にうごめいて

 いる。


・戦争中に父が亡くなり、戦争から帰ってきた後、結局歌舞伎で生きるしかないと決心。当然立役を、と思って

 いたが、父の葬式の手配などしてくださり、何かと面倒をみてくれた七世松本幸四郎から、女形になるように

 言われたたときには、それはもうびっくりした


・戦争から帰ってきて、七世幸四郎の付き人を1年間ほど勤めている間に、幸四郎は私を女形にしようとの心積

 もりがあったのか、女の所作や踊りをさせられたが、自分は女形になるなんて思ってもいなかったので、

 一年ほどの付き人生活の後、「女形になれ」との話が出て、猛練習がはじまった


・歌舞伎の世界では、自分で「立役になる」「女形になる」と決めることはできない。先輩や親が、本人の資質を

 見て判断する。「女形になりまさい」と言われれば、「はい」と答えるか、役者をやめるしかない。「はい」と

 答えるほかなかった。


・女形になるためには、少なくとも十二、三歳ころから、修行をはじめなければ、使いものにならないといわれる。

 三歳年上の名優、六世中村歌右衛門は、三歳のときには、もう自分は女形になると決めていたという。

 一方、自分のスタートは二十七歳で、少なくとも二十年以上のハンディがある。追いつけるはずもないと思った


・戦後の厳しい時代、舞台には立ったものの、とてもそれで生活できるわけではなく、三度の食事を一度に、

 あるいはお金がないので「食べるものがないな、仕方がない、今晩は食事をしないでおこう」という日が何度も

 あった


・踊りの会のために、母は御徒町の家屋敷を売ってお金を作ってくれた。父は戦争中に地震で亡くなり、病弱

 だった兄も戦後すぐに病気で亡くなった。



●戦後② ~女形としての最初の数年~


・女形になって最初の何年かは、父の死で頼るもののない身だったことや、兵隊あがりなのに一生懸命やって

 いるという同情もあったのか、いろいろな方が引き立ててくださり、恵まれてはいたが、女形の基礎のない人間

 だったので、ひどいものだった


・役の上では実力以上に恵まれていたので、それがまた苦しみの種になり、肩身が狭い思いがした。ほかの

 役者の反感に苛まれたこともあった。


・女形として最初に演じたのは、「源平布引滝」の小万と「御所五郎蔵」の逢州だった。スタートとしてはとても

 大きな役で、夢中で型を体に叩き込んだ。が、型はどうにか形になっても、型から型へうつるあいだの空間の

 動きが皆目わからなかった


・男ばかりの世界なので、稽古をしていると、お互い、「この野郎」と思うことはしばしばあるが、逆にいえば、

 「この野郎」と思えるのは、小さなこと。もっと本質的なことなら、腹を立ててなどいられず、対策を立てないと、

 役者としての自分が使いものにならなくなっていく


・当時、努力しても努力しても、満足な芸が身に付かないような思いばかり抱いていた。自分のそばには、

 女形として燦然と輝いていた六代目歌右衛門がいらしたが、一方に光り輝く高い山があれば、谷は深く暗くなる

 ように、劣等感にさいなまれていた。

 ねたみはなかった。芸に感嘆する気持ちは、ねたみといった感情さえ越えてしまうもの。ただ、自分の芸の

 未熟さを悔しいと思う気持ちはあった。


・どんなに努力しても、二十七歳から女形を始めたというハンディを埋めることができず、三十代の半ばを

 すぎた頃、「いくらやってもだめだな」と自分を見限ろうとし、自分をなくしたい、消してしまいたい、という気持ち

 になった。役者をやめようという考えはなかった。自分から歌舞伎を取ったら、何も残らない。死ぬか、我慢

 するか。二つの選択肢しかなかった。

 ホテルの部屋から身を投げようとしたが、前日は開いた窓が、その日はどうしても開けることができず、

 はっと我に返り、命を絶つことで、すべて「かたがつく」と考えた自分を恐ろしく思った


・戦後、占領軍GHQの政策により、歌舞伎の演目の多くが上演禁止になってしまった。地方まわりをしていた

 とき、「朝顔日記」の深雪を演じたところ、MPが現れて「ああいうものは演じてはいけません」と言う。

 「朝顔日記」は、お家騒動を背景にした悲恋物語で、恋しい人を思って盲目になった深雪のため、もとの家の

 奉公人が自分の腹を切って、血を飲ませるという話だが、忠義のために、奉公人が犠牲になるのはけしから

 んというわけで禁止されていた。結局、手錠をかけられてGHQに連れていかれてしまったことがあった。


・戦後、歌舞伎復興のためにドサまわりをしていた役者には、七世幸四郎、海老蔵、三津五郎らがいた。


・地方公演をプロデュースしてくれたのは、堀倉吉さんという高麗屋の番頭をしている方だった。戦後の歌舞伎に

 いろいろ尽力された方だった。


・地方公演先では、楽屋に潜んでいた男に女性と間違えられ、抱きつかれたことがあった。前日に興行を行って

 いた団体の女性と思い込んで忍びこんできたようだったが、当時は楽屋にも出入りは自由、女優さんたちが

 危ない目にあうことも多かったのでは。



●映画に出演した5年間


・映画の世界へ迷い込んでしまい、歌舞伎界追放の危機にあったこともあった。映画という経験をへて、より

 大きくなって帰ってきた歌舞伎役者さんは幾人もいらっしゃるが、自分の場合は、心ここにあらず、常に

 歌舞伎に帰りたいと思いながらやっていたので、芸の上ではなんの役にも立たなかったばかりか、

 実力もまだまだなのに、知名度だけ上がってしまい、歌舞伎に戻った後、かえって辛い思いをした


・映画に出演するようになったきっかけは、東宝に「佐々木小次郎に出演しませんか」とスカウトされたこと。

 大男のイメージが定着している佐々木小次郎だったので、自分はその任にないと思い、「ほかのなんとか衛門

 さんとお間違えなのではないですか」と確認するが、「間違いありません」とおっしゃる。「女形の修行をしている

 身で、映画のことはまったく知りません。小次郎を演じるなど想像もつきかねます」と、徹頭徹尾お断りしたが、

 「何もできないからいいんです」と相手も引きさがらない。

 一度話が立ち消えた後、再び東宝の方から話があり、監督まで説得に来られた。それまでの「マッチョで大男」

 の小次郎を、優しい二枚目に変えたいという意向だった。


・戦後歌舞伎の復興に尽くされた堀倉吉さんは、高麗屋の岳父や白鸚、松緑のお兄さんの番頭をしている人

 だったが、「ほかに稼ぐ場所がないと、歌舞伎役者をつづけていくのは大変ですよ。お金がかかる商売だから」

 とおっしゃる。映画界から誘いが来たという話をすると、「身体が空いているんだったら、アルバイトみたいな

 ものだと思ってやったほうがいいですよ」とのアドバイス。映画のギャラは、当時の歌舞伎でいただくお金の

 百倍くらいはあったので、ある程度お金が入ったら歌舞伎に戻るつもりで、「小次郎」に出演することにした。


・結局出演した「佐々木小次郎」は大ヒットし、一躍人気者になってしまった。これが自分の首を絞める結果となった。



・映画に誘ってくれたのは東宝で、歌舞伎のほかに映画も手掛けていた松竹にとっては商売敵。これがのちに

 大きなトラブルのもとになった。


・歌舞伎の舞台もあり、映画の約束もあり、それに映画は拘束時間が天候によって左右されるので、撮影が

 長引いて、お兄さん方に、幕間を待たせるという失礼なことも起きる事態になってしまった。

 「あいつ、生意気だな」「あいつ、映画ばかり出ていてだめだな」「もう歌舞伎には戻れないだろう」という声が

 聞こえてきた。

 決定的だったのは、「六世歌右衛門襲名披露公演」に出演できなかったとき。襲名披露公演は昭和二十六年

 四月に行われ、このときはどうにか出させていただいたが、五月にも襲名披露公演が行われ、これに出演

 できなかった。映画の撮影にかかり、契約上、そちらを優先させねばならなかったから。ここに来て松竹からは

 「けしからん」という声が大きく聞こえてきた。

 大変お世話になった歌右衛門のお兄さまの襲名披露に休演してしまった申し訳なさと失望は、どのようなこと

 ばでも語ることはできない。お兄さまとのあいだには、見えない壁ができたかのように、しばらくは近づくことも

 話しかけることもできなかった。


・映画を一本撮るたびに、これで歌舞伎に戻ろう、と決心しもしたが、一度大金を得て莫大な税金を払ってしまう

 と、次の年にも、また大きな額の税金を払わなくてはならず、その税金を払うために、また映画に出る、という

 悪循環に陥ったまま、三十本もの映画に出演。そこから抜け出せなくなってしまった。


・三十五歳のとき、松竹の大谷会長が「映画のほうはいい加減にして、もう歌舞伎に戻ってきたほうがいいんじゃ

 ないの」と言ってくださったときには、大喜びで会長のことばに従った。会長が税金の肩替りをしてくださり、

 映画界からようやく自由になることができた。家屋敷を売り払い、車も処分し、それでもいくらか借金が残って

 しまったが、歌舞伎をやれるだけで満足。



●映画から歌舞伎に戻った後


・映画から歌舞伎に戻ってきたが、自分の居場所はなくなっており、具体的には、相手役に使ってくださる方が

 いなかった。女形は、立役の「あいつを相手役に使いたい」という要望があって務めることが多い。これまでは

 「可哀相だから、あいつを使おう」という先輩の引き立てがあったが、岳父が亡くなり、映画に出ていて迷惑

 ばかりかけていたので、指名がいただけなかった。


・「ほとぼりが冷めるまで、大阪に行ったほうがいいな」という大谷会長の一言で、大阪行きが決まった。そのため

 また、「友右衛門、歌舞伎界を追放か」という声も聞こえてきた


・大阪で修行を積み、東京に戻ってくると、映画と大阪行きとで十年も東京の舞台を離れていたので、活動の場

 はなくなっていた。立女形から一転して腰元役に甘んじなくてはならなくなった。そんな逆境のころ、襲名の話

 が出た。


・四十四歳のとき、四代目中村雀右衛門を襲名した。雀右衛門の家と自分の家とは本来関係はなかったが、

 本来継ぐべき章景さんとわたしが仲が良くなり、彼が戦争に行き亡くなってしまったことから、彼のお母さんが

 「女形になるなら、雀右衛門の名前を継いでもらえないだろうか」という話があった。

 そのお母さんが亡くなるとき、「雀右衛門の家の名前は全部あなたに預けるから」と遺言を残してくださり、

 次男の芝雀の名前も、その家からいただいたもの。


・先代の雀右衛門は関西の方で、亡くなって四十年近く経っていたので、お弟子さんもほとんどいない状態で、

 先代の芸を教えてくれる人がおらず、雀右衛門の芸を再現することはできなかった。名前をいただいただけで、

 芸まで伝承することはできないが、女形としてより大きな名前にできるよう精進するだけ。



●芸談

・役者にとって、色ごとは芸ののこやし、とはよく聞く言葉だが、女房以外の人を好きになったことはなかった。

 女房以外に、二人の方とお付き合いしたことはあったが、先方から好意を示していただき、成り行きから

 お付き合いすることになった。自分から積極的に近付いた人は女房以外にはいなかった。


・女房は、七世松本幸四郎のお嬢さんだったので、結婚当時は、政略結婚だとかいろいろ言われた。


・役者に色気は大切だが、それが女性とのお付き合ゆいから出るとは、自分は考えていない。もし自分の舞台に

 色気があるとするなら、長年鍛えた技術のゆえ。指一本の動かし方、声音の出し方、指の角度、首の傾げ方、

 視線の先、声の高低、間の取り方・・・


・八十歳を超えて止められてしまったが、普段のわたしはオートバイにも乗っていたし、ジムに行くとマッチョな

 体になりたいと思ったりもした。もともと立役だったので、普段の生活はむしろ男っぽいように思う。

 女形は足腰が強くないとできないが、立役とは鍛える筋肉が違うので、男性的な身体にならないよう鍛えるが、

 男性的な身体になりたいと無性に思うときもあった。


・オートバイ、スキー、スケート、ダンス、麻雀と、自分は多趣味な人間。


・女形という道に入れてもらったものの、ストレスは非常に大きかったためか、それをオートバイで解消していた

 節もあった。


・今住んでいる家は、洋風の居間にソファ、猫足のテーブルに椅子と、歌舞伎役者の住まいらしくないが、

 いったん舞台を離れると歌舞伎からも離れたい。そうでもしないと、四六時中、歌舞伎のことで頭がいっぱい

 になってしまう。


・いま一番後悔しているのは女房のこと。結婚してすぐに「女形になれ」ということだったので、朝から晩まで

 歌舞伎のことしか頭になく、女房は大変だったのではないかと思う。

 すぐに現・友右衛門、それから芝雀と子供が二人生まれて、芝雀は未熟児で生まれたものだから身体が弱く、

 しょっちゅう入院していた。

 家庭を顧みる暇も余裕もなく、夜も遅く帰るので、子供の起きているときの顔を見たことがないほどだった。

 芝居の道しかない男と一緒になった女房を可哀そうに思う。


・女房だけでなく、子供たちにも父親らしいことはなにひとつしてやれなかった。夏休み、冬休みといっても、

 どこにも連れて行ってやれず、可哀そうなことだった。

 次男の貞幸(芝雀)は身体が弱くて、お茶の水の小児科に入退院を繰り返していたが、自分の芸に自信を

 失っていたころだったので、あまり見舞いにも行けなかった。

 歌舞伎役者の家庭は、女房との共働きのようなものなので、子供たちの面倒は、ほとんどばあやにみて

 もらっていた。自分も女房も、歌舞伎役者の家庭で育ったので、普通の家庭というものを知らなかった。


・息子はふたりとも、幼い頃から舞台に立っており、歌舞伎は好きなようだった。才能がないまま歌舞伎役者の

 道を選ぶことは苦労させるばかりだと、子供を役者にするつもりはなかった。


・芝雀の記憶では、父は「人は働くために遊ぶんだ。遊ぶために働くんじゃない」と言ったそう。

 わたしは趣味も多いが、趣味を仕事に生かすということではなく、あまりに歌舞伎のことを思いつめるので、

 息抜きのため。

・歌舞伎界というのは、かつては踊りや唄が好きで上手な人が、弟子や養子に入るという形で継いでいくもの

 だった。血のつながりで継承していくのは、むしろ最近のこと。


・日舞では、練習中に鏡を見てはいけないという。型にはまってしまうから。人間は鏡を前にすると、どうしても

 そこに映った姿に頼ってしまい、自主的にやろうという心がなくなってしまうから。鏡は真実を写さない、と

 自分は思っている。いまの自分には師匠もいなくなってしまい、叱ってくれる人もいなくなってしまったので、

 仕方がなく、鏡に映った自分に「だめだし」をしている


・歌舞伎界は、先輩後輩の厳しい縦社会。いまではわたしが先輩になってしまったが、中身はまだまだなので、

 舞台の前には、立役は当然として、一緒に舞台に立つ方には、自分から挨拶に伺う。