『仁左衛門恋し』 小松成美/著

世界文化社 2,100円 A5判 226ページ 2002年7月発行 ISBN978-4-418-02512-X

http://www.sekaibunka.com/book/exec/cs/02512.html



歌舞伎見人(かぶきみるひと)


■出版社の案内文

寡黙の人、片岡仁左衛門が初めて明かした「死生観」「役者魂」
「一声 二顔 三姿」という歌舞伎役者の優れた天分の条件を、三つとも兼ね備えた役者、片岡仁左衛門。

恵まれた容姿と豊かな演技力で、現在の歌舞伎界の人気を背負う第一人者が、自ら語る激動の半生、

死生観、そして役者魂。



■目次


      はじめに 片岡仁左衛門


第一章 十五代目 仁左衛門の芸

      大宰府訪問 『菅原伝授手習鑑』と片岡仁左衛門


第二章 人気者 片岡孝夫

      特別な存在感


第三章 他流試合

      Become another self


第四章 今、そして未来へ

      こんぴら歌舞伎台芝居 観劇記


特別対談 父と子 司会・小松成美


仁左衛門演目解説



■歌舞伎見人メモ (抜き書きの部分もあれば、まとめた部分もあります)


●この本の中で、もしかしたら一番面白いページではないかと私(歌舞伎見人)が思っております「はじめに」より~


・私という人間は、矛盾点も多く、短気でのんびり屋で、理屈っぽくて理屈が嫌いで、また大雑把な性格と

緻密な性格等々、とにかく相反するものが同居しているのです。したがって、自分をベールに包み隠したい

私と、すべてをさらけ出したい自分もあるわけで、今回その後者が過ぎたようにも思うのです。


 私は人さまに夢を見ていただく仕事をさせていただいている人間ですから、不特定多数の方に昔の苦労話や

不遇時代の話をお聞かせしないほうがよいのではと思っているのですが、(中略)ついついお喋りが

過ぎてしまったと反省しております。


・また、文中私の信念や人生観などもっともらしく話しておりますが、それは建前のようなもので、決して私自身

そんな出来た人間ではございません。


・こういう本の挨拶文の中で、出版に当たっての協力者に「この場を借りてお礼を申しあげます」などとよく

書いてありますが、私はどうも抵抗を感じるのです。そんなことは直接本人にいえばよいことで、

わざわざ本に書くことではないと思うのです。ところが、常からそう思っているにもかかわらず、なぜかやはり

この場を借りて今回お世話になったスタッフの皆さん、特に(聞き手の)小松成美さん、また世界文化社の

吉田秀徳さんに心からお礼を申し上げたくなってしまうのです。


 こういういい加減な私ですから、この本も私の話のところは、それこそいい加減に読み流していただければ

幸いでございます。



●以降は本文より~


・仁左衛門の名を襲名する話が最初に松竹の永山会長からあったのは、九一年。

仁左衛門は兄が継ぐべきだと思っていたし、襲名することが決まってからも自分のなかでしっくりこなかった。


 その後、九二年の十二月二十六日、南座の顔見世打ち上げの席で倒れ、緊急入院。二百三十四日の

入院生活を送るが、その間に、波に逆らうのではなく、波を自分の人生で活かすべきと思うようになり、

迷いが吹っ切れた。そして九五年二月に襲名発表の記者会見をし、九八年に襲名披露の舞台が行われた


・本名の「片岡孝夫」で演じていた時代は、「いつでも自由でいられる。いざとなれば歌舞伎役者をやめること

だってできる」という余裕が心の中にあり、自由でいられることを楽しんでもいたが、仁左衛門を襲名し、

そんな気分でいることは許されなくなった


・仁左衛門という名前を名乗ることは、老舗の暖簾を受け継ぐようなもので、仁左衛門が持つ”芸に対する心”を

継ぐということがいちばん大事なこと。単に十三代目を「コピーする」ということではない


・役者はとにかく注目してほしいと思っているもの。仁左衛門の名前を継承する責任も負ったが、孝夫では

到底届かなかった注目ももらえるようになったのは、役者冥利に尽きること。


・死ぬことに対して恐怖とか嫌悪感はまったくない。”あの世”の存在を信じているので、この世にだけ執着して

いいのかと、疑問を持っていた。輪廻転生があるとしたら死ぬことも必然。だから、殺されるのは絶対に

嫌だけど(笑)、いつ死んでもいいという気持ちはあった。


 だから、病気と闘ったというより、流れに任せ、結果的に病気が治ったことは、天命であり、生かされた以上は

使命を全うしたいと考えている。


・闘病中、口から食物を摂れない期間が長くあったが、夫人は食べ物の匂いすらしないように努力し、

自身もほとんど食事をしなかった


・呼吸を楽にするために、石が喉を切開しようとしたとき、夫人が「役者の喉は切らせない」と言ったこともあった


・女形を演じた回数は本当に少なく、大人になってからの女形は岩藤、八汐、「身替座禅」の奥方ぐらい。


・立役、女形に限らず、悪役はエネルギーが感じられて魅力的な役が多い


・スポーツなら点数や打率で評価を勝ち取ることができるが、芸というものに基準を設けるのは非常に難しい。

だから役者は、最後の結果を拍手に求めるようなところがある。舞台で拍手を受けたときは、一人ではなかった

といううれしさに包まれるから。


・拍手をいただければ、どんな疲れも癒せるが、芝居によっては、嫌な気分をお客様に残して終わる演目もある。

こういう芝居は、役者も疲れがドーッと出てくる(笑)。こんなときカーテンコールがあれば助かるのだが。


・舞台に立っている間は、うぬぼれることも大事。あんまりうぬぼれが激しくても困るけど(笑)。うぬぼれが

表に出てしまっては、お客さまは鼻を摘む。でも、舞台に立つときには、今日のお客様は皆さん自分を観に来て

くださったんだとうぬぼれて、とにかく私はいい役者なんだ、少々ヘマをしてもお客さまは喜んでくださるんだ、

というくらいに思いこむ。そいういううぬぼれも大事。


・歌舞伎は初日を迎えるまでの稽古が粗いので、歯車がかみあうようになるのは、やはり三日目ぐらいから。


・役者がもっともきついと思うのは、病気になってしまったとき。でも、言い訳はできない。満足な演技を見せられ

ないというのは自分の責任。そんなときには、体調不良の自分をさらけ出して甘んじて批判を受けるしかない。


・芝居が終わってぐったり疲れるというのは、いかに力んでいて下手くそかということにもなる。自分よりはるかに

年上の方が大役を演じられても、終演後ば僕よりお元気な方が大勢いらっしゃる。


・大阪から一歳のときに京都に移り住み、二十二歳で結婚して、二十三歳で東京に越してきてから現在まで

東京暮らし。京都への愛着は強いが、自分を京都人だとはあまり思わない。むしろ無国籍人(笑)。性格的には

江戸っ子気質の面もあると思う。松嶋屋は関西の系譜だが、父も東京日本橋生まれで、母はちゃきちゃきの

神田っ子。


・江戸弁には、現在は使っていない発音やイントネーションがたくさんあるが、自分がその江戸弁を話すと

「関西の役者だから、訛っている」と思われてしまうことがある


・昭和十九年に片岡家の三男として生まれたが(八人兄弟の七番目)、幼い頃から歌舞伎役者になることは

意識していた。兄弟全員、役者になりたかった。


・父の十三代目は鉄道マニアで、乗るだけじゃなく、ダイヤにも興味があって時刻表は全部頭に入っていた。

新しい時刻表が出ると、その日のうちに買ってきて暗記が始まる。物凄く几帳面だったけれど、生真面目な

だけじゃなく、ユーモアもあって凄く楽しい人だった。


・初舞台は「夏祭浪花鑑」の市松で、五歳のときだった


・小学生の頃から、お稽古ごとで友達と遊ぶ時間がほとんどなかったので、「もっともっと遊びたいな」とは

思っていた。でも、たとえば踊りの稽古なんかに行くと女の子がいっぱいいるので、それは楽しかった(笑)。


・お稽古でいちばん嫌だったのは義太夫。先生と一対一だから緊張するし、語る言葉が難しいし、

つまらなかった。文楽で義太夫をなさっている方に教えていただいていたので、稽古は文楽の舞台が

終わった後の夜遅くからで、眠くなってしまうときもあった


・小学校の高学年にもなると、稽古をサボりたくもなった。いつも何とか抜け出そうと作戦を考えていて、

お弟子さんに「どうぞお先に」「どうぞどうぞ」と順番を譲ってあとに回り、自分の順番が来たら

「あっ、僕もう行かな、時間ですので失礼します」って(笑)。


・上の兄とは九つ違うのでライバルにはならなかったが、二男の秀太郎とは三つ違いなので、子役の頃には

ライバル心もあった。兄は本当に上手で、いい役をどんどん持っていってしまう。心の中では「うらやましいなぁ」

と思っていた。秀太郎は頭もいいから覚えも早い。あの人は褒められてばかりいた。僕はもう「アホ」ってばかり

言われていた(笑)。秀太郎の兄は、祖母や父にもいちばん可愛がられていたと思う。


・秀太郎の兄は、大人になって、交通違反をして罰金を払わなくてはならなくなったとき、父の前でシュンとして

「父さん、僕ねぇ、罰金払うお金ないしね、警察行って務めてきますわ」と、言うんですよ。父は「そんなこと

かわいそうや、ちょっと(罰金)払うてやって」ってなことになる(笑)。


・役者の家に生まれて辛いなと思ったのは、唯一、学校に行けなかったこと。忙しければ一ヵ月も休むことも

あったので、どうしても勉強が皆についていけず、クラスに好きな子もいるのに、答えられずに立たされて

恥をかくこともあった。小学高学年のころは、仕事の後帰宅すると、母が頼んだ家庭教師が待っていて、

夜十時すぎから勉強をするのだが、半分居眠りしながらでぜんぜん勉強にはならなかった


・高校に入学して、ドラマに出演していた頃、歌舞伎役者をやめようと思ったことがあった。関西歌舞伎が

衰退し、仕事がなくなってきたから。東京の歌舞伎は盛況だったが、今のように関西の役者が東京で仕事を

するということはあまりなかった。


・昭和三十年代当時、関西歌舞伎が下火になった原因には諸説あるが、いろいろなことが重なってのこと

だった。名優が相次いで亡くなられ、先代鴈治郎のおじさんや扇雀、鶴之助、雷蔵、鯉昇という兄さんたちが

どんどん歌舞伎界から映画界へ去ってしまわれた。当時は映画が大変な人気で、新しいものへ注目が集まる

という風潮があり、伝統芸能への関心が低くなっていった。テレビの進出も影響した。歌手の方たちが、

舞台に立つようにもなった。そういう状況があり、歌舞伎という芝居の需要が減少してしまった。


・歌舞伎の仕事が減っていく中で、秀太郎と「何か副業の商売をしたほうがいいんじゃないか」ということになり、

お店を経営しようと計画を進めた。あの頃、いちばんやりたかったのは、喫茶軽食からお酒まで出して、

夜になるとお座敷から舞妓さんや芸子さんがお客さんと一緒にそこに繰り出す店。

でも、そんな店はとても無理なので、小さなスナックパブのような店から始めようと、秀太郎の兄と相談した。


・関西で歌舞伎を、という思いで、最悪の場合は自宅を手放す覚悟で借金して、十三代目が自主公演

「仁左衛門歌舞伎」を旗揚げしたとき、周囲の方たちは「無謀だ」と言ってらっしゃった。

「仁左衛門歌舞伎」という名前になったのは、芝居の赤字はすべて松嶋屋さんが背負うんでしょ、だったら

責任を持つ意味でも「仁左衛門歌舞伎」にするべきですよ、と、記者の方たちに強く薦められたため。


・前売りなんて劇場の窓口では十枚も売れれば上等だった時代なので、松竹の方たちには、「借金抱えて

自主公演なんかしてそうするんですか、お金かけて成功するなら、私たちがやってます」と言われた。

昭和三十七年八月に行った第一回目の公演は、同情票が集まったのか、前売りの初日には数十人の

お客様が窓口に並んでくださった。


・第一回の仁左衛門歌舞伎の当時、十八歳だったが、「ひらかな盛衰記」の船頭、「夏祭浪花鑑」の

下剃り三吉などを演じた。第二回は「義経千本桜」の小金吾、第三回には「女殺油地獄」の与兵衛を初演した。


・「仁左衛門歌舞伎」は第五回をもって終焉。三兄弟の勉強芝居「若松会」へ移行していった


・関西歌舞伎のために闘っていた頃、二十二歳のときに小学校の同級生の博江さんと結婚。 一、二年が

同じクラスだったが、当時は意識することはなく、舞妓に出た彼女と十五、六の頃に再会して付き合いが

始まった


・東京に来たのは、誰かから呼ばれたわけではなく、会社に頼んで自分のほうから押しかけた。最初は役も

付かず大変だったが、中村屋のおじさん(十七代目勘三郎)や喜の字屋のおじさん(守田勘弥)が

目にかけてくださったおかげで、役が増えた。特に喜の字屋のおじさんには、玉三郎君とのコンビという

新たなチャンスをいただいた


・当時、孝夫と玉三郎のファンクラブまででき、歌舞伎界に起こった新しい波だった。貼ってある二人の

ポスターははがされて持って行かれ、それから会社はポスターを売るようになった


・「お染の七役」を花形歌舞伎で玉三郎君が演じることになったとき、喜の字屋のおじさんが、僕に盗人の

鬼門の喜兵衛をやりなさいたとおっしゃった。それまで、こういう傾向の役をやったことがなかったし、

自分のニンじゃないと思ってた。それに、あの役は肌を脱がなければならないが、痩せているから肌脱ぐのは

嫌いだった。それではっきり「嫌だ」と言ったが、おじさんは「絶対にやれ」と言い、仕方なく受けた。

ところがそれが、大好評となり、それ以後、”ごろつき”のような役もやれるようになった。


・いちばん最初に若手歌舞伎をやったとき、どこまで興業的に成功するのか、会社も暗中模索だったので、

必死で宣伝もした。テレビのモーニングショーに全員で出たり、前売りのときにサイン会をやったりした


・玉三郎君とは、プライベートではほとんど会わなかった。芝居の事でよくケンカもした。


・長い間、「片岡孝夫」という本名で舞台に立っていたが、名前を変更する話は色々あった。

でも、家にある名前はそう多くなく、片岡家の血族が継ぐ名前は、仁左衛門、我當、我童、芦燕ぐらい。

秀太郎というのは十一代目の本名。気がついてみたら、「片岡孝夫」がすっかり定着していた。


・クイズ番組で司会をしたこともあったが、十五分番組だったのでテンポが速く、しかもほとんどがアドリブ

だったので、舌が回らなかったり、どもったりでNG続出。不評ですぐに打ち切りになった(笑)


・九〇年に「ハムレット」を演出家として上演したが、脚本、美術、衣装まで全部やった。劇場の空間設計から

手掛けた。設計は子どもの頃からの趣味で、玄人はだし。唯一失敗したのが椅子の高さで、自分の座り心地で

計算してしまったので、少し高くなってしまった。


・演出の仕事はどんなに忙しくても台詞を覚える必要がなく、楽しかった


・アメリカ、フランスで公演を行ったことがあったが、玉三郎君がカーテンコールが好きで、

拍手が弱くなったので「そろそろやめようよ」と言っても手を引っ張って出て行った。


・歌舞伎にも、照明演出家のような人がいるが、百パーセントその人たちに任せる役者と、自分の意見を

取り入れてもらう役者に分かれる。自分は照明の注文はうるさい方。


・メーカーと提携して、着物のデザインもやっている。デザインといっても、百パーセント完璧に描いている

わけではなく、リクエストを出して、専門家に描いてもらう。デザインは夫人と一緒にやっている。

今では自分は色を決めるくらい。売れ行きを観ながら一年間に何作品もデザインする。値段は実は高い。

値段を決めているのは僕ではないですけどね。(笑)


・孝太郎は子役として舞台に出ていたが、風邪で高熱が出てふらふらになりながらでも舞台に上がり、

彼の泣き言は一度も聞いたことがなかった


・誰にも強制しなかったのに、三人の子供全員が役者になってしまい、自分がいちばん驚いている


・”芸”に遺伝子の力は関係ない。遺伝子よりもむしろ環境。芸は血統だけで決まるものではない。


・二〇〇二年四月に金丸座のこんぴら大芝居でやった「すし屋」のいがみの権太では、新しい表現を

取り入れた。この役はそれまで縁がなかったので、文楽のやり方を調べ、いろいろな方の演じ方を調べる

ことからスタートした。「すし屋」の演じ方には、東京式と上方式があり、自分は上方式でやった。

これまである上方式を踏襲するだけではなく自分の工夫も取り入れた。


・本来、演劇って互換で感じるものだと思う。文明、文化が発達して、だんだん頭でだけ考えることが先行して、

人間の感覚がボケてきているように思う。雰囲気を体で感じれば、言葉なんてのは二次的な問題のはずで、

歌舞伎の台詞だって障害にはならない。それでも「何言ってんのかわかんないから、つまんねえや」

と言う人は、寂しいねぇ(笑)。


・孝太郎は慎重で、どちらかといえば臆病な子供だった。向こうから車が来たら、早くから塀にピタッとくっついて

しっかり避けていた。



●孝太郎さんへのインタビューから~


・父は歌舞伎役者になることを決して強制しなかったが、自分自身がどうしても役者になりたかった。

舞台に上がったらお客さまから大きな拍手をいただき楽しくて楽しくてしようがなくなった。小さい頃から

あの感激を味わっちゃったら、もう、やめられないですよ(笑)。


・中学生の頃、視聴覚委員というのをやっていて、ホールの照明を担当していたが、「裏方でもいいので

舞台や演劇に携わりたい」と思うようになった。


・子供って自分を見てほしいもの。赤ん坊だって、注目を集めるためにいろいろ面白いしぐさをする。

人から見られていることがうれしくてたまらない。それを大人になってもやっているのが役者。

注目されたくて、それで拍手もお給料もいただけるなんて、幸せですよ(笑)。


・結婚前、歌舞伎の舞台が終わってから、二時間近くかけて現夫人の博子さんを家まで送っていたことがあった