『勘九郎ぶらり旅 因果はめぐる歌舞伎の不思議』 中村勘九郎/語りおろし

 集英社 1,500円 1999年3月発行 ISBN4-08-775249-6

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歌舞伎見人(かぶきみるひと)

■出版社の案内文


「忠臣蔵」の秘密を知っている京都・養源院の血天井。「髪結新三」の閻間堂を訪ねていって、「四谷怪談」の三角屋敷に出会った驚き…。ゆかりの地へ行ってびっくり、演って納得。勘九郎の旅土産。


■目次


第一章 内蔵助への旅

   赤穂にて

   山科閑居

   血天井と内蔵助

   本所松坂町と泉岳寺


第二章 両国橋から

   鋳掛松

   藤間の宗家

   柳橋の水熊

   百本杭


第三章 背景 四谷様

   源五郎と三五郎

   『忠臣蔵』と『四谷怪談』の関係

   祟り


第四章 深川の情緒

   新三の世界

   辰巳芸者

   深川の男たち


第五章 謎解きの旅へ

   俊寛の謎

   とんびと一本刀

   虎穴に入らずんば

   謝罪の墓

   道成寺物語

   沢市の杖


第六章 旅の終わりに

   玄冶店

   親子丼

   そんなことまで白浪の


   あとがきにかえて


■歌舞伎見人メモ (抜き書きの部分もあれば、まとめた部分もあります)


●忠臣蔵


・播州赤穂は、昔から浅野家の所領だったわけではなく、元は宇喜多氏の所領で、関ヶ原の戦いの後

 池田輝政の所領になったが、この家が絶えたので、幕府の命令で、常陸笠間から浅野長直という名君が

 やってきた。二代目は長友という人で、家督を継いでたった四年で亡くなったので、その子の長矩が

 わずか九歳で家督を継いだ。これが忠臣蔵で知られた浅野内匠頭。


・赤穂には浅野家の菩提寺、花岳寺があり、初代藩主の長直や二代目の長友、そして長矩と四十七士の

 墓所がある。囲いの真ん中に内匠頭、その右に内蔵助、左に主悦の墓があって、それをコの字型に、

 他の義士たちの墓が囲んでいる。

 墓に刻まれた戒名には刃とか剣の二字が入っていて、彼らが切腹によって死んだことを表している


・刃傷事件後、早駕籠の使者を勤めた早水藤左衛門と萱野三平は、腹に晒木綿を固く巻いて内臓をぐるぐるに

 締め付けていた。無茶苦茶揺れるので、そうでもしないと腸と胃がぐちゃぐちゃに絡まってしまうので。

 彼らの乗った早打ち駕籠は、駕籠一挺に4人以上の人足がついて、宿駅ごとに交代の人足が待っていて、

 すぐ次の駅に走り出す。これが可能だったのは、赤穂藩が参勤交代のときに各宿場で金を使っていたからと

 いわれている


・NHKの大河ドラマで「元禄繚乱」をやることになったとき、大石内蔵助役の打診があったが、

 自分の任は判官か勘平なので、最初はお断りした


・内蔵助は、妾に産ませた子が死ぬと、自分の家の墓にいれたらしい


・大石家は浅野長矩まで、三代にわたって家老をつとめていた。内蔵助という名前は、家老になるとつけた名前

 なので、代々大石内蔵助という名前で、忠臣蔵の内蔵助は、正確には大石内蔵助良雄といわなければならない


・よく吉良邸というと、本所松坂町というが、これは間違い。松坂町というのは、討ち入の後、大火があって、

 その時にはじめて松坂町という名前をつけた。当時は「本所無縁寺裏通り」とか「本所二ツ目」とか呼ばれていた


・忠臣蔵の外伝に「松浦の太鼓」というお芝居がある。この話は、討ち入の当夜、吉良邸の隣家で開かれていた

 句会にでていた其角が、討ち入支度をして挨拶に訪れた源吾に会い、事情を察知して「わが雪と思えば軽し

 笠の上」 と詠むと、源吾が「日の恩やたちまち砕く厚氷」と詠んだという、規格の手紙をもとに作られたお芝居。

 松浦鎮信という殿さまはいなかった。

 いま、両国橋のたもとにこの句が彫られた石碑が建っている。


・両国橋は、武蔵の国と下総の国の両方にまたがる橋だから、両国橋


・『仮名手本忠臣蔵』では、両国橋引揚を十一段目につけることがあるが、実際には両国橋は渡っていない。

 たまたま十五日は大名の登城の日にあたっていたので、大石たちは表通りを避け、目立たないように、

 本所一ツ目の河岸から深川に抜け御船蔵後通りを横切って、隅田川に沿って永代橋を渡り、

 霊岸島、稲荷橋を通って築地鉄砲洲に出た。浅野の昔の藩邸があったところだ。

 それから汐留橋、金杉橋を渡って、芝口に出て朝の八時頃に泉岳寺に到着する


・僕が意外な展開に驚いたのは、七段目の寺坂平右衛門。この役を僕に演ってくれって、玉三郎のお兄さんが

 いうんだよ。『仮名手本忠臣蔵』での僕の役は、判官か勘平だから、最初は断ったんだけど、どうしてもと

 いうんで、親父も一度も演ってない役を引き受けた。
 (中略)
 はじめて演ってみたけど、なかなかおもしろかった。
 玉三郎のお兄さんにも、褒められたよ。
 「よかったよ」
 っていうから、「嘘でしょ」っていったら、
 「あんたが自分でいいと思っている役より、よっぽどいい」
 だって。失礼だよ(笑)。


●荒川の佐吉


・最近やった舞台で、両国橋についての台詞が出てきたのが『荒川の佐吉』。

 「両国界隈は女子供の遊び場だ」

 昔はこのあたりは賑やかで、見世物小屋とか飲食店とかあって、安全な場所だった


・『荒川の佐吉』のなかで、こんなこともいう

 「ありゃあ、誰だぁ 地回りか」

 「いや、矢の倉で嫌な奴ですよ」

 地回りっていうのは、その土地が縄張りのヤクザのこと。

 「矢の倉」というのは、昔、両国河岸の付近は、俗に「矢の倉」と呼ばれていた。なぜ、そう呼ばれていたかというと、

 二代目団十郎が『矢の根』の五郎で大当たりをしたので、座元が「矢の根倉」を建てたところなんだそう


・両国橋が造られる2年前の明歴の大火の時、隅田川の西側で多くの焼死者が出た。火に追われた人たちが

 まだ橋のない大川端で逃げ場を失って焼け死んだので、幕府が橋をかけたんだそう。

 当時としてはかなり大きな橋で、だから大橋と呼ばれてて、隣の新大橋は、この大橋に対してつけられた名前


●鋳掛松


・河竹黙阿弥の作品で、『鋳掛松』(正式には『船打込橋間白浪』)と言うお芝居があり、貧しい鋳かけ屋の

 松五郎が、両国橋から大川を眺める場面がある


・原作では、両国橋とは書いていないが、百本杭も出てくるし、回向院にお参りするっていう台詞も出てくるから、

 松五郎が道具を投げ込んだ橋というのは、間違いなく両国橋だと思う


●髪結新三


・両国橋を西に渡ってしばらくいくと、薬研掘不動院があるが、薬研掘といえば、『髪結新三』にこんな台詞があった

 「白銀町の観音様へ夜参りに行った帰りがけ、和国橋の髪結床へ引きずり込んだがはじまりで、

  薬研掘や西河岸のご縁日を当て込んで・・・」って、言うんだから、新三は深川からこのあたりまで来てたんだね


・初演の頃、深川2丁目にある法乗院というお寺に新しい閻魔堂があって、訪ねてみたけれど、あまりの

 変わりようになにも感じなかったことを思い出した。見上げれば、高速道路があって、目の前も一般道路で、

 ただ行き交う車の騒音がうるさいだけで新三の匂いがしない。すると突然、同行の編集者が本を開けてこう言った。

 「このお寺、昔はここにあったんじゃないみたいですよ。区画整理でここに移ってきたみたい。昔は、

 深川一丁目五番地って書いてありますよ」
 深川一丁目五番地にいってみると、閻魔堂があったと思われるところに来た。橋(閻魔堂橋)もなければ川も

 ないが、雰囲気ですぐにわかった。近所のおじさんに聞いてみたら、昔は川と橋があった。


・南北はこの近くの黒船稲荷神社付近に住んでいたらしい


・江戸の中心と別世界、その間をつなぐのが、江戸の橋の役割だったわけだ。深川に行くには、永代橋だよ。

 だから、『髪結新三』には永代橋は欠かせないわけだ


・新三の家は、二幕目に「富吉町の場」っていうのがあるように、深川で、永代橋を渡って八幡様の方へ少し

 行ったところの長屋にあったわけだから、日本橋の方から来ると、材木町白子屋お熊を匿ったのは、永代橋を

 渡ったら左の方へ行くってことだね


●お祭佐七


・両国橋西詰に戻って道路を渡ると、柳橋。この橋の下を流れているのは神田川。だから、柳橋という橋は、

 隅田川に流れ込む最下流にかかっていることになる。

 ここも昔は花街で、柳橋芸者で有名。天保の改革で江戸の花街が弾圧され、それが緩みだした頃に、

 深川の芸者が三十人ほど柳橋で商売を始めたのが、花街になったきっかけ


・歌舞伎の中で柳橋の芸妓というと、『お祭佐七』の主人公の小糸。倉田伴平っていう武士に連れられて、

 柳橋の売れっ子芸者の小糸が鎌倉河岸で踊りを見ていると、そばに居合わせたのが鳶の佐七。

 小糸の家があるのが、この柳橋。


●瞼の母


・最近演った舞台で柳橋が出てくるのは、『瞼の母』。そう、番場の忠太郎。江戸へ出てきた忠太郎が、

 幼い時に別れた母親を探す。それで柳橋の料理屋水熊の女将おはまが、自分の母親だとわかる


●三人吉三


・柳橋を抜けてもう一度両国橋を渡り、川沿いを北の方に行くと、『三人吉三』のあの大川端に出る


・三人吉三が気持ちよくうたいあげた場所はどこかというと、「大川端庚申塚の場」。いまで言うと、

 両国橋上流の左岸だといわれている。

 なぜ両国橋上流でも、左岸、つまり墨田区の方かというと、最初に、八百屋お七に化けていたお嬢吉三が、

 通りかかったおとせに亀戸までの道を聞くよね。

 おとせの方は割下水の家へ帰るところで、ついでだから、途中まで案内しようっていうでしょ。その道筋から

 いっても、左岸じゃないか、っていうのがひとつ。

 それともうひとつ、左岸には昔、波よけのためにたくさんの杭が打ってあって、この付近を「百本杭」って 

 いったんだって。その杭に足を乗せて、台詞をいうことになっているから、場所が限定できたっていうことだよ。

 いまでいうと、墨田区の横網あたりだね、きっと。


●十六夜清心


・同じ黙阿弥の『小袖曽我薊色縫』、通称『十六夜清心』にも、この百本杭が出てくる。

 清心と十六夜が水に飛びこむところは、隅田川だ。

 ところが皮肉なことに、十六夜は助けられ、清心はもともと泳げるため死ねず、百本杭につかまり、死に損なう。

 清心はせめて十六夜の父に金を貢ごうと、十六夜の弟を知らずに殺してしまう。

 もう一度自殺しようとするけど、大川を往来する屋根舟の騒ぎに、とうとう悪い心を起してしまうわけだ。

 一緒に心中しようとしたところも、清心が悪い心を起して台詞をいうところも、「百本杭の場」なんだね


●盟三五大切


・平成十年のコクーン歌舞伎で、『盟三五大切』を演って、おかげさまで大成功だったけれど、なかには

 歌舞伎で見るのに比べて、すべてが「チープ」だなんていってた、とんでもない評論家がいたけど、

 一瞬、ムッとしたね。

 あれは、歌舞伎のひとつのアレンジとして、こういうことをやったらどうだろうっていう挑戦というか、

 冒険みたいなものだから、「チープ」なんていわないで、一緒に応援してもらいたかったね。

 これまでの型にこだわらず、歌舞伎座で演るのとちょっと違うように、演出していただいたのだから。


・源五兵衛は、深川から四谷まで三五郎と小万を追いかけていくんだから、源五兵衛っていう男もかなりしつこい。

 

・この芝居は、かなり反響があった。

 もちろん、いい芝居だったといって褒めてくれた人が多かったけど、さっきの「チープ」じゃないけどさ、なかには

 「こんなのは歌舞伎じゃない」っていう人もいた。

 現代劇の笹野孝史さんに出てもらったんだけど、台詞もしぐさも現代調で調和を乱しているっていうのが

 その言い分だけどさ、こういう挑戦ができるのが、コクーン歌舞伎のいいところだって思ってもらえなかった

 ようだ。こういうのが、悔しいよね。


・小万が侍に身請けされるという芝居をうち、源五兵衛の金を奪おうとするのが、深川の八幡宮の境内にあった

 二軒茶屋。


●東海道四谷怪談


・序幕は「浅草観音堂の場」。左門の娘お袖は、生活のために浅草観音の額堂の前で楊枝を売る店に勤め

 ながら、夜は地獄宿に出ている


・四谷に住む伊右衛門のもとに戻ったお岩は、男の子を産む


・顔が変貌していくところ、ここはすごく凄惨な場面なんだけど、演っている僕としては、一番いいところだね。

 だって、お岩が薬を口にふくんで、湯を飲めば、それであの顔になってしまうことを、お客さんはみんな知って

 いるんだから。シーンとして見てるわけでしょ。
 それが舞台の上ですごくよくわかる。お客さんの視線が全部、僕に向いているわけだから。それこそ、息を

 のむって感じで、僕の方に吸い寄せられてくるんだから。
 だから、ゆっくりと演りました。役者にとって、こんなに見つめられる場面って、そうはないから。
 (中略)ねっ、怖いでしょ。でも演ってる方はかなり気持ちがいいんだ。


・伊右衛門が帰ってきて、押し入れに隠れていた小仏小平を惨殺し、「世間へ見せしめ、二人の死骸戸板に

 打ちつけ、姿見の川へ流して、すぐに水葬」 この姿見の川っていうのは、早稲田の近くの面影橋のあたりを

 流れていたんだってね。昔は、面影橋のことを、姿見橋っていってたらしいから。伊右衛門浪宅は雑司ヶ谷に

 あったわけだから、そうだよね、きっと。


・お岩伝説の発祥地、四谷左門町、いまの新宿区左門町には、お岩様が祀られているけれど、行ってみると、

 細い横町一つ隔てて、二つあるんだから。
 ひとつは白木造りの「於岩稲荷田宮神社」。東京都の旧跡になっていて、芝居関係者の参拝が多くて、劇場や

 役者の名前が玉垣に刻み込まれている。
 宮司さんに聞いて驚いたのは、お岩さんと伊右衛門、実際にはとっても仲がよい夫婦だったとか。南北が、

 怨霊が出たという伝説を、さらに生産な芝居にしたのだから、かなり悪い奴だ(笑)。
 

 それから、同じ名前の神社が日本橋の方にもあったらしい。この左門町の神社が大火で焼けたんで、

 初代市川左団次がたまたま越前堀に土地があって、そっちへ移したけど、そこがまた戦災にあったため

 ここに戻ってきたんだって。


・ややこしいことに、筋向こうに稲荷明神と福禄寿と弁天様を合わせて祀った「於岩稲荷荷陽運寺」というお寺が

 あって、ここにもお岩稲荷があり、史跡田宮邸跡と、やっぱり都の史跡になっているから、変だよね。

 江戸時代、このあたり一帯は御家人の組屋敷があったところなんだって。『四谷怪談』のもとになった

 田宮伊織もこのあたりに住んでいたから、どちらも関係があるわけだけど。
 それで、田宮神社が日本橋の方に行ってしまっている間に、別に「お岩稲荷」がここにできていたんで、

 ここに二つの祠が対立しちゃったみたい。


・その他、巣鴨の妙行寺というお寺にも、お岩さんのお墓があるから大変だ。だから、僕たちが『四谷怪談』を

 演る時は、三か所参りが欠かせないんだ。


・祟り?ありますよ。本当にあったんだ。それも、うちの親父。
 うちの親父が四谷様にお参りに行き、いただいた大事なお札を床に置きっぱなしにしといた。そうしたら、

 うちの姉さん、久里子さんの足がおかしくなって、急にピョコタンピョコタンって歩くようになっちゃったんだ。

 怪我も何もしてないのにだよ。
 それで親父は御札を置きっぱなしなのに気がついて、あわててまた四谷様にお参りに行って謝ったそうだ。

 そしたら姉さんの足がすぐに治ったっていうんだから。


・江東区に砂町ってあったでしょ。あれは人の名前なんだってね。江戸時代にこのあたりを砂村新四郎っていう

 人が開拓して、新田にしたんだって。だから当時は、このあたちには人家なんか何もなかったみたいだね。
 で、火葬場があって、堀の名前もそこから出た俗称で「隠亡堀」って呼ばれてただけで、別にそういう名前の

 堀があったわけじゃないらしいよ。
 うん、実際にそのあたりへ行ってみた。
 お岩様にちなんでつけられたっていわれる名の橋があって、下の堀端まで下りてみたんだけど、いまは遊歩道

 もついているいい公園になってたね。そこが「戸板返し」の舞台だったっていわれても、誰も信じないと思う。


・「戸板返し」っていうのも、じつは本当にあった話なんだって。ある旗本の妾が仲間と密通をしていることが

 わかって、男女は戸板に釘付けにされてなぶり殺しになって、神田川に流されたっていう事件が当時実際に

 あって、それを南北が芝居に取り入れたみたいだね


・深川の閻魔堂があったという場所を見つけて行ってみたら、三角屋敷の跡が残っていることまでわかった


・大詰めの「蛇山」は、本所蛇山で、墨田区の吾妻橋から業平橋にかけての地域にあった地名だって。


・直助権兵衛っていうのも、本当にいた極悪人の名前だってね。もともとこの男は深川万年町に住む医者の

 下男だったけど、主人を殺して金を奪って逃げて、麹町の米屋に奉公しているところを捕まった。

 主人を殺したんだから極刑。江戸引き回しの上、磔になった。
 彼は、最初は直助、逃亡中は権兵衛と名乗っていたけど、不思議なことに、同じ日に権兵衛という悪人が

 処刑され、その男と区別するために、直助権兵衛という名前で呼ばれたんだって。だから、当時は、かなり

 知られた悪党の名前だったんだね。


・『忠臣蔵』のような、きれいにまとまった人間ドラマを表とすれば、その裏には、人間そのものが持っている業が、

 さまざまな事件を形づくっているのだということを、四谷様の芝居を通して、後世に伝えるのが僕の仕事だと

 思います。


●梅ごよみ


・江戸末期の深川を舞台に、芸者同士の粋な争いを艶やかに描いたのが、この『梅ごよみ』。
 同じ芸者でも、辰巳芸者っていうのは、意地が売り物。江戸前で、粋で、男言葉なんか使っているくせに、

 情にもろくて、面倒見がいい。芸者は数多しといったって、お国から羽織を着ることを許された芸者衆は、

 この辰巳芸者だけだもの。
 だから、深川では芸者のことを「羽織」っていったんだ。で、芸者たちの名前も、米八とか仇吉とか、

 男名前にした。自分のことを「わっち」とか「あちし」とかいったりするんだから。


・深川の芸者は足袋もはかない。素足。


・当時は歌舞伎役者の奥さんって、九十九パーセント、花柳界の人だった


・当時の芸者さんのしぐさで印象に残っているのは、駆けるポーズ。掛けるしぐさって、普通は腕を縦に振る

 でしょ。ところが元芸者衆の皆さん、両肘を張って、曲げた両腕を左右に振るんだ。


・辰巳芸者を代表する言葉に、「お侠」というのがある。ちょっと反抗的で、一本筋が通ってて、権力を徹底的に

 馬鹿にする。


・こんな深川を舞台とする芝居はたくさんあって、『東海道四谷怪談』の「三角屋敷の場」もそうだし、『謎帯一寸

 徳兵衛』では深川・洲崎を舞台に殺人が行われる。『盟三五大切』でも、源五兵衛の五人斬りが深川二軒茶屋

 の近くで行われるし、芸者小万を深川八幡の巫女だっていって、伯父富森助右衛門をたばかってる。

 『文七元結』の左官屋の長兵衛も、深川の住人だ。


●縮屋新助


・深川八幡、別名富岡八幡宮のお祭りは、江戸の三大祭で、この深川の祭が舞台に使われるのは、黙阿弥の

 『八幡祭小望月賑』、通称『縮屋新助』と、宇野信夫先生の、『巷談宵宮雨』


●巷談宵宮雨


・『巷談宵宮雨』は、深川黒江町の長屋に、太十という遊び人が住んでいて、そこへ牢から出てきたばかりの

 伯父の僧、龍達が転がりこんでくる


●刺青奇偶


・好きな役の中で、深川うまれの男が手取りの半太郎。
 深川に生まれた江戸っ子なんだけど、生来の博打好きで、人と喧嘩をして牢に入り、江戸所払になって、

 上総の国の行徳に行きつく。


●文七元結


・『文七元結』の長兵衛は、本所達磨横町に住む左官。文七が吾妻橋から川に身を投げようとしているところに

 出くわす


・人間って、そう簡単に性根は変わらない。だから、文七に出会ったけれども、お金なんか渡したくない。

 僕の長兵衛は、その時、こんな台詞を入れてる。
 「誰も通らねえな、ちきしょう、誰か通ったら譲ってやるのに」
 これ、うちの親父の長兵衛にはない台詞です。志ん生さんの落語にはあります。


●俊寛


・俊寛の舞台といわれる場所はいろいろある。
 鹿児島県の南の海に散らばる鬼海十二島総称説、
 大隅諸島の硫黄島、
 奄美諸島の喜界ケ島。


 硫黄島の隣に、喜界ケ島っていう島もあるし、一般的にそっちの方が正しいとされてきたと思うんだけど、

 僕はどっちかというと、俊寛が流された島イコール硫黄島だという説をとる。硫黄島は別称喜界ケ島とも

 いわれているし、硫黄岳が噴き上げる硫黄が青い海を染めているし、島には俊寛堂、俊寛河原といった

 俊寛ゆかりの遺跡も残っている

 

 一方、喜界ケ島の方にも、俊寛の墓といわれる墓石があって、どっちも伝説の地であることは間違いない


 俊寛が流されたのは硫黄島に違いないと僕が思う根拠は二つ、千鳥がいう「むぞか者」という言葉は、この島

 でしか使っていないらしい。また、京都の祭とよく似た祭が硫黄島にもある。俊寛が島の人たちに教えたんだと

 思う


●一本刀土俵入


・舞台になるのは利根川。かつて本当に「安孫子屋」っていう茶屋旅籠があって、そこに行ってみたら、

 船着き場まで見渡せる


●娘道成寺


・道成寺は和歌山県日高郡の川辺町というところにあるお寺で、千三百年ぐらい前からある由緒正しいお寺。

 安珍清姫の伝説で有名で、通称、鐘巻寺。


・不思議なことに、この寺には鐘がない。鐘堂の跡だけが残されている。住職の説明によると、火事で焼けて、

 道成寺を再興する時に鐘も作ったが、祟りがあるっていわれて、使わずにしまっておいたところ、豊臣秀吉の

 根来攻めの時に戦利品として持っていかれた


・ある日、京都でタクシー運転手に岩倉にある妙満寺という聞いた元もない寺に案内されたとき、そのお寺には、

 なんと、道成寺の釣鐘が於いてあった。
 住職にいわれを聞いてみたら、豊臣秀吉の根来攻めで勝利を収めた仙石権兵衛、道成寺から奪った戦利品

 の鐘を戦の合図の道具として使っていたんだけど、戦闘が終わったので、その鐘を京に運ぼうと思って大八車

 に乗せて妙満寺の前まで来たら、その大八車が押せども引けども動かなくなった。これは何かのご縁だろうと、

 その鐘をこのお寺にあずかってもらうことにした。以来、道成寺の鐘は、このお寺にある。


●玄冶店


・玄冶店『与話情浮名横櫛』で、与三郎がお富を訪ねてくるところ。


・最近では橋之助が演ってたね。みんな演りたがるんだよね。でも、なぜか僕はこのお芝居が好きになれない。

 どこがおもしろいんだろう。


・芝居では、これは「鎌倉雪の下の下源氏店」となっているけれど、事実上は日本橋の玄冶店をさしている


・この玄冶店って、変な名前だけど、昔、幕府の医師だった岡本玄冶法印という人の土地だったところから、

 その土地に建てられた家のことをそう読んだんだって。いまふうにいえば、玄冶ハイツっていう感じ。


・このお芝居も、実際にあった事件をもとにして書かれているんだってね。
 長唄の師匠、四代目芳村伊三郎が、上総の国木更津の親分明石金右衛門の妾お政とできちゃって、

 傷だらけにされて江戸に帰された。それでナシがついて、ふたりは世帯を持つことができて、やがて「おとみ」

 という娘が生まれたっていう話。


・いまの人形町がそうだっていうんで、行ってみたら、もうその面影なんか何もない。
 玄冶店の碑が立っているって聞いたけど、それも昭和四十三年に建てられたっていうんじゃしょうがない。


●白浪五人男


・『白浪五人男』の稲瀬川勢揃いの台詞、あれ、演ってると嫌なもんなんだよ。順番にいっていくんだけど、

 「さて、その次に控えしは……」っていったはいいけど、次が出てこないっていう失敗談はいくらでもあるよね。
 ある役者さん、赤星十三郎の台詞で詰まったから大変だ。
 「またその次につらなるは、以前は武家の中小姓、(中略)今牛若と名も高く……」
 ここで詰まった。しかたなく適当に作っていいはじめた。
 「今牛若と名も高く、竹に涙のホトトギス、ぐるっと回って竹に虎……」
 まったくのデタラメなんですよ。あげくに、
 「島に育ったその名さえ、弁天小僧……」
 っていったら、隣に、
 「ちがう、ちがう」
 っていわれて、
 「……に使われている赤星十三郎」
 なんていったって話があるよ(笑)。


・中座の公演のとき、僕が急病になって、僕のやっていた弁天小僧を橋之助が演ることになって、
 橋之助が演っていた忠信利平を急遽、浩太郎さんに代わってもらったんだ。
 ところが、浩ちゃんって女形だからさ、白浪五人男なんて演ると思っていなかったから、大変だよ。

 必死で台詞を覚えて、花道に並んだまではよかったんだけど、そこで固まってしまったんだよね。

 あっ、どうしようって思ったら、花道の一番近いところに座っていたお客さんが、小さな声で台詞をつけて

 くれて、結局最後まで台詞をつけてくれたんだって(笑)。

 
●牡丹灯籠


・代役で僕が困ったのは、『牡丹灯籠』。お峰役の福助が急に倒れちゃったんだ。伴蔵役の八十助が、

 「頼むから、お峰を演っておくれよ」って。引き受けたのはいいけれど、さあ、大変だ。『牡丹灯籠』のお峰なんか

 やったことがない。しかたがないから、うちわ五本に台詞を書いた。うちわじゃ足りなくて、ありとあらゆる

 ところに台詞を書いた(笑)。


・いざ蚊帳を吊ろうとしたら、福助用に吊られているから、僕の背じゃ届かないんだ。
 「届かないよ、福助の背が高いんだよ」
 って思わずいっちゃったら、福助休演をお客さんが知ってるから大爆笑。その後は何をいっても、大笑いだった。
 八十助が「お峰、鋤を出せ」っていっても、そんなの本当にどこにあるか知らないから、
 「そんなこといったって、あたしは知らないよ」
 なんて台詞にない夫婦喧嘩になって、また大笑いだ。


●京鹿子娘道成寺


・「いますぐにでも演りたいのは何ですか」と聞かれたら、やっぱり第一は『京鹿子娘道成寺』。


・玉三郎のお兄さんの美の極致の白拍子もいいけど、かわいらしい勘九郎の『道成寺』も、ぜひ楽しみにしてて

 ほしいね。


●法界坊


・ぜひ演ってみたいのは、踊りなら『道成寺』だけど、芝居でいうと、『法界坊』


・これを僕が演る時には、入念な準備が必要なんだ。
 なぜかっていうと、僕らの世代というか、ちょっと上の世代で演ったのは、菊五郎、吉右衛門、それに猿之助

 といった兄さん方でしょう。
 どうせ演るなら、この兄さん方に負けない『法界坊』にしたいし、「勘九郎の法界坊」といわれるような舞台に

 仕上げなければいけないわけだから、丁寧に演りたいんだ。
 喜劇だったら誰にも負けない自信もあるし、近いうちに準備を完了して、絶対演るからね。期待してて。



●いろいろ


・最近、唐十郎さんのお芝居を見に行った。
 その後、飲み会があって、唐さんが歌舞伎を書いてくれるという約束をとりつけた。
 この時は、ほんと、飛び上がるほどうれしかったね。
 まだ期限は決まっていないけど、唐十郎作の歌舞伎ができたらすごいよ。野田秀樹も
 いつか書いてくれるっていうしさ、ますます僕もやる気が出てくるというもんだよ。


・僕が遊びたい盛りの頃でも稽古を嫌がらなかったのは、踊りの稽古場に行けば行ったで、遊び相手に

 不自由はしなかったし、宗家の人たちがよくしてくれたから


・うちの息子なんか、まだ四つか五つの時から、何かと台詞をいってたもの。
 東京駅の階段でつまづいて、前のめりになったら、何ていったと思う?
 「おっと、あぶない、ちゅるぎのまい」だって。
 道明寺の所化の「まいまい尽くし」だよね。そう、まさに門前の小僧だ。
 ああ、こいつ、大きくなったら役者になるなって、その時思ったもの(笑)。


・僕は子供の頃からお寺が好きで、京都のお寺は特に好きで、ほとんどの寺に行った。庭を見て心静かに

 休日を楽しんでいたわけだ。
 ところが、ところがですよ。
 あの八十助に、祇園に連れていかれてからというもの、とたんにお寺参りじゃなくて、こっち参りになっちゃった

 (笑)。
 行かない、行かない、お寺なんかほとんど行かずに、京都に行ったら祇園だった。
 (中略)
 十五の春だよ。高校一年になる前の春休みだったんだから。