『二代目 聞き書き 中村吉右衛門』 小玉祥子著

毎日新聞社 1,890円  2009年9月発行 ISBN978-4-620-31954-4

http://books.mainichi.co.jp/2009/08/post-4bb4.html



歌舞伎見人(かぶきみるひと)


■出版社の案内文


〈宿命というものがあるならば、二代目吉右衛門こそ、それを背負って生きてきた人である──〉。

いかにして「二代目・中村吉右衛門」は生まれたのか。

生い立ちの秘話から思春期の葛藤、吉右衛門襲名後から円熟期に至るまで、

「誕生」「初代との別れ」「恋と苦衷」「東宝離脱」「結婚」「四姉妹」「秀山祭」など

名役者の生きざまを余すところなく描いた魂の実録。

中村吉右衛門自らの手による序文、初舞台から「さよなら歌舞伎座公演」までの詳細な年譜付きで、

待望の単行本化!


■目次


序 中村吉右衛門


一 誕生

   初舞台

   名優の死

   長兵衛と長松

   初代との別れ


二 立役と女方

   新劇とスクリーン

   自主公演

   萬之助と辰次郎と

   東宝入り

   進路

   恋と苦衷

   ばあばあの死


三 襲名発表

   三大女優との共演

   心中天網島

   熊谷陣屋

   木の芽会

   東宝離脱

   結婚


四 菊五郎劇団

   声

   歌右衛門

   弱点

   白鸚

   こんぴら歌舞伎

   実母

   長谷川平蔵

   海外公演

   継承

   松貫四

   俊寛

   四姉妹

   秀山祭


あとがき


中村吉右衛門 年譜

          系図


■歌舞伎見人メモ (抜き書きの部分もあれば、まとめた部分もあります)


・東京の歌舞伎界では「二代目」と言えば二代目市川左団次を示す


・二代目吉右衛門の母方の祖父である、初代吉右衛門は明治から昭和期までの演劇界を代表する名優で、

 身内のこしらえた借金のために子供のころから子供が大人の役を演じる「子供芝居」の舞台に立ち、

 座頭として活躍し稼いでいた

 

・初代吉右衛門は六代目尾上菊五郎とは「菊吉」と並び称され、華を競い合ったが、

 六代目の父が江戸歌舞伎の名門、菊五郎家の直系であったのに対し、

 初代の父の三代目中村歌六は関西出身のわき役俳優だった。初代は一代にして自身の地位を築いた


・戦時、歌舞伎座も新橋演舞場も1945年5月の空襲で焼失し、初代吉右衛門や娘婿の白鸚は

 疎開先を拠点に軍需工場などの慰問公演を重ねた


・二代目吉右衛門の妹さんが、兄のことを久信ちゃんと言えずに『おぶちゃん』と読んでいたので

お弟子さんたちも若旦那のことを、おぶちゃんと言っていた


・二代目吉右衛門は体が弱い子供で、カルシウムを取らせる必要があると確信した「ばあばあ」のたけは

 朝晩メザシを食べさせていた


・二代目吉右衛門が幼少の頃、実父の白鸚は舞台盛り、母も夫とともに劇場に出かけ、兄の現・幸四郎が

 初舞台を踏んでからはばあばあも兄につき切りとなり、ひとりで遊びにいそしんだ


・初舞台は「御存俎板長兵衛」の長松と、「ひらかな盛衰記・逆櫓」の駒若丸。長松はご機嫌で出ていたが、

 駒若丸は初代が立ち回りをして血だらけになるのが怖く、出番前の化粧中に泣きだして収拾がつかなくなり、

 代役を立てる羽目に陥った。(千秋楽まで)


・戦前までの歌舞伎界には主役だけでなく、脇役にも何台も続く俳優の家系があったが、現代では

 脇であればあるほど、親が子を俳優にしたがらない傾向にある


・吉右衛門には父方の祖父である七代目幸四郎の記憶はほとんどなく、

 「唯一の記憶は、祖父が『よく来たね』と白いガムを一個出してくれたことです。物を貰うというのは、

 子供には強烈な印象なんですねえ」


・吉右衛門は冗談を言ってはよく人を笑わせる子供だった。洋服は兄の現・幸四郎のお下がりのことが

 多かったので、生まれたヒット作が「お兄ちゃまダブルで僕おフル」


・幼稚園には入らなかったので、兄との遊びは「芝居ごっこ」。「盛綱陣屋」をしばしばまねたが、

 「兄が盛綱で、僕はいつも実検される首の役でした」


・小学校は2年生の時に、実父、白鸚の母校である私立の暁星小学校に兄に続いて入学した。

 暁星では小学校からフランス語の授業があった


・父の白鸚が二人の息子についてこう語っている。

 「染五郎の方は典型的な総領の甚六で、我ままで神経質なくせに反面人が好くて周囲の者を可愛がったり

  するタイプです。萬之助の方は、がむしゃらで乱暴者で、よくある二男三男のタイプ。」


・兄の現・幸四郎と年齢の近いこともあり、喧嘩ばかりしていた

 「普通は喧嘩両成敗ですが、『お兄様に対してなんだ。土下座して謝りなさい』と僕だけが叱られる。

  泣きながら土下座しました」


・学校が休みの土日は初代の家に泊まりに行かされ、初代夫妻の間に「川の字」に寝たが、

 両側からの強烈なイビキにまんじりともしなかった


・「初代は舞台があって忙しいから、一緒なのは寝る時だけ。実家でも両親は劇場ですから、

 家でほとんど顔を合わせることがない。僕が芝居に出ている月の方が、まだ楽屋で話す機会があったくらいです」


・初代との最後の共演は「佐倉義民伝」だったが、出番が終わった後客席から見ていたら、

 『通天(東叡山直訴の場)』の場面で、三階からも二階からもおひねりがばらばらと初代を目掛けて

 飛んでいった。お客様が、本当に初代を宗吾様だと思って拝み、お金を投げていた


・「初代存命中はみんなが『若旦那、若旦那』とゴマをすって遠慮し、こっちもいい気になっていた。

 ところが初代が亡くなれば、ただの高麗屋の弟の子役。周りの扱いも変わる。それが分かってから、

 明るかった性格が暗くなっていきました」


・小学五年生のとき、毎日演劇賞の「演技別賞」を異例の若さで受賞したが、知らせを受けた本人は

 「お相撲だって師匠や親方をまかすのが名誉なんだもの。お父さんより先に賞をもらったのは

 僕の親孝行だ」


・1955年当時の十一歳男子の平均身長は、百三十三・九センチだったのに対し、吉右衛門は

 百六十センチ近くあった。現在の身長は百七十八センチ。

 顔が小さく、背が高いので、若いときは『顔が大きくなりたい』と言っていた


・「中学生のころにはスーツを着てネクタイを締め、赤坂などのナイトクラブに通いだしました。

 明け方まで遊び、学校の授業中に寝ていたこともある。」


・当時は自動車の小型免許は十六歳から取れたので、誕生日のその日から教習所に通い、

 免許を取ってからは国産の中古車を買ってもらった


・中学に入ると音楽にも興味を持ちだした。当時はやりのモダンジャズにひかれ、ギターを買い、

 ベースを弾き、ピアノを習った


・マイク真木が率いたグループ、マイクスのデビューシングルのB面の、「ランブリン・マン」という曲は

 吉右衛門が波野久信の名で作詞したもの。ちなみに波野久信は幼少期の本名で、吉右衛門の襲名後は

 本名も初代と同じ辰次郎に変えている


・1961年、白鸚、染五郎、萬之助の松竹から東宝への移籍が決まり、演劇界は騒然となった

 白鸚は「従来、松竹と歌舞伎俳優との間にはなんら契約もない。約束だけでやって来たが、これには

 疑問がある。歌舞伎俳優の契約制度ということについて真剣に考えてみたい」と語った


・歌舞伎は長きにわたり、松竹のほぼ独占化にあったが、過去には東宝が1935年に松竹から市川寿美蔵

 (後の寿海)、市川高麗蔵(後の十一代目団十郎)、中村もしほ(後の十七代目勘三郎)、坂東蓑助(後の八代目

 三津五郎)らを引き抜いて三年で解消した第一次「東宝劇団」があった


・東宝入りを決意した白鸚いわく、「歌舞伎はいま、大へんなところにきている。歌舞伎は、長いこと、松竹特有の

 ものと思われてきたが、そうではなくて、歌舞伎は私たちのもの、日本のものでしょう。それが、いま

 枯れかかってきた。(中略)枯れかけた歌舞伎をどうしたら生かすことができるか、生かす方法を、私は

 選ばなければならなかった。その方法は、松竹という温室からとび出すことでした」


・東宝は、白鸚らを迎えはしたが、歌舞伎に適した花道を備えた大劇場を所有しておらず、帝国劇場を改造し、

 「歌舞伎の殿堂にしたい」と菊田一夫は述べている。日本初の洋式劇場である帝劇は、オーケストラピットを

 備え、オペラや新劇などさまざまな演劇が上演されたが、開場当初から専属の歌舞伎俳優として六代目

 尾上梅幸、市川高麗蔵(七代目幸四郎)、七代目澤村宗十郎らを擁し、1930年に松竹傘下となるまでは

 歌舞伎座と拮抗する歌舞伎の一代拠点でもあった。1940年に東宝のものとなり、戦後は映画館などに

 使用されていた


・菊田一夫は第一回「東宝劇団歌舞伎公演」のプログラムにこう記した。

 「この春、松本幸四郎の子息市川染五郎と中村萬之助が、若き歌舞伎俳優として、また若き現代劇俳優として、

 また若きミュージカル俳優として、東宝に入社いたしました」


・兄の染五郎は東宝移籍の年に早稲田大学の文学部演劇科に入学した。

 萬之助は役者に大学なんて必要ないと思っていたので、受験をする気もあまりなかったが、

 ばあばあに泣きつかれて、大学に進む気になった


・フランスを本拠地とする修道会が設立した暁星学園では、小学校からフランス語の授業があったので、

 受験の外国語はフランス語を選択することにした


・見事に早稲田大学文学部仏文科に合格し、入学試験の成績はかなりよかったらしい。

 「本当は兄貴と違う大学に行きたかったのですが、フランス語受験が可能だったのが早稲田でした。」


・早稲田大学に入学したころ、萬之助は一歳年上のフランス人女性とつきあっていた。

 彼女とはフランス語で会話していた


・彼女がフランスに帰国することになり、後を追ってのフランス行きを考えた。

 「彼女のところに転がり込み、ジゴロにでもなろうと思った。それでおやじに『仏文に入ったし、

 役者をやめてフランス語を勉強に行きたい』と話しました」

 白鸚は反対もせず、しかし「何にでもなっちまいな」と吐き捨てるように言い放ち、ぷいと背を向けた。

 (中略)「その時に波野家と吉右衛門の名跡をちゃんと継いで、おやじの荷を軽くしてやらなければと思った」

 このフランス行き断念は吉右衛門襲名の前年のことだった。


・東宝時代、山本周五郎原作の『さぶ』でさぶ役を演じ、激賞されたが、

 「はまり役と言われ、脇の三枚目ばかり演じるようになってしまうのかと」悩み、

 毎晩のように精神安定剤とジンのストレートを一緒に飲み、とうとう夜中に血を吐いて倒れ、

 救急車で運ばれた。


・さぶ役をはまり役といわれ悩んだのは、吉右衛門を継がなくてはならない人間が現代劇で笑いを取る役

 ばかり演じるようになっていいのか、という気持ちからだったが、誰にも理解してもらえなかった。


・ばあばあが癌で寝た切りになった頃、兄の染五郎は大阪で「王様と私」に主演していたが、

 演じ終えると伊丹空港から深夜便の飛行機で東京の病院にかけつけ、夜が明けると一番機で大阪に戻る、

 ということを繰り返した


・亡くなる直前のばあばあは意識がなかったが、染五郎が何回目かに大阪から駆けつけた時に目を覚まし、

 『お疲れ様』と言って手を握って亡くなった。こっち(萬之助)には何もなかった。やっぱり長男がかわいかった

 のかなと、兄に強く嫉妬した


・帝劇は、「風と共に去りぬ」の上演をするために設計させた劇場であり、菊田一夫は歌舞伎に関心が

 なかったため、花道は長く上り坂であった


・襲名を機に本名も初代と同じ辰次郎に改め、早稲田大学も休学した


・兄、染五郎は、東宝入りした後、ミュージカルスターとしての地歩を固めつつあったが、

 吉右衛門は歌はどうも・・・だったようで、ミュージカルに出る話もあったが、実現しなかった


・「初代の描きたかった熊谷像に迫るのは難しいと常に思います。」


・芝居の相手役のことなどで、何度か菊田一夫の機嫌を損じてしまい、

 「君は歌舞伎だけやっていればいいんだよ」と吐き捨てるように言われたことで東宝を離れる決心を固めた。

 父白鸚、兄染五郎が東宝に残る中での、単身での松竹への帰参だった


・東宝を離れ松竹に戻る決心をしたのは、「帝劇での歌舞伎公演には無理があると思ったし、

 常に歌舞伎を演じるには、東宝を離れるしかなかった」


・吉右衛門の良き相談相手だったのが、実母の母方のいとこでNHK勤務の山本一次氏だったが、

 吉右衛門が30歳を迎えた頃、その山本氏の娘で、慶応大学一年生だった、現夫人の知佐との婚約が

 発表された。吉右衛門は一生結婚せず、50歳になったら仏門に入ると言っていたくらいであったし、

 結婚するにしても、親が気に入らなければ無理だろうと思っていた。その点、山本氏は母の従兄で

 事情も心得ており、母もすっかり乗り気になった


・知佐夫人の弁では、「小さいころから主人の母にあこがれていたので電話で母から『お嫁に来ない』と言われ、

 『はい』と答えてしまいました。主人にプロポーズされた覚えはないし、結婚前にデートしたことも

 ありませんでした」


・「播磨屋の芸は自由自在に音を使えないとダメなんです。台詞廻しが音符に書けるほど複雑になっている」

 例えば「熊谷陣屋」で熊谷直実が平敦盛を呼び止めるくだりで、「『おおーい』という声を段々大きくしていって、

 ある所で裏に返す。そのまま大きく声を出すと調子をやる(声をおかしくする)ので、ずっと声を大きく

 出しているかのように聞かせるテクニックです」


・小学五年生から始まった声変りが長く続き、舞台で無理に発生して声帯を痛め、襲名のときも声がダメで、

 声を裏に返せなかった。また、両方の鼻も詰まる悩みもあった


・荒療治で鼻づまりは治ったが、声は依然として出ないので、実母のすすめで清元の稽古を始めた。

 指導を仰いだのは清元志寿太夫や息子の小志寿太夫。


・「籠釣瓶」の次郎左衛門を歌右衛門の抜擢で演じることになったとき、歌右衛門は「見染めは誰でもできる。

 その次の立花屋見世先が一番難しい」とおっしゃった


・次郎左衛門が八ツ橋を殺す大詰めの『立花屋二階座敷』では、最初から殺意を見せるやり方もあるが、

 初代は違った


・初代は英雄、豪傑な固い役を得意とし、二代目も若いころから初代と同系統の役を多くつとめ、役者ぶりも

 固かったので、それをどうにかしたいと、守田勘弥に指導を仰いだ


・「若い頃、兄貴と僕は細くて背が高く、姿が似ている上に、実父から教わる物も同じ。役どころも共通して

 いました。ならば年上の兄きがどうしても先に役をつとめることになります。その域を脱するには、

 こちらが違う役柄を開拓し、自分を変えていくしかないと思いました」


・吉右衛門が襲名を機に本名を最初の名の久信から、初代と同じ辰次郎に改めると、実父の白鸚は

 「辰次郎さん」と「さん」付けで息子を呼び始めた。師である初代の名を名乗った以上は、実の子といえども

 経緯を払おうという、律義な人だった


・白鸚の生真面目なのは少年時代からで、白鸚がまだ9歳の頃、父の7代目幸四郎が十一代目団十郎と白鸚の

 兄弟を連れ、自身が幼年時代に住んでいた家のあたりを訪ねたおり、7代目は弟子入り以降の大部屋での

 苦労話などをした後、二人に「坊っちゃんで来られた自分だちについてどう思うか」を訊ねると、

 長男の十一代目は「頭を掻いて笑って」いたが、二男の白鸚は「私は今の境遇をかへって不仕合わせだと

 思ひます」と答えた。「なまじ坊っちゃんで他人混りをさせられないと、芸の範囲も狭く、真実の修行が

 できません。かへって大部屋から順序を追って修行した方が身の為だと思ひます。それがないと

 稼がなければならない時に苦労しますから」


・白鴎の弟の二代目松緑によれば、十一代目団十郎、白鸚、松緑という美男ぞろいの三兄弟の中で、

 一番女性にもてたのが白鸚だった
 吉右衛門が明かすには、「ファンの若いお嬢さんが楽屋に来ると、別人のようにぺらぺらとしゃべっていました。

 男性の新聞記者が来て何か質問しても『はい』と短く答えるだけなのに」
 「大きな映画館で客席の一、二階のそれぞれに女性を座らせ、一遍に二人とデートしてたなんて話を聞きました」


・「こんぴら歌舞伎」の発足の端緒を作った一人が吉右衛門で、地元と一体となって松竹の賛同を取り付け、

 公演実現へとこぎ着けた。上演するものは新たに発信するものでなくてはふさわしくない、との話だったが、

 他人にお願いする時間がもうなかったので、自ら松貫四の筆名で脚色し完成させたのが

 「再桜遇清水(さいかいさくらみそめのきよみず)」。「清玄桜姫」物だった。
 松貫四の名は、初代の母方の祖父、萬屋吉右衛門の先祖で「伽羅先代萩」などの合作者でもある

 浄瑠璃作者、初代松貫四に由来する


・テレビでの当たり役となった長谷川平蔵は、実父、白鸚の鬼平でもドラマ化された作品で、四十歳のときに

 最初に平蔵役の話が来たが、実父のイメージが強烈だったし、歌舞伎でも若手の部類だったので、お断りした。

 平蔵が火付盗賊改方長官になった四十五歳のときに、出演依頼に応じた


・「鬼平犯科帳」シリーズはブームとなった。それまで『鬼平』のように風物から食べ物までの江戸情緒を扱った

 時代物はなかった


・吉右衛門の娘たちによると、父が一番幸せそうな時は「アニメ専門チャンネルで『トムとジェリー』を見ている時」


・初代の芸の継承の場として、吉右衛門劇団の結成を思ったが、急な実現は難しいので、ゆかりの芸の研鑽と

 伝承を中心に据えた興業をと考え、初代の俳名を冠した『秀山祭』を九月に興業できることになった


・「役者を辞めたいと思ったこともあります。五十歳を過ぎたら出家と言っていました」
 そして六十代。
 「天職と知りました。自分は役者になるために生まれてきたのかもしれないと思えるようになりました」


・「新しい歌舞伎を創造するつもりはありません。創造には破壊を伴うからです。かといってただ修復して

 昔からの伝統を保存していくだけでよいとも思いません。僕はね、まだ歌舞伎は未完成だと思うんですよ。

 もっともっと完成度の高い素晴らしいものにできるはずなんです」