近頃、歌舞伎に関する本を読んでいるのですが、

せっかく読んでも、しばらくするとすぐに忘れてしまう性質のため、備忘録として、

また、これからどんな本を読もうかと考えておられる方のご参考になればと思い、

それぞれの本の内容を、簡単にご紹介していこうと思います。


どのように紹介したらよいか、考えてみたのですが、とりあえずは 

 ①出版社の新刊案内文

 ②目次

 ③個人的に印象に残った個所のメモ

の3本立てで記録していこうと思います。



記念すべき第一回にご紹介いたしますのは、ちょうど読み終わりましたばかりのこちらの本↓


『スーパー歌舞伎 ものづくりノート』 市川猿之助/著 

集英社新書 952円 2003年2月発行 ISBN4-08-720180-5

http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0180-f/index.html


歌舞伎見人(かぶきみるひと)


■出版社の案内文


それは「ヤマトタケル」に始まった。

作/梅原猛、台本・演出・主演/市川猿之助。

衣裳、美術、舞台技術、照明、音楽などスタッフにも新しい人材を得て、

スーパー歌舞伎第一作は一九八六年二月、新橋演舞場で幕を明けた。

古典と現代芸術、そして東西文化融合への人々の思いが重なった。

以後、二〇〇三年の「新・三国志3─完結篇」まで九作品。

歌あり踊りあり芝居ありの歌舞伎本来のおもしろさを復活させ、現代人にも通じるテーマ性で、

多くの観客を堪能させているスーパー歌舞伎。

表現者であり創造者である著者が、三〇年にわたるその軌跡をたどり、

制作現場から語る、作品創りへの情熱。


■目次


一 新しい歌舞伎創造へ重なる夢

    猿之助歌舞伎の三本柱/新・新歌舞伎の創造/梅原猛先生との出会い/

    素人離れの第一稿完成/シェイクスピアの台詞にワグナーのスケール


二 『ヤマトタケル』 スーパー歌舞伎の誕生

    ”スーパー歌舞伎”スタート/ファッションショーとしても楽しめる衣装/

    新機軸の近代照明/入場税と音楽の問題/全員休演して一ヵ月の稽古/

    稽古は臨機応変の対応で/瓢箪から駒の『ヤマトタケル』の残したもの/

    意義あるスーパー歌舞伎第一作


三 『リュウオー』 京劇との日中合作

    タケルのお墓の中で発案/『国性爺合戦』は問題あり/哪吒鬧海の提案/

    題名『リュウオー』に決定/難局を乗り越えて”総合演出”/

    順調な北京での合同稽古/トラブル続出の東京での合同稽古/

    後日談”天安門事件”


四 『オグリ』 第三作で方向性定まる

    産みの苦しみの梅原先生/演出コンセプトはインスピレーションで/

    テレビ→ムービングミラー→鏡コロス/初めて美術監督を名のる/

    台本・衣装・音楽/本番四か月前に稽古スタート/フライングの

    ピーター・フォイ氏を迎える/念には念の音楽録音/原寸大稽古場での総稽古/

    準備万端、鍵は照明が握る/テクニカルリハーサル方式を導入/

    求めたテーマ


五 『八犬伝』 新しい作者で

    横内健介さんとの出会い/ラストは”宇宙への旅立ち”/シャヴァーノッホ氏

    との出会い/台本に満足、スタッフ会議へ/シャヴァーノッホ氏来日と、

    台本カット/”夢”のセットプラン/毎月の舞台と並行して着々と準備は進行/

    六日間、五十時間を超える録音に立ち合う/レーザー、コンピューターなど

    ハイテク駆使/トラブル続く舞台稽古、初日延期も・・・・・・/ハイテク装置

    そのものには問題なし/進化中の作品


六 『カグヤ』 輝く心と 『オオクニヌシ』 高き志

    初の叙情詩ラブ・ストーリー/演出方針はシンプルで/予算節約アイディアの

    数々/カーテンコールの演出/『カグヤ』で大阪初のスーパー歌舞伎上演/

    十年ごしの『オオクニヌシ』/『カグヤ』に続き緊縮予算で/脚本作りは先に

    上演時間を決めてから/カットカットで台本作り/演出家・猿之助よりも役者・猿之助を


七 『新・三国志』シリーズ 蓄積されたノウハウで

    劉備玄徳は女だった・・・・・・!?/呂端明氏のアドバイスで題名決定/

    第一稿に不満、大幅書き直しの事態に/マンネリ打破の音楽・衣装/

    オペラ方式の抜き稽古による組み立て/変更相次ぐ台本・音楽/

    スーパー歌舞伎初の続編上演決定/『ホーム・アローン2』をお手本に/

    成功した演出は繰り返すべし/パートIIからIIIへ/新世紀のスーパー歌舞伎


番外編一 オペラ『コックドール』の演出

    狂気と冒険のオペラ演出/初日の四週間前に稽古開始/五ヶ国語が飛びかう稽古場/ 

    予習した上で演じて見せるしか方法はない/歌舞伎も音楽劇なればこそできた演出/

    歌舞伎国際化への実験


番外編二 オペラ『影のない女』の演出

    サヴァリッシュ氏の情熱/東西の文化が手を携えての創造/”グラッサウ案”まとまる/

    ”型破り”と”型無し”/制約を乗り越え理想プランの実現を/ラストは二重の橋で/

    寝耳に”水”から歌劇場閉鎖、日本初演へ/道具案決定、製作完了して点検へ/

    日本的美学までも輸出/出演者よりサヴァリッシュ氏への感謝状/実現された

    ホフマンスタールのト書き/芸術の未来に王冠を輝かすために


番外編三 ものづくり ひとづくり

    「二十一世紀歌舞伎組」誕生/細井平洲の言葉/第二次「春秋会」は初役挑戦

    プラス通し上演/古典の新演出に新たなるテーマ/再び平洲の言葉、そして

    二代目左団次の言葉/歌舞伎=現代演劇としての『水天宮利生深川』/

    市川猿之助七月大歌舞伎/奮闘公演三十年で悲願達成



■歌舞伎見人メモ (抜き書きの部分もあれば、まとめた部分もあります)


・30代の記録として『演者の目』(朝日新聞社刊)、40代の記録として『猿之助修羅舞台』

 (大和山出出版社刊、後にPHP研究所より文庫版刊行)、50代の記録として本著は記された


・”猿之助歌舞伎の三本柱”は「新作」、「復活(つまり再創造)」、「新演出」。 すべて”創造する”行為。


・歌舞伎歴代の名優は、大別すると”創造者”と”表現者”に分かれるが、

 ”表現者”は、その人が死に、その芸を観た人が死んでしまうと、その素晴らしさが

 わからなくなってしまう。一方、”創造者”の場合は創造された作品が残るので、

 その素晴らしさがいつまでも消えることがない


・三代目猿之助を襲名した年(1963年)に、祖父猿翁と父三代目段四郎を失ったが、

 こういう場合、力のある幹部俳優の傘下に入るのが常ながら、

 独立独歩で己が道を切り開いてゆくことに決め、”劇界の孤児”となった。

 そのため、毎月の公演ではこれといった役を与えられないため、

 「春秋会」という自主公演を旗揚げした。


・梅原猛先生が初めて歌舞伎の脚本を執筆するにあたり、「勉強のために君がいいと思う台本を送ってほしい」

 と言われ、段ボール箱いっぱいの台本を、良い脚本と悪い脚本とに分類して送った


・脆弱な台本だと、カットすると土台が揺らぐが、梅原先生の台本は視点が確固としたものだからか、

 どれほどカットをしてもバックボーンはびくともしなかった


・梅原先生に(ヤマトタケルの)脚本を依頼した時、「シェイクスピアのような哲学的で深みのある台詞に、

 ワグナーのオペラのような壮大なスケールを兼ね備えた作品を書いてほしい」と注文を付けた


・たいていの新作歌舞伎は音楽をBGM、つまり雰囲気描写としてしか使っていないが、

 古典歌舞伎の下座音楽はすべて役者に付いていて、動きも台詞をしゃべるテンポも

 音楽に規制されるほど演技と切り離せないもの


・スーパー歌舞伎の音楽はすべて事前に録音されたもの。準備の段階では、念のために早いテンポと

 緩やかなテンポと2種類録音しておくこともあった


・「オグリ」にて、コンピュータ制御のムービンぐミラーの使用を考えたが、

 四畳半の大きさの物に約1億もかかるうえ、製作日数も間に合わないので、

 いっそ人間に鏡を持たせれば、月給20万x20人x3カ月=1200万円であがると考えた


・「オグリ」から、METに1年半留学歴のある金井勇一郎氏にスタッフに加わってもらった


・「オグリ」から、佐藤浩史氏に加え、石川耕士氏を弥十郎、右近さんとともに演出助手にした


・婆娑羅を研究しつくしたデザイナーの毛利氏によると、阿国歌舞伎誕生の頃、南蛮から初めて

 シャツが日本に入ってきて、傾奇者たちは着物の下にシャツを着込んだらしい


・スーパー歌舞伎の稽古では、最初は演出家に徹するため、右近さんが代役を演じ、

 右近さんの役もまた代わりで別の役者がつとめ、ほぼ仕上がった段階で役者として参加する方法が定着した


・「オグリ」の宙乗りシーンのために、「ピーターパン」のフライングで世に知られたピーター・フォイ氏に参加してもらった


・歌舞伎の「小栗判官」で、猿十郎さんと笑也さんは鬼鹿毛の馬の脚を経験したことがある


・「オグリ」でのフライングは、歌舞伎の宙乗りと違って一点吊りのため、地獄から飛び立つ場面では、体が回って裏向きになりそうになる


・二・三階客席からの見切れチェックなども稽古の段階で行っている


・「八犬伝」にて、オーストリアの装置家、ハンス・シャヴァーノッホ氏に参加してもらった。

 バイロイトで上演された「神々の黄昏」におけるシャヴァーノッホ氏のセットは空間の使い方が実にうまく、

 簡素でいてダイナミックな素晴らしいものだった


・シャヴァーノッホ氏との打ち合わせのためにウィーンを訪れた猿之助さんは、

 1992年9月3日にミュージカル「エリザベート」の初日を観ており、翌日、デーメルの特別室にて

 セットのプレゼンがシャヴァーノッホ氏によって行われた


・シャヴァーノッホ氏のセットプランは、72枚の開店する鏡が主体となり、

 そこにオブジェや象徴的なパネルが加わったもの。

 また、舞台の大迫りにはステージウィングと呼ばれる油圧式装置が埋め込まれ、

 油圧式の昇降回転ミラーパネルとともに、イギリスの出るスター社に発注した。

 ドロップ(背景幕)も、シャヴァーノッホ氏と共同作業をしているウィーンのスコップ&ウルバン社という工房に

 依頼した


・「八犬伝」のテクニカルリハーサルではトラブル続出で「だから機械は信用できない」とか

 「コンピュータはこわい」という声も聞こえてきたが、原因と解決方法がはっきりし、

 シャヴァーノッホ氏の「装置そのものには、百回に一回の故障もあるはずがない」と言い切った言葉が

 正しかった

 

・「カグヤ」でも、「八犬伝」以来おなじみのウィーンの攻防に五枚のドロップ(背景画)を発注した


・歌舞伎音楽では、作品が違っても同じような設定の場面には同じような曲が使われる。

 立ち廻りにしても、大時代な芝居でゆっくりしたテンポの場合は”ドンタッポ”だとか、急調で激しい場合は

 ”滝の合方”という風に、自然と曲が決まってくる


・「カグヤ」には群舞が多いので、ステージングに洋舞系の前田清美さんを起用した

 (前田さんは、「新・三国志」にも参加)


・「カグヤ」では、ハードスケジュールの上に、男女二役の使い分けで声の調子が危なくなったことがあった


・「カグヤ」の再演までの間に、中村信二郎と坂東弥十郎の両人が一座を離れた


・「オオクニヌシ」の打ち合わせにこられた梅原先生がお話の中で、近代の自然主義以来の文学のことを、

 人間の卑小な面や醜い面ばかり描くようになったとして、むしろ斥けたいとことをおっしゃった。

 それに対し江戸時代の浄瑠璃などは、世界観としては古いものの、忠義とか自己犠牲といった

 人間の崇高な面を描いている


・「オオクニヌシ」でも、背景画の何点かはウィーンに発注(水中から水面を見上げたような絵柄など)


・「オオクニヌシ」のテーマとして流れる曲は、「ヤマトタケル」の宙乗りのために作曲された曲だった


・「新・三国志」で、劉備玄徳が女という設定になったのは、脚本の横内さんが、「孔明は曹操に従えば

 天下を取れるとわかているはずなのに、なぜ劉備に仕えることを選んだのか。そこに無理があって、

 どう書いても説得力に欠ける」という指摘があり、「いっそ”大嘘”をついたほうが、虚構の世界を

 築きやすくなるのでは」との提案で、劉備を女だったとすることになった


・よく言われるスーパー歌舞伎マンネリの三大要素は「テーマを繰り返す台詞の理屈っぽい説教調」

 「衣装」「音楽」


・フランスでのオペラ「コックドール」演出の仕事では、自分で演じて見せることで時間短縮が出来たが、

 歌舞伎はやはり音楽劇だから、私たちも自然と音に強くなっている。それがたとえ洋楽であっても、

 どこまでの音の中でどういう動きができるかという、音に合わせた動きの寸法を計算できる


・真の創造に必要なのは、十分に”型”を知った上で、新しいものを求めていく”型破り”の精神である。

 過去を顧みずに新しいものだけを求めるなら、それは単なる”型無し”になってしまうだろう


・オペラ「影のない女」のラストに流れる合唱はハ長調であるが、ハ長調はワグナーに代表されるように、

 勇壮な気持ちをかき立てるイメージであり、ドイツ人には独特の思い入れがある。

 そのイメージから想像される色調では決して寒色系ではないので、背景にブルーの色を使う予定をやめた。


・バイエルン歌劇場でのオペラ「影のない女」の演出でも、弥十郎さんと右近さんが演出助手として参加した


・「影のない女」の稽古最終日に、出演者一同から総監督のサヴァリッシュ氏に宛てて、

 「猿之助氏と仕事をする機会を与えてくれて感謝する」と書かれた感謝状が贈られた。

 サヴァリッシュ氏も「四十五年この仕事をやってきて、歌手たちから演出家への、批判や不平の手紙は

 山ほど貰ったが、このような感謝状は初めてだ」とのことで、大いに面目をほどこした


・桑原武夫先生から次のようなことを言われた

 「人間は四十代後半になったら、自分の持っている力を、弟子なり後進なりに分けてあげなければいけない。

 人を育てるにはエネルギーが要る。功成り名を遂げて老齢になった後に、名誉職のような形で養成を

 担当するのでは駄目だ。力の充実している時期に後進を養成しなければ、とても人は育たない」


・2000年12月、歌舞伎座で歌舞伎組のメンバーによる「華果西遊記」が上演されたが、

 御曹司ではない彼らだけで一幕を受け持つのは、おそらく歌舞伎座始まって以来のことだったろう


・「春秋会」が第七回で自然消滅の形になったのは、この頃までには”猿之助歌舞伎”と呼ばれるような世界が

 定着して、演りたい芝居を本公演で上演できるようになってきたから


・今まで避けて通って着た嫌いな役に挑戦するための勉強会として、「春秋会」を再開した

 「娘道成寺」は最も苦手で嫌いな踊り、「髪結新三」も不得意な小粋な江戸前の味を必要とする難役

 「髪結新三」は通しで上演してみると、意外と面白かった


・二代目市川左団次の残した言葉に

 「芸術は、もともと商売ではない。それには損もなければ得もない。その結果の成功失敗を見積もって、

  事を始めるというようなものではない。芸術の新しい運動が興ったとすれば、ただ興ったというそのことだけで、

 貴い意味があるのだ。その子が病身であったならば、不具であったならばと恐れ戦いて、

 子供を生まぬことにするというのでは、人類の発達はあり得ない」


・春秋会の活動を通して目指してきたものは、第一次・第二次ともに江戸歌舞伎への回帰であり、

 近年保守化の著しい歌舞伎に、本来の瑞々しいエネルギーを取り戻すことであったかのように思われる


・歌舞伎の美意識や発送のもと、その独自の演技術や演出法に拠って、時代をテーマにしたドラマを

 創り上げる。”江戸歌舞伎”とは、そうした”現代演劇”であったはずなのである


・最初の「千本桜」通し上演・三役完演だった、奮闘公演十周年記念公演の千秋楽では、幕が閉まると

 一階から三階まで観客総立ちの大拍手となり、自然発生的に歌舞伎史上初のカーテンコールとなった


・この三役をただ演じただけでは自慢にならないという意見もあるが、ただ演じるということ自体が

 至難の業と実感している。演じるためには芸力、気力、そして先ず何よりも、二十五日間勤め上げるための

 体力が必要