昔取った杵柄という言葉を耳にすることはあまり無いが人生で二度ほど間近で聞いて何故かぞわぞわした。

文字通り、杵を取って昔、餅をついたことがあるので、幾つになっても体が覚えているというような表現をする場合に用いる言葉だが、年月を経ても腕に覚えのある技能、かつて修練して自信のあることを暗に示す言い回しだから、この言葉をしゃあしゃあと言ってしまうということは、しばらく遠ざかってはいたものの、持っている技能なり技術なりは衰えること無く健在だと自負しているということになる。

よくまあ躊躇無く自分から言うなあと思って、なんとも言い難い恥ずかしさやら図々しさやらの入り混じった違和感のようなものを覚えたのだろうと思う。

中国戦国時代の法家である韓非の著書に春秋戦国時代の思想・社会の集大成と言える『韓非子(かんぴし)』がある。

その説林の中に、「老いたる馬は路(みち)を忘れず」という記述がある。

意味は道に迷った時は老馬を放ってそのあとに付いて行けば道に出るものだ。引いては、経験を積んだ者は行なうべき道を誤らないことのたとえとし、他に老馬の智、老いたる馬は路を知るとも言う。かつての経験や知恵が今も生きているという意味では昔取った杵柄と同じような言葉やも知れない。

昨日、移動の車中で久しぶりに本田済氏の『現代語訳韓非子』を眺めた。

解説には人間性一般についての洞察の鋭さ、権力の場における人間関係の分析の綿密さ、独裁国家という枠内でではあるが、君主の心術探究の深刻さという点に於いてはいづれも韓非の方がマキャベリより一段と精彩が有り、ルネサンス期のマキャベリと比べても不思議と古くない。韓非の眼がその時の瑣々たる政治現象を突き抜けて人間の本質に迫っている故だろうとある。

この著の作者韓非は司馬遷の『史記』に簡単な記述があるだけで生年など詳しい生涯は分かっていないが、秦の始皇帝が『韓非子』を愛読していたことからその縁で始皇帝に仕えるものの、讒訴によって投獄され、自ら毒を飲んで命を絶った。

幼い頃から吃音で人を説得することは不得意だったが文章力にすぐれ、苦手な弁舌を補ってあまりあるほどだったと言われている。

『韓非子』の「初見秦」篇には〈知らずして言うは不智、知って言わざるは不忠〉という記述がある。

よく知りもしないで言うのは自分の無知をさらすことであり、知っていながら言わずにいるのは不誠実だという意味だが、パラパラと適当な頁を捲って、目に入った箇所を眺めるのが楽しい。

通しで読了して以後は前後バラバラにあちらこちらを眺めて楽しんでいる『韓非子』だが、その文中の「老いたる馬は路(みち)を忘れず」から、ふと「昔取った杵柄」というフレーズを思い出し、それを言い放つ瞬間に遭遇してしまった時のおぼろ気な記憶が浮かび上がった。

全てが膜がかかったように顔も声も場所も何もかもが曖昧だが、それを何ら躊躇い無く何気無く言い放ったヒトに感じたなんとも言い難い図々しさやら恥ずかしさやらの入り混じった微妙な違和感だけは鮮明な記憶として残っている。

wednesday morning白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。平坦。