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〈口角泡を飛ばし扼腕撃節して論ずる〉は徳富蘆花の『思い出の記』に出てくる表現だが、因みに由来は、唐代の詩人李商隠(りしょういん)の詩に韓愈(かんゆ)の文章についてを「一万回も書き写して一万回も音読し〈口角泡を流し(口の端から唾を流し)〉右手にはタコが出来るくらいに愛読したい」と歌った一節がある。詩はひとりで音読することを表しているが、いつしか日本では複数の人間が激しく議論する場合に使われるようになった。
必死にまくし立てる姿は何処かとても見苦しく、やかましく、そして、余裕の無さや度量の小ささだけが突出して目立つ。
冴え渡った頭脳を自負している当人は相手を言い負かして小気味良いだろう、そして、それを支持する人々も気持ち良いだろう。
が、何なのだろう、この弾丸を連射し続ける感じの必死さと息をもつかずにただひたすら持論を展開する余裕の無さに聞く気が失せてしまい、その人の言葉が全く上滑りなまま、頭上を通過してしまうのは。
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完全なる私感だが、誰もが感じる理不尽なことに対して、その歪みを指摘し是正することであっても、そうでないことを恰かも正しいかのように詭弁を弄して正論であるかのように纏め、聞く者を黙らせてしまう強引とも言えるいわば発言力もどきを撒き散らされると、発する言葉自体に行き着く前に萎えてしまう。そもそも、そのような展開が眼前でもし繰り広げられるとしたら、そそくさとその場を去りたい。
発言によって人を動かしたり従わせたりするなどの影響力を発言力と呼ぶが、誰かを論破しようとしているヒトはおしなべて息継ぎをいつしているのかも分からないくらい切れ目無く言葉を繋げ続ける。
そのせわしなさは少なくとも発言力というカテゴリーには到底及ばず、単に雑音に過ぎない。雑音は騒音でしか無い。普段、大地を吹き渡る風の音や鳥の囀りにささやかな会話を楽しんでいるので、人間の声はそれだけで雑音だ。況してや「論破」だとかは騒音でしか無い。などと私感を述べる以前、向き不向きで言えば、私は人間には全く不向きだと言うことだろう。
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