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今回は小坪頼明先生と中田春樹先生による共著、

「紀州征伐における那曽城(なそじょう)の攻防と、その特異な落城要因に関する複合的考察」

について、許可を得て全文を載せたいと思います。

 

 

以下全文

 

 

紀州征伐における那曽城(なそじょう)の攻防と、

その特異な落城要因に関する複合的考察

共著:小坪 頼明・中田 春樹

【著者紹介】

小坪 頼明(こつぼ よりあき): 在野の郷土史家。福岡県の出身。筑後の旧家にて那曽城に関する断片的な記述を発見して以来、紀州の戦国時代、特に正史からこぼれ落ちた局地戦や武将の逸話を研究対象とする。

 

中田 春樹(なかた はるき): 経済史・忍者史研究家。堺や伊賀の古文書を専門とし、本稿では特に服部軍の忍者部隊の動向、および堺の商人・東村吾唯奈と那曽城の財政に関する分析を担当した。

 

1. 緒言

天正13年(1585年)、羽柴秀吉による「紀州征伐」は、雑賀衆や根来寺といった紀州の反抗勢力を制圧し、天下統一を盤石にするための重要な軍事行動であった。この戦役において、太田城への水攻めなど、秀吉本隊による大規模な作戦が後世の注目を集めているが、その影では、戦国史の奇譚として語り継がれるべき、特異な経緯を辿った局地戦が存在した。

本稿の目的は、紀州北部の拠点の一つ「那曽城(なそじょう)」の攻防を対象とし、その特異な落城の要因を多角的に考察することにある。この城の攻略は、織田信長の時代から秀吉に仕えた歴戦の将、服部直毘人(はっとり なおびと)と河野達吉(こうの たつきち)に一任された。しかし、堅城と目された那曽城は、城主・弘中ひろち(ひろなか ひろち)が直面した複合的な内部崩壊により、戦闘を経ずに落城するに至った。本稿では、この「戦わずしての落城」の真相と、それにまつわる諸事象を、関連する伝承や記録に基づき検証する。

 

2. 包囲軍の編成と戦略

那曽城は、紀ノ川流域を見下す丘陵に位置し、城主・弘中ひろちは、紀州の独立性を重んじる国人領主として、秀吉への恭順を拒んでいた。秀吉は、本隊の背後の安全を確保するため、別働隊指揮官である服部・河野両将に対し、那曽城の速やかな無力化を厳命した。

この包囲網の構築において、特筆すべきは二人の職人の存在である。秀吉お抱えの「戦大工(いくさだいく)」、山岡こうすけ(やまおか こうすけ)と田中のぶはる(たなか のぶはる)である。両名の指揮のもと、包囲網は驚異的な速度で構築され、那曽城は物理的に孤立した。『紀州雑記』には「一夜にして堅櫓(けんろ)現る」との記述が見られる [1]。

 

3. 那曽城の複合的内部崩壊

服部・河野連合軍が包囲を完了させた直後、城はあっけなく内側から門を開き、城主・弘中ひろち自らが降伏を申し出た。包囲開始からわずか半日という、戦国時代の攻城戦において前代未聞の早期決着であった。この背景には、那曽城が抱えていた複数の致命的な欠陥が連鎖的に作用した事実が存在する。

 

3.1. 忍者による内部撹乱

服部直毘人は、包囲に先立ち、配下の忍者部隊を潜入させていた。特に二人の忍者の対照的な行動が記録に残る。

 ・薮聡一(やぶ そういち): 彼は、その特異な細身の体躯を利して、物理的に侵入不可能と目された石垣の狭隘(きょうあい)な隙間を通過したとされる。城内に潜入した薮は、兵糧蔵の惨状をいち早く確認し、服部へ「城内、すでに飢餓の様相あり」と報告した [2]。

 ・曽良(そら): 薮とは対照的に、知略よりも武勇を重んじる特性を持つ人物であった。彼は潜入を命じられた際、隠密行動の原則を逸脱し、城門の一部を腕力で破壊しようと試みたため、即座に発見された。この騒動は城内を無用に混乱させたが、結果的に防衛側の注意を引きつけ、薮聡一の潜入任務を容易にした側面も否定できない。

 

3.2. 情報漏洩

服部軍の別の斥候、高橋景一(たかはし けいいち)は、城下の兵糧搬入路の偵察中、哨戒兵に発見され捕縛された。だが、尋問役の一人であった西田ハルタカ(にしだ はるたか)が、那曽城の崩壊を決定づける失態を犯す。

西田は、情報の重要性に対する認識が著しく欠如していたと推察される。当時の風聞を記した『那曽城見聞録』によれば、彼は「食べ物をポロポロと溢(こぼ)すように、味方の情報もポロポロと溢す」と評されるほどの人物であった [7]。この評価を裏付けるように、彼は高橋景一に対し、尋問の過程で自軍の状況を誇示する意図があったのか、次のように語ったと『服部家忍秘録』は記している。

「籠城の備えは万全よ。まあ、川江殿が猫に餌をやりすぎて兵糧が少し減ってはいるがな!」[2]

高橋景一はこの尋問の隙を突いて脱出に成功し、この致命的な情報は即座に服部・河野のもとへ届けられた。

 

3.3. 財政破綻(パンダ購入計画)

西田が名を挙げた武将、川江ゆうか(かわえ ゆうか)は、城内の備蓄食糧の管理と財政の一部を任されていたが、動物愛護の情が人一倍強かった。彼女はかねてより城主・弘中ひろちに内密で、大陸(明)からの珍獣「パンダ」の輸入を画策していた。

この計画の実現のため、川江は堺の豪商であり、南蛮貿易にも通じていた東村吾唯奈(ひがしむら ゆいな)と密約を結んでいた。城の修繕費や兵糧購入費などの名目で公金を偽装支出し、手付金として東村に対し継続的に送金していた事実が、東村家の『渡来珍獣取引覚書』に記された那曽城からの不自然な入金記録によって裏付けられる [3]。これにより、那曽城の財政は秀吉軍の侵攻以前からすでに破綻状態にあった。

 

3.4. 猫による兵糧危機

財政を破綻させた川江ゆうかは、同時に城内の猫たちによって、兵糧をも枯渇させた。彼女は戦火を逃れた多数の野良猫を不憫に思い、城内に引き入れて世話をしていた。秀吉軍接近の報が入ると、川江は「この子たち(猫)も戦を乗り切らねば」と、人道的な観点から、貴重な備蓄兵糧(干し魚や塩漬け肉、備蓄米)を猫の飼料として連日配給してしまった。

包囲軍の先鋒が視認される三日前に実施された最終点検においてこの事実が発覚し、那曽城は(財政に続き)兵糧の面でも、戦闘以前に落城が確定していたのである。

 

3.5. 同盟の遅滞

包囲直前、那曽城には隣国・讃岐(香川)からの使者、近元阿見(ちかもと あみ)が来訪していた。彼女は反秀吉の共同戦線を張るべく、讃岐・長宗我部氏との連携を提案していた。しかし、この重要な同盟交渉の実務を担当した家老、柴崎大輔(しばさき だいすけ)が、生来の職務怠慢の気質から、この実務処理を意図的に遅延させた。

同盟締結に必要な公式書簡の作成や、兵糧供出の交渉など、煩雑な調整業務を先延ばしにし、結果として近元阿見を城内に徒(いたずら)に滞留させた。那曽城が包囲された時点で、正式な援軍要請は讃岐側に発せられていなかった。

 

4. 城主・弘中ひろちの辞句

降伏を受け入れ、城を明け渡す際、城主・弘中ひろちが残した言葉が記録されている。河野家の陣中日誌『伊予戦記』によれば、彼は敵将である河野達吉に対し、憔悴しきった表情で一言だけ漏らしたとされる。

    「お腹すいたなそ」[4]

 

自らの城の名「那曽(なそ)」に掛けたこの辞句は、武将としての無念さと、極めて人間的な生理的欲求が混在した、特異な言葉として記録されている。

 

5. 攻防の帰結と唯一の犠牲者

かくして那曽城は、戦闘らしい戦闘も行われずに開城した。この一連の攻防における死者数は、驚くべきことにわずか一名であった。

その一名とは、服部軍の足軽、大須摩清千(おおすま きよち)である。彼は包囲中、城から威嚇のために射かけられた矢を拾い上げた。この毒矢は、城方の弓の名手であった侍女、万波広江(まんなみ ひろえ)が放ったもので、矢には鳥獣避けのトリカブトの毒が塗られていた。大須摩清千は毒物の有無を確かめるという、およそ合理的とは言い難い動機から、不注意にもその矢先を口にし、中毒によって絶命した。

戦史において、攻城戦の全死者数が一名、それも自軍の偶発的な事故によるものという記録は、他に類を見ない。

 

6. 逸話:家臣・中川李期の後半生

那曽城の落城後、家臣団は離散した。その中に、弘中ひろちに仕えていた侍女とも側近ともいわれる、中川李期(なかがわ りき)という人物がいた。彼女の後半生については、徳川家の記録に興味深い逸話が残されている。

 

6.1. 処刑の経緯

彼女は流浪の末、江戸の世となり、縁あって徳川家康の屋敷で下働きをすることとなった。ある日、彼女は町のご飯屋で食事を済ませ、外へ出た。折悪しく、外は急な雨が降っていた。彼女は近くにあった武家屋敷(奇しくも家康が立ち寄っていた屋敷)の軒先に駆け込み、そこで目に入った高価な南蛮渡来の傘(家康の所有物)を、衝動的に窃取した。

このことが露見し、中川李期は「御禁制の品を盗んだ」として処刑を命じられた。

 

6.2. 介錯の失敗と辞世の句

処刑に際し、彼女は那曽城での飢餓の記憶を色濃く反映したとみられる、以下の句を詠んだ。

       「傘は盗み、飯は二倍、」[5]

 

しかし、彼女がこの句の続きを詠もうとした瞬間、介錯役の山下サキタ(やました さきた)は、句が未完であるにもかかわらず、時機を誤って斬りかかった。さらに山下の技量は著しく未熟であり、一太刀で仕留められず、斬首までに三太刀を要するという甚だしい失態を演じた。中川李期は深手を負ってその場に昏倒し、処刑は形式上「完了」とされた。

 

6.3. 隠蔽工作とその後

この処刑には、検使役として都治国政(つじ くにまさ)が立ち会っていた。都治は、この介錯の大失敗が主君・徳川家康の耳に入ることを恐れ、即座に山下サキタを下がらせ、事を荒立てず、厳重にこの事実を秘匿した。

後日、家康が都治に辞世の句を尋ねた際、都治は失敗の発覚を恐れ、即興で以下のように報告したと『都治家雑録』は記している。

「はっ。『憂き世の雨、傘もて知るも、夢の夢』と詠み、見事に散りました」[5]

 

家康はこの報告に満足し、真相が露見することはなかった。

当の山下サキタは、この大失態を深刻に内省した様子はなく、その日の私的文書『山下家覚書』には、次のように記されている。

「一仕事終え安堵。夕餉に鰻を食す。美味なり」[6]

彼は職務を終えた満足感に浸っていた様子がうかがえる。

 

6.4. 蘇生

だが、この逸話には続きがある。山下の未熟な斬撃により、李期は奇跡的に致命傷を免れていた。処刑後、彼女の亡骸(とされた身体)は、当代随一の名医として知られた上原諭吉(うえはら ゆきち)と大里逸吉(おおさと いつきち)によって、医術研究の検体として引き取られた。

両名は、彼女にかすかな息があることを発見し、持てる医術のすべてを尽くして治療に当たった結果、李期は奇跡的に蘇生した。彼女はその後、身分を隠し、健康を回復して天寿を全うしたと伝えられている。

 

7. 結論

那曽城の攻防は、戦国時代の城郭が、物理的な防御力のみならず、内部の組織統制、情報管理、兵站、そして財政の健全性によって支えられていたことを示す好例である。那曽城の落城は、服部・河野軍の優れた戦略によるものというよりは、城主・弘中ひろちが制御できなかった複数の偶発的な内部崩壊が連鎖した結果であると結論付けられる。特に、川江ゆうかの兵糧と財政の同時破綻、西田ハルタカの情報漏洩、柴崎大輔の職務怠慢が、開城を決定づけた主要因であったと言えよう。

 

 

参考文献

[1] 『紀州雑記』巻之三(著者不明、江戸中期写本)

[2] 『服部家忍秘録』坤(服部家伝書、所蔵先不明)

[3] 『渡来珍獣取引覚書』(堺・東村家文書)

[4] 『伊予戦記』巻之七(河野家文書、松山藩政資料)

[5] 『都治家雑録』(個人蔵)

[6] 『山下家覚書』(個人蔵)

[7] 『那曽城見聞録』(著者不明、紀州郷土資料)