四月、
ケイトは早いもので小学校六年生になりました。

最終学年。
来年は、支援学校に行く予定なので、
小学校のお友だちとは、この一年でお別れ。
五年間、共に過ごしてきた同級生たちは、本当に
ケイトに対して、『普通』というか。
この感じが、本当のバリアフリーっていうのだなと。
ケイトが、横にいて当たり前、
ケイトが、いなければ気にしてくれる、
長く休んでると、えー!っといってくれる。
皆が盛り上がっていると、ケイトも
自然とその輪の中心にいき、そして一緒に
笑っている。

来年から、一緒に生活できないことが
本当に寂しい。けれど、今のケイトのできることを考えたり、お友だちも思春期に入ること、
他の小学校も合流することを考えると
やはり支援学校がケイトにとってのベストかなと。
来月は支援学校の見学と体験に行ってきます。

クラス替えでは、同級生の中でも
人一倍ケイトに気にかけて接してくれる子達、
ケイト自身が大好きなお友だち勢揃いで、
なんだか小学校生活総まとめみたいな
学級発表に、有難すぎて涙がでました。

そして、六年生の先生。

その前に、
ケイト地方の学校の先生関係の説明。

ケイトは普通学級の担任、
支援学級の担任、と、
毎年担任の先生が二人おり、
学級等を休んだり、学校で何かあれば、
両方の先生が連絡くれたり、
二人の先生が連携をとりサポートしてくださいます。

あ、後、忘れてはならない、
ケイト専用の加配の先生。
毎年、加配の先生は厳しくも優しく、
優しくも厳しく、ケイトをサポートしてくださいます。ケイト地方の、加配の先生配置の
原則として、毎年、人が変わります。
 (二年連続は不可)
一年間が終わっても運動会や発表会、
節々でケイトに会いに来てくれ。

五年生の加配の先生は、脳症前のケイトを知ってくれている方を戻してほしいと学校側が教育委員会に要請してくださり。実現するかわからないけど、
要請してるからね、と先生に聞いてびっくり。
そんな発想があったのかと。

行動にうつしてくれた学校、
実現してくれた教育委員会、
そして、戻ってきてくれた加配の先生、
それぞれに、本当に感謝。

六年生も同様に要請してくださり、
四年生、まさにケイトが脳症になった学年の時に
お世話になっていた加配の先生が戻ってきてくれました。

頼りになる先生で、私もケイトも大好き。
先週、長女を保育園に送った時、
偶然出会い、思わずお互い手を取り合って
再会を喜びました。

先生は、私が、四年生最後の日に渡した手紙を
まだ持ってくださっていたようで、
六年生最初の日の朝、もう一度、その手紙を
読み、さぁ行こう、と、気持ち新たにしたと伝えてくれました。

ケイトは、久しぶりにあう加配の先生のことを
覚えていたようで、目があうと極上の笑顔で抱きつきにいったようです。

そして、支援学級の担任の先生の話。

この三月、
一年生からずっと支援学級のケイトの担任をしてくださっていたベテラン先生がめでたく御定年を迎えて、、退職されました💦

しっかりした愛情ある本当によい先生で
この五年間、ケイトはもちろん、
私自身も支えてもらいました。
立ち止まった時、何度も背中を押してくれ。
お母さん、なんて言ったら失礼ですが
お母さんみたいな、親戚のおばちゃん!ではなく、おば様、みたいなそんな先生で。

ドラベあるあるですが、
学校から着信がなると、心臓がとまりそうなぐらいドキッとします。発作を連想するから。

先生は、私からは何も言ってないのに
早い段階で、お母さんに電話するときは、
発作の時、もしくはそれと同レベルの時のみにします、それ以外でお母さんと連絡をとりたいときは、メールにしますと。
これが、どれだけ、有り難いことか。
どれだけ、感謝したか。
先生は、言葉通り、ちょっとしたケイトの様子や連絡すべき事項はメールで。こもり熱かの判断で確認すべき事項があるときは
メールで先に、『お母さん、少しお電話よろしいですか?』と一呼吸おいてくれ。
この心遣いは、本当に一生忘れられない感謝でした←大袈裟ではなく。

ケイト脳症発症時、
ついに仕事(私)を続ける限界が来たか、
と、思いました。決断しなければと。
新卒で入り、結婚し、子供を三人産んでも
産休育休をとり続けてきた会社。
大好きな会社で、大好きな居場所。
信頼できる同期や同僚。

ケイトの介護休暇中、先生にも、
続けるか、辞めるか、
迷っていることを伝えました。

先生の立場から言えば、私が家にいたほうが
すぐにかけつけることができるので安心なはず。
けれど先生は、

続けてください、
辞めるのは、いつでも辞めることが
できる。入学前にお母さんが言った言葉が
私は忘れられません。(言ったことは、覚えていましたが、すごく美化されていた)⚪⚪⚪だから、続けてください。

と。

有り難かったです。

ケイトに対して、家族のように接してくださいました。叱る時は、遠慮なく厳しく。
褒めるときは思いきり抱き締めて愛情を沢山くださり。

先生は、
生徒に対してこんなこと言うべきではないが、
可愛く可愛くて。癒されます、と。
ケイトさんを抱き締めて、逆に元気をもらいます、と。

何もできなくなったケイト、
妹とトラブル多々ありなケイトだったんで、
他人にそう思ってもらえることが、
自己肯定ならぬ、ケイト肯定してもらうみたいで、
涙がでそうになるくらい嬉しかったです。
今から思えば、誰かに否定してほしかったんだなと。
ケイトは大変な子じゃない、と。
先生は、いつも絶妙なタイミングで
絶妙な言葉をくれました。

ケイトの将来を考え、身だしなみ、靴そろえ、手洗いうがい、身体の洗い方、食事の仕方、洗濯の畳み方、料理の作り方、、、

教えたこと、共に頑張ったことが、
脳症により、すべて0になり。
まさに、全てが0になったと思っていた
私に対して先生は、

ケイトさんは、やっぱりケイトさんですね。
皆を癒し、皆に愛される、優しい心を持った
この子は、お母さんとお父さんが沢山の愛情を注いで育ててきたからこそだから。

と、0じゃないんだよ、
私に伝えてくれました。
何度も、そういった言葉の数々で、
私の心を溶かしてくれました。

もちろん、癒しばかりでなく
『今日はめちゃくちゃ腹が立ったんです、だから厳しく叱りました』と←こう言うときは、だいたい出来る能力があるのにしなかった時。
ケイトのびっくりする行動(よくない行動)を 決まって『面白いんですよー』から話はじめてくれる。

ケイト、脳症前、泣いている子がいると
必ず心配そうに近づき、寄り添っていました。
すると、そのお友だちも落ち着く、ということが
よくあり。

けれど、脳症後、周囲が見えなくなり
お友だちが泣いていても目に入らなくなり。
先生も寂しそうに、そのことを伝えてくれました。

数ヶ月して、またケイトが周囲に目を向けることができるようになり、また以前のように、泣いているお友だちがいると、心配そうに近づき、何をするでもなく
そっと横にいき離れようとしない、、
その様子を、我が子のように喜び、私に伝えてくださいました。以前のケイトさんが、また、
一つ戻ってきてくれたと。

ケイトから聞けない沢山の学校での様子を
先生の言葉から、毎日かわす連絡ノートから、
知ることができました。

ケイトの小学校生活を、ふりかえると
自ずと、この先生のことも思い出されます。

そんな先生、
四月からは、ケイトメインの
支援学級担当で週二回また来てくださるとのこと。
それを聞けてどんなに安心できたか。
どんなに嬉しかったか。
有り難いです。

そして、普通学級の担任の先生。
五年間から持ち上がりの先生。
普通学級の先生とは、基本的には
何かあった時や、学校を休んだ時に
連絡をとるのみ。

四年生の担任の先生は、毎日まめに
連絡帳にケイトのリクエストする
アニメのキャラクターを書いてくれたり
メッセージをくれたりしてたので
それに慣れていた私は
今回の先生は、ケイト脳症になり、
支援学級にいることがほとんどになってしまったから、あまり触れ合いがないのだと、
思っていました。けれど、
ある出来事をきっかけに、それは
私の大きな勘違いであることに気づきました。

先生は、私が知らないだけで
ケイトのことをすごく気にかけ、
ケイトにどう接したらよいか、
どう働きかけたらよいか、
節々で支援学級の担任の先生に相談してくれ、
ケイトと、沢山ふれあったてくれていたようで。

障がいを持っているがゆえに
先生が学校のことを密に教えてくれるのが
いつの間にか当たり前になってしまっていた私。
先生から、連絡がない=ケイトをあまり
みてくれていない、と、そんなふうに
感じてしまっていました。
普通に考えれば、何十人、
生徒を受け持つわけで、何かない限り、
さいさい親と連絡などとるはずかなく。
実際、弟の担任の先生とやりとりするの懇談か、
もしくは、何かやらかした時のみで。
悪い意味で、障がいを持った息子にがいるがゆえに、間違った普通を作ってしまっていました。
そして、先生は、他の同級生に対するように
当たり前の普通をケイトに与えてくれていました。
普通ほど、有難いものは、ありません。

そんなこんなで、
ケイトは、皆に、支えられながら毎日を
過ごせています。

ケイトを育てていると、
人の純粋な優しさを
幾度となく感じることができる。
世界が本当に綺麗に見える。
一日一日が尊く感じる。

普通、より、大変な子育てなはずだけど、
良くも悪くも、
普通では、私は、味わえなかったんだろう
数々のことがある。