神楽坂
神楽坂の由来については、坂の途中にあった穴八幡の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽がこの坂道で聞こえてきたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったから などの神楽にちなんだ説あり。
江戸イチ楽しい坂道★★★
袖摺坂
狭い坂道でお互いに袖を摺り合わせるほどだったという。そんなことから、誰いうとなく袖摺坂というようになったという。
舗装階段になる前のこの坂道を見てみたい。
こんな風流な名前★★★
蜀江坂
かつてこの辺りが蜀江山と称されていたためこう呼ばれる。蜀江山の由来は、天慶の乱の時平将門(あるいは弟の将頼)が蜀江錦の衣の袖を落としたから、あるいは江戸時代に三代将軍家光が鷹狩でこの地を訪れた時、紅葉の美しさを蜀江の錦のようだと称賛したからだという。新宿の喧騒を離れた静かな通り。★★
夏目坂
夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。★★
下戸塚坂
江戸時代、この地は武家屋敷などで占められ、町名はつけられず、この坂も無名坂であった。明治五年(一八七二)下戸塚町となったことにより、この坂も町名と同じ下戸塚坂と呼ばれるようになった。★★
グランド坂
戸塚球場(今の早大総合学術センター)のグランドから、六大学リーグ戦に向け練習に励む学生達の声が響いてくることからグランド坂と呼ばれるようになった。戸塚球場は昭和二四年、早大野球部育ての親、安部磯雄教授の逝去により安部球場と改称し、昭和六二年まで存続した。★★★
梯子坂
『豊多摩群誌』によれば「梯子坂 久左衛門坂北方の裏通に在り,東へ登り十間許り,坂道急にして 恰も梯子を登るが如し,故に名付く」とある。説明の通りで急坂、この先の階段もきつい。★★★
津の守坂
荒木町と三栄町の堺を 靖国通り手前までくだる坂である。別名を小栗坂ともいう。
昔坂上の西脇に 松平摂津の守の屋敷があったので その名を略し て津の守坂と称した。雰囲気のある坂道。★★★
山吹坂
この坂上の大聖院にある「紅皿の碑」にちなみ,こう呼ばれるようになった。
紅皿は 太田道灌の山吹の里伝説で,雨具がないことを古歌に託して,道灌に山吹の一枝を捧げた女性である。結構急な階段。お参りのご利益感じる?!★★
不動坂
天台寺門宗の寺院で、梅松山大聖院五大尊寺という。
本寺は不動院といって、西向天神社の別当寺であった。明治維新時の神仏分離令で西向天神社と分かれたが,その際,同社に伝わった文書類を継承し、現在でもそれを所蔵している。境内は狭く,ほとんど古いものはみあらたないが,ただ一つ,太田道灌の山吹の里伝説で知られる「紅皿の碑」は有名である。この碑は、もとは同寺に隣接する法善寺の崖際にあったもので,崖崩れのために現在地へ移したといい,江戸中期にはすでに現在地にあったことが知られている。風化によりかろうじて「不」だけ読めるが他の文字は謎!★★
久左衛門坂
この坂は,徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂道であったため,こう呼ばれるようになった。東京というよりもなんとなく箱根湯本の裏道のような坂道。★★
梯子坂
『豊多摩群誌』によれば「梯子坂 久左衛門坂北方の裏通に在り,東へ登り十間許り,坂道急にして 恰も梯子を登るが如し,故に名付く」とある。説明の通りで急坂、この先の階段もきつい。★★★
椎木坂
昔,戸山学校(現在の戸山ハイツ)の構内に椎の大木があり,この坂道を覆っていたため,こうよばれるようになったという。また,古くはこのあたりが 砂利取場であったところから,砂利坂 とも呼ばれた。
元々は正面の大久保通りは子の坂道だったのではないのかなぁ?!★★
六天坂
大正時代に開かれた坂道である。坂上に第六天の祠があったため六天坂と名付けられたという。(『落合新聞』)。
ダラダラ長い坂道。雰囲気は良い。★
見晴坂
むかし,この坂上からの眺望はすばらしく,特に富士山の雄大な姿は抜群であったという。坂下の水田地帯は 古来より 落合蛍 の名所として知られた。坂名はこれらの風景に由来するものであろう。
納得の坂名。その昔の風景が偲ばれる。★★★
市郎兵衛坂
『豊多摩群誌』によれば 「市郎兵衛坂 中井道,字不動谷と前谷戸との間にあり」と書かれている。
坂名の由来についてははっきりしない。この坂にゆかりのある人名をとったのであろうか。この道って、新目白通りの旧道だったのかなぁ。馬の背になっている坂道。★★
霞坂
『豊多摩郡誌』に「霞坂」大字下落合より小学校前へ開穿したる新坂なり」とある。
むかし,この坂下は一面の水田だったので,春がすみの立つ,のどかな田園風景が美しかったという。恰好イイ坂道なんだけど、新宿区の坂道では屈指の急こう配で歩きにくい。★★★
聖母坂
坂中腹に聖母病院があるためについた。
我が子二人とも聖母病院産!★★★
久七坂
『豊多摩群誌』に「久七坂,村道元耕作道,字本村に属す,急坂なり」とある。
土地の人たちの話によれば,むかし,妙正寺川べりの田んぼは 大半山上の農家のもので,久七坂も住家から田んぼへ下る野良道であったという。坂名はゆかりの人名にちなむものであろうか。新目白通りと山手通りの間の急な住宅街の坂道。★★★
七曲坂
『豊多摩群誌』には「七囲(めぐ)り坂 馬場下通 御禁止(おとめ)山の麓にあり,大字下落合字丸山と同本村の中間にあり。曲折七ヶ所より成れる坂道にして昔より本名称を得たるが,明治37年開窄して交通に便せり」とある。落合では最も古い坂道のひとつで『若葉の梢』に「頼朝公和田山に御出陣の時,軍勢をはかり給わんとて,七まがり坂を開かせ給へりと也。上は鼠山,西は玉川と猪の頭の落合に行き 柏木えもん桜へも近し」とある。
歩いてみたけど、今や七曲がりもない。心地よいワインディングロード。★★★
相馬坂
この坂に隣接する おとめ山公園は,江戸時代は将軍家御鷹場として,一般人の立ち入りを禁止し,御禁止山(おとめやま)と呼ばれた。明治時代になって 相馬家が買取り,屋敷を建てたが,この坂は同じ頃に新井薬師道から 相馬邸に開削された新坂であった。典型的な東京の裏道の結構急な坂道。★★★★
焼餅坂
昔,この辺りに焼餅を売る店があったので この名がつけられたものと思われる。別名 赤根坂 ともいわれている。新撰東京名所図会に「市谷山伏町と同甲良町との間を上る。西の方 柳町に下る坂あり,焼餅坂という。即ち,岩戸町箪笥町より通ずる区市改正の大通りなり」とある。また「続江戸砂子」「御府内備考」にも,焼餅坂の名が述べられている。
この先の坂道を下れば、東京六花街が待ってる。★★★
宝竜寺坂
昔, この辺りは七軒寺町という寺町で, この坂の上に宝竜寺という寺があったためこう呼ばれた。
また明治頃, 寺の樹木が繁り,淋しい坂であり,幽霊が出るといわれたため,幽霊坂とも呼ばれた。
どことなく、古き良き面影を感じられる坂道。★★
銀杏坂
この道路の北側に旗本久貝家の屋敷があり,屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂とよんだという(『御府内備考』)
ここから見ると緩やかな上り坂だけど、頂上を過ぎると急な坂道。★★
薬王寺坂通り
江戸時代,現在の外苑東通り沿いに薬王寺という寺院があった。これもチョイ寂しげな坂道。★
児玉坂通り
日露戦争で活躍した明治時代の陸軍大将,児玉源太郎の邸宅がこの付近にあった。
チョイ寂しげな坂道。★
合羽坂
新撰東京名所図会によれば「合羽坂は,四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて,仲之町に登る坂路をいう。昔 此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜など獺(かわうそ)しばしば出たりしを,里人誤りて 河童(かっぱ)と思いしより 坂の呼名と… 転じて 合羽の文字を用い云々」 何れにしても,昔この辺りは湿地帯であったことを意味し,この坂名がつけられたものと思われる。
東京都の碑があるってことはどんな要の通りなのだろう?牛込と市ヶ谷見附の接点?★★
渡邊坂
江戸時代,坂の東側に 旗本渡邊源蔵の屋敷があったのでめこう呼ばれた。源蔵は 五百石取りの御書院番で,寛文七年(1667) 市谷鷹匠町の屋敷と引換えに,この地を拝領し 渡邊家は幕末までこの地にあった。
江戸川橋から地蔵坂までだらだらと長い坂道。
面白味はないけど歴史は相当しみ込んでいそう!★★
地蔵坂
この坂の上に光照寺があり,そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があり,それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また藁を売る店があったため,別名「藁坂」とも呼ばれた。
右に曲がれば早大正門、まっすぐ突き当りを左に上がれば神楽坂。ワクワク感のある坂。
赤城坂
赤城神社のそばにあるのでこの名がある。
『新撰東京名所図絵』によれば,『・・・俊悪にして車通ずべからず・・・』とあり,かなりきつい坂だった当時の様子がしのばれる。
これは急!赤城神社までもまだ大変。★★★
相生坂(西側)
『続江戸砂子』によると「相生坂,小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。
また『新撰江戸誌』では 鼓坂 とみえ「二つありてつづみのごとし」とある。
東の方がに傾斜はキツイけど、西の方が歩いて楽しい。★★★
相生坂(東側)
『続江戸砂子』によると「相生坂,小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とある。
また『新撰江戸誌』では 鼓坂 とみえ「二つありてつづみのごとし」とある。
東の方が西よりもさらに傾斜はキツイ。★★
御殿坂
江戸時代,筑土八幡神社の西側は御殿山と呼ばれ(『御府内備考』),寛永のころ(1624~44),三代将軍家光が鷹狩りの祭に仮御殿を設けたという(江戸名所図会』)。坂名は御殿山に因む(『新鮮東京名所図会』)
短いけど趣のある坂。★★★
瓢箪坂
坂の途中がくびれているため, その形から瓢箪坂と呼ばれるようになったのであろう。
解説の通り、坂の上に来るとその名の由来がよくわかる。★★★★
朝日坂
昔,この坂の近くに泉蔵院という寺があり,その境内に朝日天神があったため,このあたりは旭町と呼ばれていた。坂名はそれらに因むものである。
まっすぐダラダラな坂。★
弁天坂 べんてんざか
坂名は,坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことに由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には,南蔵院門前に あまざけやおでんを売る屋台が立ち,人通りも多い様子が描かれている。
坂上近くの横寺町47番地には,尾崎紅葉が,明治二十四年から三十六年十月病没するまで住んでいた。門弟 泉鏡花,小栗風葉らが玄関番として住み,のちに弟子たちは 庭続きの箪笥町に家を借り,これを詩星堂または 紅葉塾と称した。
写真のこの通りは大久保で、本来の弁天坂は写真左上のガードレール★★
地蔵坂 じぞうざか
この坂の上に光照寺があり,そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があり,それに因んで地蔵坂と呼ばれた。また藁を売る店があったため,別名「藁坂」とも呼ばれた。途中で大きく曲がる急な坂。神楽坂界隈でも好物の坂道★★★★★
新坂
『御府内沿革図書』によると,享保十六年(1731)4月に 諏訪安芸守(戸田左門)の屋敷地の中に新しく道路が造られた。新坂 は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。
チョイト面白味に欠けるかなぁ!★
庾嶺坂
江戸初期,この坂のあたりが美しい梅林であったため,二代将軍秀忠公が 中国江西省の梅の名所 大庾嶺 にちなみ命名したと伝えられる。
別名「若宮坂」「行人坂」「祐玄坂」とも呼ばれる。
ステキな坂道★★★★★
逢坂
昔,小野美作吾という人が武蔵守となり,この地にきた時,美しい娘と恋仲になり,のちに都に帰って没したが,娘の夢により この坂で再び逢ったという伝説に因み,逢坂とよばれるようになったという。
由来のファンタジーは都内屈指の坂道★★★★
新助坂
信濃町と南元町5・6番地の間を南へくだる 急な坂である。昔このあたりに 新助という人が住んでいたことから 新助坂と称した。新選東京名所図会に 「新助坂は,四谷信濃町に上がるなり,一名をスベリ坂ともいう。坂の下には甲武鉄道トンネル門あり」と記している。
谷底に吸い込まれるような急坂★★★
千日坂
この坂下の低地は, 一行院千日寺があるため千日谷と呼ばれた(「紫の一本」)。 坂名も千日寺に因んで名づけられたと考えられる。なお,かつての千日坂は消滅し, 現在の千日坂は それと前後して造られたいわば新千日坂である。
坂下に来たところで見知らぬ女性に声をかけられた「坂きついですが、お手伝いしましょうか?」思わず涙が出てしまう。そんな急坂★★★★★
出羽坂
明治維新後,この坂上に旧松江藩主であった松平伯爵の屋敷が移転してきたため,こう呼ばれるようになった。松平邸内には,修徳園と呼ばれる名庭があったが,太平洋戦争後取り壊された。
何の変哲もない坂道だけど、心地よい斜度、下りよりものぼりの方が楽しい★
鉄砲坂
江戸時代,このあたりに鉄砲組屋敷があり,鉄砲訓練場や鉄砲鍛冶場などもあったためこう呼ばれるようになった。
また,それ以前は,この地に 鈴降稲荷という稲荷社があったことから,稲荷坂と呼ばれていたという。
鉄砲の練習ならば写真正面の丘が堂のようになっていたのか知りたい。★
闇坂
この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が繁り,薄暗い坂であったためこう呼ばれたという。
また,松厳寺の俗称が茶の木寺であるため,茶の木坂とも呼ばれた。
急な坂で薄気味悪い夜には歩きたくない坂道。坂道としての面白味はある。★★★
戒行寺坂 かいぎょうじざか
須賀町 戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺に因むものである。
別名,油揚坂ともいわれる。これは,昔この坂の途中に豆腐屋があり良質の油揚をつくっていたため こうよばれたという。
戒行寺は鬼平 長谷川平蔵の菩提寺。お寺さんの間の坂道、夜は不気味かもしれない。★★
観音坂
西念寺と真成院の間を南に下る坂。
坂名は 真成院の潮踏観音に因む。別名は西念寺坂・潮踏坂・潮干坂。
潮踏観音は,江戸時代以前に四谷周辺が潮踏の里と呼ばれたことに因む。潮の干満につれ 台石が湿ったり乾いたりするので 汐干観音とも呼ばれた。
結構な急坂、この一帯はお寺さんだらけで気味悪い。★
東福院坂(天王坂)
坂の途中にある 阿詳山東福院 に因んでこう呼ばれた。別名の 天王坂は,明治以前の須賀神社が 牛頭天王社と称していたため,この辺りが 天王横町 と呼ばれていたことによる。
ここもお寺さんの絡むかなり急な坂道。夜は不気味そう★★
円通寺坂
新宿通りから,四谷二丁目と三丁目の境界を南に 円通寺前に下る坂。
坂名は,この円通寺に因むものである。
坂の下半分のS字ワインディングロードは東京らしくない。気持ち良い路★★★
新坂
荒木町と舟町との境を北へ靖国通り手前までくだる坂である。 この坂名は, 全勝寺の地所を削って新しくできたので新坂と称した。 『新撰東京名所図会』に「全勝寺は…大門長くして杉樹連なりしを以て俗に杉門と呼べり。今は杉樹は伐採し, 其の路は新道に通じ直に市谷に達せり」と記している。
途中からグッと落ち込み、靖国通りへ一気に下る。坂上からの狭い視野の見晴らしも良い。
★★
団子坂
昔この辺一帯が低湿地であり,この坂はいつも泥んこで,歩くたびにまるで泥だんごのようになったという。嘉永七年(1854)の『江戸切絵図』には「馬ノ首ダンゴザカト云」とある。
大久保お通りの第一の坂道。南に行けば女子医大、北へ行けば医療センター病院坂みたいだ。★★
八幡坂
坂名は 穴八幡 にちなんで 八幡坂と名づけられたものである。この地は,もと高田と呼ばれ,穴八幡は 高田八幡とも呼ばれていた。
昔の道は急坂で,坂の下り口,上り口には,いわゆる「立ちん坊」が立ち,荷車の暴走を止める手助けをして,賃金をもらっていたと伝えられる。
昭和三十九年十二月,地下鉄早稲田駅が開業して,坂下の馬場下付近はにぎやかさを増した。今迄何人の早大生が歩いたのだろうか?シンプルだけど歴史を感じる坂道。
★★
念仏坂
『新撰東京名所図会』では,昔この坂あたりに老僧がいて昼夜念仏を唱えていたことにちなむという。 また,この坂は左右を谷に臨み,屈曲しており危険だったので,仏名を念じて往来する人がいたことにちなむともいう。
区の説明に思わず納得してしまう。何か魅かれるものがある坂・★★★
安養寺坂
『新編東京名所図会』に「安養寺は 念佛坂の少しく北の方を 西に大久保余丁町に上る坂路をいふ。傍らに 安養寺 あるに因めり」。
安養寺坂の坂名となった 安養寺は,浄土宗知恩院末の寺院でもと市谷左内町 富士見坂のあたりにあった。それが尾張藩邸内ということで,現在地に移ったという。
一本南に安養寺に続く坂道があるが、そちらの方にこの坂の名前を付けたいかなぁ。★
暗坂 くらやみざか (暗闇坂)
四谷北寺町へ出る道で,坂の左右に樹木が繁って暗かったためこの名がついた(『再校江戸砂子』)。 別名「くらがり坂」 ともいう。 (『江戸名勝志』)。 江戸時代,坂上一帯は多くの寺院が並び,四谷北寺町と呼ばれていた。
新宿通りからこの坂の上り口に立つと同時に坂の名前に納得してしまう。★★★★
中根坂
昔,この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので,人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。
DNP本社新築の為、周辺道路は綺麗に整備され、風情はないけど、馬の背の楽しい坂道。★★
鰻坂
坂が曲がりくねっており鰻のような坂だ,という意味から鰻坂と呼ばれた。 『御府内備考』の払方長の項に「里俗鰻坂と唱候,坂道入曲り登り云々…」と記されている。
牛込中央通りに坂は二分されている。西側は坂名の通りにクランク。★★
浄瑠璃坂
坂名の由来については,あやつり浄瑠璃が行われたため(『紫の一本』),かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(『再校江戸砂子』),などの諸説がある。 江戸時代,坂周辺は武家地であった。 この一帯で寛文十二年(1672)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ,江戸時代の三大仇討の一つとして有名である。
閑静な住宅街の中を抜ける坂道らしい坂道。★★
高力坂 こうりきざか
新撰東京名所図会によれば「市谷門より四谷門へ赴く,堀端辺に坂あり,高力坂という。幕臣高力小次郎の邸あり,松ありしかば此名を得たり,高力松は枯れて,今,人見の合力松を存せり,東京電車鉄道の外濠線往復す」とある。
すなわち,高力邸にあった松が 高力松 と呼ばれ有名だったので,その松にちなんで,坂名を高力坂と名づけたものと思われる。
南に市ヶ谷堀、西に四ツ谷双葉、北に防衛相を臨む交通量は多いが、気持ち良い散歩道★★★。
坂町坂
坂名は「坂町」という町名にちなんで,呼ばれていたようである。 『御府内備考』では,坂の名称はつけられていないものの,百メートルを越す長さがあることが記されている。
この坂は長くてかなり急坂。江戸時代の名残はないが、坂下の防衛省が坂を厳かにしている。
比丘尼坂
『御府内考』によると,昔,この坂の近くの尾張家の屋敷に剃髪した老女がいたことから,こう呼ばれたという。
短く寂しいが、南に延びる道と坂下左手の階段には歴史が垣間見られる。★★
禿坂(かむろざか)
昔,この坂下の自証院の横に小さな池があり,水遊びに来る禿頭(おかっぱを短く切り揃えたような髪形)の童たちの姿が見られたことから,禿坂と呼ばれるようになった。
靖国通りから1本北に入った坂道。外苑西の延伸工事でこの坂の存在が危惧されるところだが、大丈夫そうだ。★★★
安保坂(あぼざか)
この道路は,昭和十九年七月に都道と認定されたもので,坂名がついたのもきわめて新しい。
その時の東京都告示には「牛込区市ヶ谷富久町及四谷区四谷四丁目,花園町地内に於て (中略) 市道の路線を認定し之が区域を決定し其の供用を開始す」とある。
坂名の安保は,この地に 男爵安保清種海軍大将が住んでいたことに由来する。
曙橋、富久町、新宿5丁目と続く靖国通りの坂道。真昼間にこんなに空いている写真も滅多に撮れないかもしれない。★★★