そのものが当然とされている環境に置いては、なかなか気付くことを増やすことは出来ない。

短くとも、違う環境下に身を置きでもしない限りは、
対象が無いんだもの、比較そのものが出来ないんですよね。

田舎のそれ。
天気のそれ。
仕事のそれ。
近所のそれ。
手元のそれ。
眼前のそれ。

違う環境下、水一つとってみても、扱い方は180度も240度も違うんです。

それが分からない老害があまりにも多すぎる。
知らないものを「分からない」と言っては仕事にならなかった世代があったのかは調べる気すらないけれど、それ故に真意や事実からあまりに遠くあるところに頑として譲らない姿勢、世代が、この年齢になってやっと見える様になった。

「年長者を敬わない」と勘違いしないでほしいのだけど、自分自身は倣うことがたくさんあること、自分にはまだまだ出来ないことがたくさんあることは認識してるつもりです。
そんな同じ耳をもてだなんて不躾なことも言いません。
新しい変化を受け入れろなんてことも言わない。

ただ、「認める」基準だけを改めてほしい、それだけなんです。

認めるためには、律した自分の確固たるその指針が必要、それは多分僕らも同じ。
でも、刻々と変化し続ける技術や時代、視点や関係には、それが一番障害になると思うんです。
己の指針や観点以上に、ありあまる事実が世の中に散らばっていることを理解する上で、
本当にその認識、判断基準のままでいいのかは世代問わず問い続けなければいけない命題。

それを放棄したままに判断する立場の人間が「名前」や「利権」になびくその姿を、
下は当然反面教師として捉えています。

「世の中そういうものだ。」なんて誰が聞きたいと思うか。
ホント、それだけです。