出来ることと、触れることを一緒くたにしてはいけない。

至極当然な話ですが、人は「出来る」と聞く以上「出来る」と見なしてきます。
「出来ること」を「触れる程度」とするならば、謙遜ですむわけだけど、
逆の場合はそうはいかないんですよね。

「出来る」と言う以上は、「出来なければいけない」し、
「触れる」程度を「出来る」と言ってしまえば、
それは社会的には一種の詐欺行為ととられておかしくはない。

そんな琴線の上、「出来ること」をどうアウトプットしていくかが、
社会に求められる当然のクオリティで、
「触れる」程度を社会に求められるものと思い込んでるようじゃ、
前提にも立てていないんですよね。
社会に触れてこなかった証とも言えそうです。


素人だましを続ける先によほど魅力的なものが待ち受けているようならば進めばいいけれど、
社会にとって最低限失礼でないことは、保たなければいけない姿勢だと思うんです。
組織が許そうが、それは社会が許さない。

そんな社会あっての組織であり、自分である以上は、
社会に見合うべく、何をするべきかをこれでもかというくらいに考えるべき。
どんどん謙遜はするべきだし、挑戦はどんどん拾うべき。

邁進し、笑われる先に結果がついてくることを信じられれば、
多分、その瞬間、「出来ること」が備わってると思うんですよねー。