戦争の放棄を憲法とする国に生まれて本当に良かったとは思う。
だけど、誇示するはあくまで意識であって、具体的何か後ろ盾があっての話ではない。。。北が核実験を行ったとする報道だけで充分そう感じました。

言葉はあくまで「生」があってはじめて事を成すもの。「生」の後に言葉がついてきても、遺言以上にはならないんじゃないの??

単純な話、日本が誇示するその言葉が通じない相手にはさて何を?己が「生」をものともしない相手に、言葉のどんな効力を期待しているというのだろうね。
戦後60年の教訓は意識にははたらけど、実際問題、この現実の極論への対応にはまったくもってはたらかない。そんな言葉を当然という裏付けもない前提に立たせすぎている、裸の王様ではないけど、そんな素っ裸感を現在の日本に感じます。

倫理云々・大義名分とは「生」の部分を守ってはじめて振りかざせるものであって、それ以上でもそれ以下でも無い。厚くもあり、薄くもあるそれの後ろで、なんとなしにイチ生物としての防衛本能をとごとく削ぎ落とされて、某大国の来るべき機会のために生かされている様にも感じます。

誤解の無い様に言っておくのは、自分自身、戦争には断固反対。本当のド低能がやることと考えてます。
でも、攻撃でなく守り抜く力、それが武力であるなら仕方ないのだけど、そんなド低能の行動にこの世に生まれ得たこの機会をふいにさせることないよう自衛力を持つ必要性は間違いなくある、その様に考えてます。
それを持ち得るための憲法改正ならおそらく賛成するし、「攻撃は最大の防御」なんて格言にも、攻撃に転じる意識を含有している限りはどんな政策も賛成しない。要はそれを扱う人なんだと思います。

例え国際的非難の矢面に立たされても、諸国が求めるくだらない約束でがんじがらめにでもなんでもさせてやればいいじゃんね。国が人の命より先行する国であるなら別として、基本、自衛力の存在意義に国際意図が関われるはずもないし、どう関わろうともそんな約束事を反故することなく振りかざせるのが自衛力であるはず。
ま、この論調は「敵は国外にあり」との前提があるのだけどね。それでも当事者意識が足りないのか、政権絡めど「危機的想定」が奇妙なくらい抜け落ちた論議ばかりが飛び交っているように思うのだなぁ。

いつ日本はアジア触手のための「理由」になってしまうのかが、最近の懸念事項です。