かんがくかんかく(漢学感覚)

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更新情報>天馬行空 >依田百川肖像写真

WEBサイト「天馬行空 >学者の肖像」に学海・依田百川

(1833-1909)の肖像写真を追加しました。


依田については、以前より『学海画夢』(全2冊、湯上市兵衛、

1885年)に所収されている肖像画を掲載しており、現在

天馬行空 」のトップページでは両者を並べて掲載して

ありますので、ご覧下さい。

更新情報>天馬行空 >阪谷素肖像

WEBサイト「天馬行空 >学者の肖像」に朗盧・阪谷素(さかたに・

しろし、1822-81)の肖像を追加しました。


阪谷素は備中国川上郡に阪田左五八の次男として生まれ、

昌平坂学問所の教官であった古賀侗庵(178-1847)らに

学び、帰郷して郷校興譲館を開き、門人たちに教授しました。


維新後は太政官・陸軍省・文部省・内務省などに出仕し、内務省

警視局の准奏任御用掛に在職中の明治14年1月15日に死去

しました。

子息の阪谷芳郎(1863-1941)は、大蔵省の官僚から大蔵大臣

昇り、東京市長貴族院議員をつとめています。


その著作は『朗盧文鈔』・『朗盧全集』にまとめられており、

後者は国立国会図書館近代デジタルライブラリー から

画像を閲覧できますので、あわせてご覧下さい。

更新情報>天馬行空 >御巫清直肖像

WEBサイト「天馬行空 >学者の肖像」に御巫清直(みかなぎ・きよなお、

1812―94)の肖像を追加しました(「みかなぎ」は「みかんなぎ」とも)。


清直は杉原光基の長男として伊勢国度会郡に生まれ、従祖父御巫清富

の没後に途絶えていた御巫家を相続しました。

御巫家は伊勢神宮の外宮(豊受【とゆけ】大神宮)の摂社度会大国玉姫

神社の祝部職を世襲してきた家柄でした。


その後、清直は国学を修めて国学の立場から文献学・考証学の研究を

行い、その研究は『神宮神事考証 御巫清直全集』(大神宮叢書、1935-

36年)などにまとめられています。


同書は2006年に吉川弘文館 より復刊され、現在でも新刊書として購入

できますので、興味を持たれた方は現物に就いてご覧下さい。

更新情報>天馬行空 >大槻如電和歌短冊

WEBサイト「天馬行空 >>学者の筆跡」に大槻如電

(1845-1931)の和歌短冊を追加しました。


この和歌は如電が七十歳を迎えた「甲寅」の年、すなわち

大正3年(1914)の正月に詠まれたもので、「むかしより

まれてふよはひ むかへしは とまれかくまれ ほまれ

なるへし(昔より 稀てふ齢 迎へしは とまれかくまれ 誉れ

なるべし)とあります。


和漢洋の三学に秀でた如電は、この歌のように独特の

ユーモアのある和歌や俳句を多く残し、また「軍艦唱歌」

などの作詩も手がけました。


その年譜などは、またの機会に追加したいと思います。

更新情報>天馬行空 >河田羆肖像

WEBサイト「天馬行空 >学者の肖像」に柳荘・河田羆

(1842-1920)の肖像写真を追加しました。


塚本明毅(1833-85)や小島尚絅(1839-80)と同様に、

旧幕臣で維新後は内務省地理局を中心に勤務した

学者です。

塚本・小島らと同じく、漢学の素養の上に西洋の地理学を

学び、地図の作成や地誌の編纂に努めました。

また晩年の重野安繹(1827-1910)を補佐して『支那彊域

沿革図』『支那彊域沿革略説』(ともに富山房、1896年)、

『国史綜覧稿』(静嘉堂文庫、1906年)の編纂・刊行に

尽力しました。


これらの書物についても、また詳しく紹介したいと思います。

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