地震から激動の日々を過ごしております。
それと最近の私の近況をお話しします。
私には一緒に住んでいた大好きなおばぁちゃんがいます。
おばぁちゃんは、94歳です。
地震前におばぁちゃんが入院していたのですが、
地震と津波の影響で、病院の1階は津波が入り泥でぐちゃぐちゃ・断水で、おむつもない、流動食も底をつきてきて、病院が機能しなくなってしまい、急に病院から連絡があり
『もうこれ以上うちでは見れません
もう無理です
今からおばぁさまを引き取りに来てください
』
と言われて、急いでおばぁちゃんを病院に迎えにいきました。
強制退去されました。
病院側は転院先の手配は、一切ありませんでした。
うちのおばぁちゃんは、今年の1月8日に脳梗塞を起こし、失語症・全身麻痺・胃ろうの流動食になりました。
けど痴ほう症はないので、私達やお医者様、看護師さんがおばぁちゃんに話しかけると、おばぁちゃんは私達が言っている事は理解できて、
ゆっくりうなずいたり、笑ったり、目で返事をしてくれます。
話を戻しますが、そんなこんなで地震と津波の影響でいわきの病院は機能できるところがなく、風評被害で医療器具・医療材料・おむつ・流動食、食料・水整わない…
おばぁちゃんは、いわきの病院では見てもらえるところがなくなってしまいました。
病院に迎えにいった時、病院から渡されたものは1日ぶんの流動食、たった3袋。
『これを水で薄めて何日間か過ごしてください』と看護師さんに言われました。
普通に考えると、入れる量は今までと同じでも薄めてしまったら、栄養をとれる訳がない。
渡された3袋で1000カロリーにも満たないのでした。
栄養失調で死んでしまいます…
けど、3袋もらえただけでも有り難いと思いました。
そしてそれからどうなったかというと、実は私の兄が地震後、避難しなくてはいけなくなった時、万が一の時にそなえて、おばぁちゃんも一緒につれていけるように、まずはおばぁちゃんを受け入れてくれる病院をメインに探して、おばぁちゃんにあわせた避難先を探していたのです。
私も、家族もおばぁちゃん1人残していわきを離れるなんて事は、もともとまったく一切考えていませんでした。
それに地震直後は高台にあるおばさん宅にいて、病院からもすぐ近くでした。
おばさん宅から第一原発は30キロ以上離れていたので、室内退避でいようとみんなで決めていました。
そうしたところ、茨城県牛久市にある病院が受け入れてくれるとの事で、地震後、なかなか連絡が取りにくい中、通信可能になった度に何回も連絡をとりあっておりました。
3月16日におばぁちゃんを強制退去されてしまった病院に迎えに行き、流動食を3袋頂き、自宅におばぁちゃんを連れてきました。
おばぁちゃんを迎えに行ってる間も兄がずっと牛久の病院と連絡をとっていたところ牛久の病院の方が、
『今日これから今すぐにでも受け入れ可能です
お部屋のご準備して入院体勢お作りしておきますから
可能であれば、今からすぐでもきていいので
ぜひいらしてください
』
と言っていただけました

実は、母はいわきを離れることを最後の最後まであまり納得していませんでしたが、
『ママ
ばぁちゃんの事、後悔したくないって言ってたでしょ
いわきの病院はどこも無理なんだよ
このままいわきにいたら、流動食も3袋しかないし、ばぁちゃん死なせちゃうよ



もう行くんだからね
決まりだから
』
と、私・兄・叔母・イトコと、みんなで母を説得してやっと母は
『わかった。牛久にばぁちゃんを連れていこう
』
と母は納得して、それからもうすぐ急いで準備をして家を出ました。
いわきを出発したのは午後15時
外はヒョウが降り始めてました。
介護タクシーなど、おばぁちゃんを運んでくれる車は、どこも一切機能していなかったので、
おばぁちゃんは、叔母の車がワゴン車なので、後ろの座席を倒して布団をひいて、おばぁちゃんを寝かせ、叔母の車と兄の車、2代で牛久に向かいました。
幸いにも、この日(16日)から高速道路が緊急避難で無料解放されたばかりの日でした。
高速道路はガタガタで、慎重に運転していても、何度も車が飛び上がりました。
そして無事、牛久についたのは夜19時を少し過ぎてました。
牛久の病院の方々はみんな暖かく迎え入れてくださいました。
とりあえず、おばぁちゃんをすぐお部屋にうつし、ベッドに横になりました。
おばぁちゃん、長距離大変だったと思います。
体の負担も大きかった事でしょう。
おばぁちゃん無事でした

本当によかった


とりあえず、この日はおばぁちゃんを休ませて、
翌日に、私達家族は改めて、入院手続きにいく事になり、この日は病院をあとにしました。
長くなりましたので続きはまた書きます。
【つづく】
それと最近の私の近況をお話しします。
私には一緒に住んでいた大好きなおばぁちゃんがいます。
おばぁちゃんは、94歳です。
地震前におばぁちゃんが入院していたのですが、
地震と津波の影響で、病院の1階は津波が入り泥でぐちゃぐちゃ・断水で、おむつもない、流動食も底をつきてきて、病院が機能しなくなってしまい、急に病院から連絡があり
『もうこれ以上うちでは見れません
もう無理です
今からおばぁさまを引き取りに来てください
』と言われて、急いでおばぁちゃんを病院に迎えにいきました。
強制退去されました。
病院側は転院先の手配は、一切ありませんでした。
うちのおばぁちゃんは、今年の1月8日に脳梗塞を起こし、失語症・全身麻痺・胃ろうの流動食になりました。
けど痴ほう症はないので、私達やお医者様、看護師さんがおばぁちゃんに話しかけると、おばぁちゃんは私達が言っている事は理解できて、
ゆっくりうなずいたり、笑ったり、目で返事をしてくれます。
話を戻しますが、そんなこんなで地震と津波の影響でいわきの病院は機能できるところがなく、風評被害で医療器具・医療材料・おむつ・流動食、食料・水整わない…
おばぁちゃんは、いわきの病院では見てもらえるところがなくなってしまいました。
病院に迎えにいった時、病院から渡されたものは1日ぶんの流動食、たった3袋。
『これを水で薄めて何日間か過ごしてください』と看護師さんに言われました。
普通に考えると、入れる量は今までと同じでも薄めてしまったら、栄養をとれる訳がない。
渡された3袋で1000カロリーにも満たないのでした。
栄養失調で死んでしまいます…
けど、3袋もらえただけでも有り難いと思いました。
そしてそれからどうなったかというと、実は私の兄が地震後、避難しなくてはいけなくなった時、万が一の時にそなえて、おばぁちゃんも一緒につれていけるように、まずはおばぁちゃんを受け入れてくれる病院をメインに探して、おばぁちゃんにあわせた避難先を探していたのです。
私も、家族もおばぁちゃん1人残していわきを離れるなんて事は、もともとまったく一切考えていませんでした。
それに地震直後は高台にあるおばさん宅にいて、病院からもすぐ近くでした。
おばさん宅から第一原発は30キロ以上離れていたので、室内退避でいようとみんなで決めていました。
そうしたところ、茨城県牛久市にある病院が受け入れてくれるとの事で、地震後、なかなか連絡が取りにくい中、通信可能になった度に何回も連絡をとりあっておりました。
3月16日におばぁちゃんを強制退去されてしまった病院に迎えに行き、流動食を3袋頂き、自宅におばぁちゃんを連れてきました。
おばぁちゃんを迎えに行ってる間も兄がずっと牛久の病院と連絡をとっていたところ牛久の病院の方が、
『今日これから今すぐにでも受け入れ可能です
お部屋のご準備して入院体勢お作りしておきますから
可能であれば、今からすぐでもきていいので
ぜひいらしてください
』と言っていただけました


実は、母はいわきを離れることを最後の最後まであまり納得していませんでしたが、
『ママ
ばぁちゃんの事、後悔したくないって言ってたでしょ
いわきの病院はどこも無理なんだよ
このままいわきにいたら、流動食も3袋しかないし、ばぁちゃん死なせちゃうよ



もう行くんだからね
決まりだから
』と、私・兄・叔母・イトコと、みんなで母を説得してやっと母は
『わかった。牛久にばぁちゃんを連れていこう
』と母は納得して、それからもうすぐ急いで準備をして家を出ました。
いわきを出発したのは午後15時
外はヒョウが降り始めてました。
介護タクシーなど、おばぁちゃんを運んでくれる車は、どこも一切機能していなかったので、
おばぁちゃんは、叔母の車がワゴン車なので、後ろの座席を倒して布団をひいて、おばぁちゃんを寝かせ、叔母の車と兄の車、2代で牛久に向かいました。
幸いにも、この日(16日)から高速道路が緊急避難で無料解放されたばかりの日でした。
高速道路はガタガタで、慎重に運転していても、何度も車が飛び上がりました。
そして無事、牛久についたのは夜19時を少し過ぎてました。
牛久の病院の方々はみんな暖かく迎え入れてくださいました。
とりあえず、おばぁちゃんをすぐお部屋にうつし、ベッドに横になりました。
おばぁちゃん、長距離大変だったと思います。
体の負担も大きかった事でしょう。
おばぁちゃん無事でした


本当によかった



とりあえず、この日はおばぁちゃんを休ませて、
翌日に、私達家族は改めて、入院手続きにいく事になり、この日は病院をあとにしました。
長くなりましたので続きはまた書きます。
【つづく】










