今日の仕事帰りに交通系ICを端末にタッチするだけで参加できるエヴァンゲリオンのグッズ抽選がお目当てでTOHOシネマズに来たのだが、全然普通に外れたのでそのまま帰るのも癪だし何か観て帰ろう。と思ったところ上映開始時間が1番近くて観てもいいなと思ったのがミッドナイトスワンだった。
トランスジェンダーの主人公(体は男性だが、心は女性の方)を草彅剛が演じているという情報だけスマホで調べてすぐにチケットを買った。これが正解だった。
概要も感想もこの記事のメインではないので省略するが、めちゃめちゃに泣かされてしまった。エンドロールでは声が出ないように制御するので精一杯だった。マジでめっっっちゃ良かった。草彅の演技が半端じゃない。
んで、目ェ真っ赤な状態でシアターを出て気持ちよく帰ろうとしたらまさに今観たミッドナイトスワンのポスターを見つけたんだけど、それを見て「なんじゃこれ、ありえなくなぁい!?」と叫んだ(叫んでない)。
「最期の冬、母になりたいと思った。」というコピーが本当に本当に嫌いで死ね!!!!!って叫んでしまった(叫んでない)。このコピーの通り、草彅演じる凪沙は死んじゃうんだけど、これを先に見ていなかったから私は凪沙が死ぬことを知らずに鑑賞ができていた。
「約束された死」をもって同情と涙を誘うのがめちゃくちゃ嫌いでお前が死ね!と思ってしまう人間なので心の底から先にポスターやネットでこのコピーを見なくて良かったなと感じた。見ていたらこの映画を鑑賞しなかったと思う。
凪沙の死は物語の終盤、クライマックスの部分であり、それまでは死ぬ事が濃厚な描写はない。トランスジェンダーという特殊な性を持ち、人一倍生き辛く感じ、時には震えが止まらなくなり抗うつ剤を飲んで泣くシーン等はあったが直接的な死をイメージさせるような描写はなかった。
だからこそ私は急激な死に驚き、悲しみ、そこで強まる絆に感動して涙を流したのだ。これが、最初から死ぬと分かっていたら「いつ死ぬんだろう…」という考えが常に頭にあるまま鑑賞しなければならない。いざ死ぬと「あーここで泣けと?ハイハイ」とくっそ冷めてしまう。これは私が捻くれているのも悪いかもしれないが、しかし、死ぬことを約束してはいけないと思う。「死んでお別れ、はい悲しいね」というお話だと知っていながら観るのと不意に死ぬのでは「死の意味」に感じるものが違ってくると思う。
普段他の作品を観ていて死の予告をされなくても「この人死ぬ必要あった?」とか考えてしまう捻くれっぷりだが、ミッドナイトスワンでは凪沙の死んだ理由が妥当だと感じたし、観客を泣かせるためにただ殺されたわけじゃないので私は全然OKです、と思った。
「母になりたいと思った」という言葉はこの作品の主題なのでコピーに使うべきだが、「最期の冬」だけはナンセンスだろう。「この冬」とか「あの冬」とか、もうちょっとぼやかすべきである。よく考えれば「最期の冬、母になりたいと思った。」とは誰が主語になるのか。母になりたいと思った凪沙はもう死んでいるのに。霊?「事故物件 恐い間取り」よりもよほどミッドナイトスワンのコピーの方がホラーだ。
映画のポスターにおけるコピーはその作品の主題や印象を強烈に示すものであるのだから、「こいつ死ぬよ」ってのはやめて欲しいなぁ……と強く感じた。作品がめちゃめちゃ良かったので余計に。余計に。マジで。