恵泉キリスト教会会津チャペル

 

会津チャペルは、保守バプテスト同盟に属している正統的なプロテスタント教会です。

 

モルモン教会、統一教会、エホバの証人等とは違います。

(お困りの方はご相談下さい。)

 

TV番組「ライフライン」(福島放送・日曜日 5:30〜)の協力教会です。

 

〒965-0103 会津若松市真宮新町南1-104

Tel/Fax

0242-58-2922 / 090-7681-0649 (佐々木)

メール

K1000aizu.ayumu@gmail.com

 

集会案内

(各集会には、どなたも歓迎、自由に参加していただけます。)

 

礼拝 毎週日曜日

10:20〜11:45

(礼拝YouTubeチャンネル)

 

 

あいキッズ(キッズ礼拝) 毎週日曜日

(未就学児〜小学6年生)

13:30〜14:30

 

あいキッズスペシャル 毎月第2日曜日(現在、お休み中)

13:30〜15:00

 

賛美と祈り(祈祷会)

木曜日 10:30〜11:45


その他、

・聖書入門クラス

・出張礼拝

・ライフワークサロン

ご希望に応じて、随時行っています。

 

不定期開催

・国内外のゲストによるコンサート

・講演会

 

牧師

佐々木 歩

 

1984年宮城県生まれ。

クリスチャンの家庭に生まれ育つが、中学2年生の時に教会大嫌い人間になる。

その後、15歳の時にクリスチャン主催のキャンプで神様の愛を個人的に体験する。

その後、愛知県の神学校に行き聖書を学ぶ。

リバイバル聖書神学校卒業

東日本大震災で被災後、一般社団法人クラッシュ ジャパン年間震災支援の働きに従事

2018年、恵泉キリスト教会会津チャペルの牧師補に就任。

2020より同教会牧師。

現在、平日は会社で働きながら牧師を続ける。

 

家族は妻と子ども3人の5人家族。

趣味はらーめん食べ歩き。

 

 

 

ライフワーク宣教師

三留 謙一

1940年福島県西会津町生まれ。

山形大学工学部を卒業後、山形大学機械工学科助手、講師、助教授、教授を歴任し、
2005年3月末に同大学を定年退職、現在、山形大学名誉教授。
専門のライフワークのConical Gearの開発研究では、世界をリードし、
2005年4月にはConical Gear 技術研究所を設立、日本のPower Transmission技術向上を推進している。

聖書に出会い信仰の決断をしたのは、心身とも疲れ果てた32才の1972年7月1日、そして10月1日に受洗。
その後、山形福音伝道隊幹事長、恵泉キリスト教会教会学校校長、山形大学聖書研究会顧問を歴任する。
1995年から、恵泉キリスト教会の会津チャペル開拓の責任者となり、2005年11月に会津チャペルの牧師に就任。

2022年4月にライフワーク宣教師に就任。
家族は妻、光子との間に一男一女。

KVF に向けて(2) 視点の切り替え...エリヤが受けた逆風

                              佐々木歩

 

いよいよ今年の恵泉ビジョンフェスタが、今週土曜日から開催されます。
今年のテーマは「逆風を追い風に」です。

逆風を追い風にするには、「視点の切り替え」がとても
重要です。

それで今日は預言者の代表格「エリヤ」の歩みから、御言葉を共に受け取っていきま
す。

 

1.気にかけてくださる主

エリヤはアハブ王の妻イゼベルによって命を狙われている事を知りました。

そして、南ユダのベエル・シェバまで逃げました。エリヤは完全に恐れに支配されてしまいました。

主の前に「もう十分です。私のいのちを取ってください。」と言う程でした。

前日には450人の敵に一人で立ち向かい、力強い信仰を持っていたエリヤでした。
しかし、今は一人の女性の脅しに完全に怯えていたのです。

エリヤは、疲れて寝てしまいました。
すると、御使いによって、パンと水が用意されました。それを食べたエリヤは力を得ました。
そして、40 日間歩いて、「ホレブ」の山に向かいました。
 神様は、私たちの事を気にかけてくださるお方です。私たちも恐れに支配されてしまう時があります。また、人間関係で悩み落ち込んでしまう時もあるでしょう。

その時に、まず私たちがすべき事を主が教えています。それは、生きていく上で必要な「寝る事、食べる事、体を動かす事」です。
エリヤは生きる上で当たり前とも言うべき事に、まず目を向ける必要があったのです。
恐れに完全に支配されていたエリヤでした。しかし、睡眠と食事によって、気力体力ともに回復する事ができたのです。

 

2.外に出て主の前で声を聞く

ホレブ山に着いたエリヤは洞穴に入り一夜を過ごしました。

すると、主が「エリヤよ、ここで何をしているのか」と聞きました。
エリヤは、「自分はこんなに一生懸命に仕えてきたけど、仲間は殺され、私は命を狙われている」と、答えました。それは、エリヤの本音でした。

その後、主はエリヤに「外に出て、山の上で主の前に立て」と言いました。

そして、エリヤに聞こえてきたのは、「主の細い声」(ささやき)でした。
 私たちは、人生の中で逆風を受ける時に、自分の殻に閉じこもり出ないようにしてしまう時があるのではないでしょうか。

しかし、主は「外に出て、主の前に立ちなさい」と言われます。
それは、私たちが、「主に目を向ける」ためです。

私たちは抱えている問題や悩みにばかり、目を向けてしまいます。
しかし、「視点を切り替えて」主に目を向ける時に、主が語って下さるのです。

 

3.次にやるべき事を示す。

主の御声を聞いたエリヤは洞穴から出てきました。

そこで主は再び「エリヤよ、ここで何をしているのか」と聞きました。

エリヤは、先ほどと同じ事を答えました。

エリヤは主の声を聞いても、まだ自分の心の痛みに目を向けていました。
そこで、主はエリヤが次にやるべき事を示されました。

それは、「ハザエルとエフーに油を注いで王にすること。エリシャに油を注いで預言者とすること。」(15−16節)でした。

神様は、エリヤに預言者としてやるべき使命があると語られたのです。
 私たちも自分が受けた傷や痛みにばかり目を向けてしまう時があります。

しかし、主は「あなたがやるべき事がある」と語られます。
主は私たちが前に進めるように、やるべき事を私たちに示して下さるのです。

 

4.主の約束を信じる

そして、主は「イスラエルの中に、正しい者七千人を残している。」と、エリヤに語られました。

エリヤは真の神を信じる者は自分一人だけだと思い込んでいました。

孤独を感じていたのです。

しかし、主は「あなたは一人じゃない」と励まされました。
 人生の逆風を受けて、前に進めない時に、「どうして自分だけ」と思う事はないでしょうか。

主は私たちに沢山の約束を聖書を通して与えてくれています。

その御言葉を自分に語られている言葉として信じて、実行することによって状況は変化します。
御言葉を信じて、実行する者には、問題が解決していなくても、心に平安が訪れるのです。
 エリヤは、自分の心にある恐れや心の傷にばかり目を向けていました。
しかし、主はまずエリヤの体を整えました。そして、御声を聞かせ、やるべき事を示し、約束を与えてくれました。
そこに「視点を切り替えた」エリヤは新たな出発をする事ができたのです。
 神様は私たちにも、「視点を切り替えなさい」と語っておられます。
その時、逆風を追い風にして、前進していく事ができるのです。

 

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
                           へブル人への手紙 12:2」

KVF に向けて(1) 「主の弟子・・・・ハワイのロリンダ」
                              三留 謙一

 

 今年のKVFに向けての祈りの課題は、

1.聖霊の火が注がれる礼拝に!
2.神の家族を体験する交わりに!

3.使命に目覚める時に! であります。
ではどんな教会がそのモデルとなるのか。

今日は、ハワイのニューホープ教会とロリンダ姉を紹介します。

 

1.どん底で主に出会ったロリンダ

以下は、10 年前に会津へ震災支援に遣わされたゴスペルフラリーダー、ロリンダ・コハツ姉の、忘れられない証しです。

 

ロリンダ姉の証し
『私は21才で結婚しました。そして3人の子どもが、与えられました。

しかし、そのうち、主人も私もパーティへ行くようになり、酒だけなく麻薬にも手をだすようになりました。次第に、争いが絶えず、ついに離婚しました。
つらい、悲しい日々が,数年続きました。そんなある日、かつての友達に会いました。
彼女は輝いていました。そして私に言ったのです。
「ロリンダ。どうしてる?私たちの教会、ニューホープに来なさい。きっとやりなお
せるから。」数日後、また別のかつての友人に会いました。彼女もまた言ったのです。
「ロリンダ。ニューホープに来なさいよ。必ずやりなおせるから。」
私は自分に言いきかせました。「もし、もう一人が同じことを言ったら、ニューホープ教会へ行こう。」と。そして一週間後、別の友人に会ったのです。彼女も言いました。
「ロリンダ。一緒にニューホープへ行こう。一緒にやり直そう。」
次の日曜日、私はニューホープ教会へ行きました。メッセージを聞いて、涙がとま
らなかったのです。イエス様が今、確かにここにいると分かり、イエス様を信じ、心
に受け入れました。このように私は救われ、神の家に帰ったのです。
数週間後、驚いたことに、前の主人と再会したのです。彼もまたニューホープ教会
へ来て、イエス様に救われ、人生再出発していたのです。私たちは再婚しました。
こうして平和な家庭を、ようやく取り戻すことができたのです。』
歓喜にあふれた証しでした。しかし神様の祝福は、それで終わらなかったのです。

 

2.孤児の母となったロリンダ

再婚したふたりは、その後、一人の孤児を引きとりました。それからまたひとり、またひとりと引きとっていき、それまで全部で17 人を引きとり育てたのです。

そのうち 6 名は、養子となりました。今もまだ独立していない 3 名は、彼女のファミリーネームを名乗っている、とのことでした。

 

「まことに主は、シオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、
その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。
そこには楽しみと喜び、感謝と歌声がある。 イザヤ 51:3」

 

廃墟のようになっていた彼女の家庭でした。しかし主はそこをエデンの園のように
変え、17人の孤児を育てるホームに造り変えたのです。

証しの後、彼女とチームは、ゴスペルフラ「驚くばかりの」を歌い踊りました。それは歓喜にあふれ、教会堂を満たしました。

 

3.主の弟子ロリンダ

主イエスは、私たちを「キリストにある成人」として育成しようと、次の二つを最も大切な戒めとして命令しています。

 

『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これが第一の戒めです。 マタイ 22:37~39」

 

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』 という第二の戒めも、同じように
大切です。律法全体と預言書とが、この二つの戒めにかかっているのです。
マタイ 22:39~40」

ここで第二と言っていますが、「第一を言い換えれば第二」と言う意味です。

ですから、この第二の戒めに関連しては、次のようにも語っています。

 

「あなたがたが、これらのわたし兄弟たち、しかも最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのです。 マタイ25:40」

 

すなわち、「キリストにある成人」とは、神の最も大切な戒めを実行する人です。
第一は、主を愛し、主に感謝し、主の教えを喜びとし、実行し、それに生きる人です。
第二は、最も小さい者のために心・時間・労力・お金を使う(身銭を切る)人です。
ロリンダは、イエスのことば通りに生きました。17人も孤児を育てるには、どれ
ほどの労苦があったことでしょうか。

しかし孤児たちに、家庭の温かさと人生の希望を与えることが、彼女の至上の喜び、彼女の使命、ライフワークとなったのです。
彼女にふさわしい主のことば、それは次の聖句ではなんでしょうか。

 

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、
いのちの光を持つのです。」 ヨハネの福音書 8:12」

 

こうしてロリンダは(もちろん夫も)、いのちの光を持つ主の弟子に変えられました。
まことに、日本のことわざ「情は人のためならず」の通りです。

 

4.ニューホープ教会が教える三つのこと
(1)聖霊の火が注がれる礼拝

KVF においても、このような礼拝を捧げたい。
初めてこの教会へ行った時の彼女の証しを、改めて以下に記します。
「次の日曜日、私はニューホープ教会へ行きました。メッセージを聞いて、涙がとま
らなかったのです。イエス様が今、確かにここにいると分かり、イエス様を信じ、
心に受け入れました。このように私は救われ、神の家に帰ったのです。」
まさに聖霊の火が注がれる礼拝でした。ですから彼女は、初めて出席した礼拝のただ
中で、救われたのです。

KVF の礼拝においても、大喜多代表牧師を通して、聖霊の火が激しく注がれるように祈っていきましょう。

 

(2)神の家族を体験する交わりに!
ロリンダの友達は、彼女のためにいつも祈っていた。だから出会った時すぐに、教会
へ誘っています。三番目に誘った友人のことばには泣かされます。
「ロリンダ。一緒にニューホープへ行こう。一緒にやり直そう。」
いつもロリンダのために祈っている。その思いがあふれています。まさに神の家族で
す。

 

(3)使命に目覚める時に!

ニューホープ教会を通して主は、初めはロリンダに「人生の希望と再出発」を与えました。しかし次には、「孤児たちの母になる使命」に目覚めさせたのです。「孤児たちに家族の温かさと人生再出発の希望を与える」ことが、
彼女の至上の喜び、ライフワークになりました。ロリンダの友人たちも、彼女の使命
を共有し、一緒に支えました。まさに神の家族としての使命に生き始めたのです。

 

以上が教会の働き「宣教と育成」です。

恵泉キリスト教会も会津チャペルも、このような教会を目指します。主は救われた聖徒ひとり一人に、ふさわしい使命を与え、それを全うできるように必ず育成してくださいます。
その出発点が、KVF。大きな期待をもってKVFに参加しましょう。
♪♪ 主イエスに仕えることこそ すべてにまさる喜び
絶えずイエスに仕えていこう すべてにまさるわが喜び♪♪
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敬老の日メッセージ 年老いてもなお
                                佐々木歩

 

1.なつめやしの木のように

「正しい者は、なつめやしの木のように栄え、レバノンの杉のように育ちます。

                              詩篇 92:12」

 

皆さんは「なつめやしの木」をご存知でしょうか?

葉っぱは大きいもので2メートルぐらいあり、木の高さは10メートルぐらいあります。
この木には「デーツ」という実がなります。とても甘い実で、多くの実がなります。

また、その栄養価は高く、ミネラルが豊富で、鉄分、カルシウム、カリウム、リンなどを多く含んでいます。現在でも北アフリカや中東では主要食品の一つとなっています。また、聖書において「なつめやし」は優美と勝利、祝福の象徴とされています。
 「正しい者」とはどのような人でしょうか?

誠実な人をイメージすると思います。

しかし、聖書が語る「正しい」とは、「御言葉の内側に立つ」事を言います。
つまり、御言葉の上にしっかりと立っている人は「正しい人」なのです。

その人は、なつめやしのように多くの実を結び、レバノンの杉のように大きく育つのです。

 

2.年老いても「なお」
「彼らは、【主】の家に植えられ、私たちの神の大庭で栄えます。彼らは年老いてもなお、実を実らせ、みずみずしく、おい茂っていましょう。詩篇92:13−14」

 

 聖書を見ると、年配者が神様の働きのために多く用いられています。
・「ノアの箱舟」で有名なノアは、箱舟を作った時 600 歳でした。
・モーセがエジプトから脱出した時の年齢は 80 歳でした。
・ヨシュアが、イスラエルの民を率いた時は 80 歳ぐらいでした。
神様に用いられる人の基準は年齢ではありません。

「主の言葉に従う人」なのです。
 14 節に「年老いてもなお」と書かれています。その言葉の後に続くのは「実を実らせ、みずみずしく、生い茂っていましょう」です。

イエス様を信じ、イエス様を「主」として歩む人の人生は、年老いても「なお」豊かな実を結ぶ人生なのです。


3.感謝と賛美
詩篇92篇1節には、

「主に感謝することは、良いことです。いと高き方よあなたの御名をほめ歌うことは。」と書かれています。

そして、終わりの15節には「こうして彼らは、主の正しいことを告げましょう。

主は、わが岩。主には不正がありません。」と信仰の告白で終わっています。

つまり、「感謝」と「賛美」(信仰告白)をする人は、いつまでも若々しくいる事がで
きるのです。

 

(1)感謝

一般的に「感謝」は、感謝「するべき事」がある時にします。

しかし、聖書は感謝「できない時」にも感謝しようと語ります。

なぜなら、私たちの人生はどのような状況になっても、「主の御手の中」にあるからです。苦しく、辛い状況にあったとしても、そこにも主の計画があります。

ですから、イエス様が全ての事を益としてくださる事を信じて「感謝」しましょう。

 

(2)賛美(信仰告白)

詩篇は全部で 150 篇あります。

その中には人間の苦悩や叫び、嘆きや悲しみが表れています。
多くの詩篇を書いたダビデは55篇で、

「私をみこころに留め、私に答えてください。私は悲嘆に暮れ、泣き叫んでいます。」と言っています。

しかし、33篇では、

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」と、

主への信頼を告白しているのです。

私たちも賛美の中で信仰を告白しましょう。
 私たちに与えられている神様からの約束は素晴らしい約束です。

毎日、「感謝」と「賛美」を捧げましょう。

そして、年老いてもなお輝く、豊かな人生を歩んでいきましょう。

       「主」と出会う
                              佐々木 のぞみ

 

イエス様と出会い共に歩む人生は、「私の主はイエス様です。」と告白し従って
いく人生です。

 

「神はモーセに語り、彼に仰せられた。『わたしは主である』出エジプト6章 2 節」

 

「主」と出会ったモーセ
 神様は、エジプトの地で奴隷となっていたイスラエルの人々を、モーセを用いて
解放し、約束の地に導きます。
神様は、モーセに最初に現れた時から、「エジプトの王は強いられなければ、
あなたがたを行かせないことを、わたしはよく知っている。出エジプト 3 章 19 節」
と、エジプトの王(ファラオ)が簡単にはイスラエルの民を解放しないと語られま
す。

モーセは、彼に対する神様からの召しをすぐに受け止めることはできませんで
した。しかし、神様とのやりとりを繰り返し、助け手として備えられた兄のアロン
と共に、神様の言葉に従いファラオのもとへと行きました。
 「主」という意味は、神様が全てのものの支配者であり、主人であるという意味
です。モーセの歩みは、神様を「主」として認め、従っていく歩みでした。

 

(1)わからなくても従った
「主はモーセに言われた。『あなたには、わたしがファラオにしようとしている
ことが今にわかる。』 出エジプト6章 1 節」

 

神様は、どのような工程でイスラエルをエジプトから導き出すか、細かくモーセ
には教えられませんでした。

モーセがファラオに、神様からのメッセージを伝える事で、イスラエルの民はさらに苦しめられることとなりました。理解できないと思われる状況の中でも、モーセは神様に尋ね、ひとつひとつ従いました。

 

(2)何度も従った
頑固な相手のもとに何度も行くことは、気が重いことかもしれません。
それでも、モーセは神様に従い頑固な王のもとへと行き、神様に語りなさいと言わ
れたことを語りました。

しかし、最初から語られていたとおりに、ファラオは頑なになりイスラエルを行かせようとはしませんでした。そのたびに、神様はしるしと奇跡を行われます。

 

「聖書はファラオにこう言っています。『このことのために、
わたしはあなたを立てておいた。わたしの力をあなたに示すため、そうして、
わたしの名を全地に知らしめるためである。』ローマ9章 17 節」

 

モーセが何度もファラオのもとへ行ったことも、ファラオが頑なになったことも
神様のご計画のうちにある事でした。それは、エジプト、イスラエル、また全ての
民が神様の力を見、主を認めるためでした。

 

イエス様こそ私の「主」です
 私たちの人生の主は誰でしょうか?

誰を中心として、生きているでしょうか。
また、私たちの心を支配しているものは何でしょうか?
イエス様を主とする時に、恐れや怒り、失望の奴隷ではなくなります。
私たちの主は、私たちを愛するあまり、命をも捨ててくださいました。
この方に、「私の主はイエス様です。」と日々告白し従いましょう。

マルコの福音書シリーズ10 古い皮袋から新しい皮袋へ
                               佐々木歩

 

1. 律法主義の生き方

マタイが取税人仲間や罪人達と一緒に、イエス様を囲んで食事をしている時でした。
パリサイ人達は、「なぜ断食をしないのですか?」と、イエス様に質問しました。
ユダヤ人は聖書の預言に書かれている「メシア」を待ち望んでいました。

そして、ユダヤ人にとってメシア待望の祈りは、「断食」の祈りになっていきました。
断食と言っても、何日間も食を断つわけではありません。
週に 2 日間、午前6時から午後6時まで断食をしていたようです。
そして、この断食は任意の断食でした。ですから、他の人へ断食を強要する必要
はありません。
パリサイ人は断食をする日なのにも関わらず、食事を楽しんでいるイエス様
一行の様子を見て非難したのです。

 

2.新しい生き方

それに対して、イエス様は答えます。

「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。

花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。マルコ2:19」

 

私たちが誰かの結婚披露宴に招待されたとします。

その式場に、「断食中だから食事をしません。」という人がいたらどう思うでしょうか?新郎新婦は招いたゲストに美味しい料理を準備しています。

それを食べないという事は失礼であり、新郎新婦を悲しませる事でもあるわけです。
 当時のイスラエルの結婚式は、日本と違って連日行われました。

ですので、断食をする日に結婚披露宴を行う時もありました。

しかし、祝宴なので、その日は「断食をしなくても良い」という教えがあったのです。その事をイエス様は例えとして話しました。
マタイが主催したこの食事は祝福の時間です。ですから、イエス様は喜びの日に
断食をする必要はないという意味で言われたのです。
さらにイエス様は「新しい布切れと古い衣」と「新しいぶどう酒と古い皮袋」の
話をしました。
「古い衣と古い皮袋」は、律法主義の生き方の事です。
「新しい布切れと新しい皮袋」は、キリストの律法(教え)の事を言っています。
つまり、イエス様は「キリストの律法による新しい生き方」をパリサイ人に伝え
たかったのです。

 

3. 古い皮袋から新しい皮袋へ

現代を生きるクリスチャンにとっての「古い皮袋」と「新しい皮袋」とはなんでしょうか。
それは、私たちの「生き方」と言えます。

つまり、「古い皮袋」とは、古い生き方のことです。

そして、「新しい皮袋」とは、新しい生き方のことです。
私たちはイエス様に出会う前は、「自分が心の主人」でした。
しかし、イエス様を信じた後は「イエス様が心の主人」となったのです。
だから、クリスチャンはイエス様の言葉に従って生きるのです。
では、「古い生き方」とは何でしょうか?

例えば、律法主義、道徳主義、伝統にこだわり続ける事などです。

また、過剰な恐れ。金銭への執着や不安。プライド。怒りなどです。

 今日、「古い皮袋」を捨てる事ができるように共に祈りましょう。
そして、「新しい皮袋」を手にして、主の栄光を輝かせていきましょう。

「天の故郷を目指して」
                           三留 謙一

 

9月20日は敬老の日です。今日はその日を先取りして、長年の労苦を生き抜き、今日の土台を築いてくださった方々に、その労をねぎらい、心から感謝する日と致します。では、高齢世代にとって、最大の希望と心配は何でしょうか。

それは、迫りくる死を意識しながら、
(1)「魂のふるさと、永遠のふるさとに帰りたい。」
(2)「本当にそのことが可能なのか。」
の二つかと思います。

それで今日は、これら二つに同時に答える、「天へ帰る保証、天の国籍」を、あなたにプレゼント致します。

 

1.「ふるさとに帰りたい」

 この思いは私たちの心にはいつもある。

学校唱歌「ふるさと」は、全国で、しかも全世代を通して歌われてきています。
ゴスペル歌手の森祐理さんが、ブラジルへ行った時の話です。

 

「ブラジルで、日系移民の方々へコンサートを致しました。懐かしい童謡や唱歌をたくさん歌いましたが、『ふるさと』を歌ったときの様子は忘れられません。
中には号泣する方もあるほどでした。この唱歌が、どれほど移民の方々の支えてになっているかを、肌で感じました。そしてあるおじいさんがこう言ってくれたのです。
『私たちはもう故郷の日本には帰れない。でもその悲しみも、天にある故郷に
帰れると思ったら、希望に変わる。
この歌は、永遠の故郷に帰れるという大きな慰めを与えてくれる歌なんだよ。』」

 

この様子は東日本大震災の際の仮設住宅でも、野沢しなの木ホームでも似ていました。入居者はそこから出て、家へ帰ることはできないことを知っている。

知っていながら、会津二胡アンアンブルが訪問した時もクリスマスの時も、真剣に歌ったのです。それは、実の故郷には帰れなくとも、やはり魂の故郷を求めているからではないでしょうか。

 

2.あなたも天の故郷に帰れます。

1972年7月1日の夜、私は「イエス様。どうぞ私の心に来てください。」と祈りました。その2週間後、10年来の虚無感が消え、心に泉があふれ出し、生まれて初めて心底からの平安を体験したのです。
私は生き返ったのです。 
カギは聖霊さまでした。

実は私が「イエス様」と呼んだ瞬間に、聖霊様は私の心に来られ、同時に天国の国籍も与えてくださっていたのです。

 

「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。コリント第一12:3」

 

「聖霊は、私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。エペソ 1:14」

 

このようにイエス様を信じた私たちには、天に帰る保証がすでに与えられています。

 

3.やがて天にて

詩篇の記者は天のお父様に向って叫びました。
「天では、あなたのほかに、誰を持つことができましょう。 詩篇73:25 」

 

永遠のいのちほど価値あるものはありません。

永遠のいのちを得、父なる神のもとに帰れる。この確信が死を乗り越える真の力でではないでしょうか。

これこそが熟年を生きぬく力です。私たちは必ず天国へ帰れます。

輝かしいイエスさまを見上げ、天国までの道を一緒に歩んで行きましょう。

 

   ♪♪ 輝かしいイエスさま見上げて
 一緒に行こう 天国までの道を ♪♪(大きな賛美) 

マルコの福音書シリーズ

   イエス様は罪人を招くために来られた
                               佐々木歩


1.罪人に目を向けられた。

イエス様は収税所に座っている「アルパヨの子レビ」を見ました。

マタイの福音書の並行箇所を見ると、「マタイ」という名前で登場しています。

諸説ありますが、「レビ」と「マタイ」は同一人物だと言われています。
 マタイの職業は「取税人」でした。当時の社会で「取税人」は、周囲から罪人と同等に見られていました。なぜなら、取税人は、ローマ帝国のために同胞のユダヤ人から税金を取り立てていたからです。つまり、ローマの手先だと軽蔑されていたのです。

ローマ帝国は現地で取税人を募集しました。そして、入札で一番高い値段を付けた人に取税人の職を与えました。つまり、自らが志願して取税人になるのです。

取税人は指定された金額の税金はローマ帝国に納めます。しかし、ローマ帝国から

給料が支払われるわけではありません。ですから、同胞のユダヤ人から多く徴収して、自分の収入にしていました。そのような、取税人マタイにイエス様は目を留められたのです。
 私たちは、人を見る時にその人のどこを見るでしょうか。

外見や職業等を最初に気にするのではないでしょうか。

しかし、イエス様は、取税人マタイの「心」を見ました。そして、「わたしについて来なさい」と声をかけられたのです。
マタイはすぐに取税人の仕事を辞めて、イエス様に従いました。


2.罪人の友となられた

マタイはよほど嬉しかったのでしょう。イエス様を自宅に招き食事をしました。

そこには、取税人仲間や罪人達も一緒にいました。
 私はこの物語を思い浮かべると胸が熱くなります。

イエス様は神の子です。最も聖いお方です。それにも関わらず、罪人と共に食事をして下さるのです。

食事を共にするという行為には、「わたしはあなたを受け入れている」というメッセージが込められているのです。

イエス様は決して罪人を見放しません。友となり、食事をしてくださるお方です。

そのような、愛に溢れているお方なのです。


3.罪人を招くために来られた。

その食事の光景を見ていた律法学者がイエスの弟子達に言いました。

「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。マルコ2:16」

 

 当時の社会では、取税人や罪人と関わりを持つことは禁じられていました。

当然、一緒に食事をする事はありませんでした。

ですから、律法学者は弟子達を問い詰めたのです。

しかし、イエス様は弟子達を守られます。


「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。マルコ2:17」


「正しい人」とは、「自分は正しい道を歩んでいる」と思っている人の事です。

直接的には律法学者の事を指しています。

しかし、イエス様が招いている人とは、「自分は罪人」だと自覚している人の事です。マタイは、「自分は悪い事をしている」と自覚していたのでしょう。

そのような心だったからこそ、イエス様はマタイを招きました。

そして、マタイはすぐに従ったのです。
 マタイがイエス様の弟子になった後の事は、聖書にあまり書かれていません。

しかし、後にマタイは「マタイの福音書」を執筆しました。

それが、現在、世界中の教会で読まれています。
 イエス様に従った後の事は、主が責任を持って導いて下さいます。

私たちは「わたしについて来なさい」と言われるイエス様の言葉に従って行動するだけで良いのです。それを継続する時に、主が私たちを用いて下さるのです。

今週もイエス様の言葉に従って共に歩んでいきましょう。

お盆シリーズメッセージ(2) 

祖先には感謝、礼拝は創造主に
                                 三留 謙一

 

 今お盆シーズンを迎え、また今日15日は、太平洋戦争の敗戦記念日を迎えました。
実はお盆シーズンは、私達クリスチャンが祖先や戦争の犠牲者に対して神の愛を示す
絶好の機会です。

ではどう祝福できるのか。以下はお盆シリーズのメッセージ、第2報です。

 

1.戦争の惨禍を直視

その究極の原因は原罪 戦争の惨禍を次世代に引き継ぐ。それは戦争世代の責務です。何よりも初めに私たちは、戦争の惨禍を直視する必要があります。

この戦争では、日本国民が約 310 万人、アジアの人々約 1000 万人が犠牲になりました。ノモハン(モンゴルと中国東北部の境、戦死者約 7700 名)での惨敗、インパール(インドインパールを目指した)作戦の惨敗(約 3 万人戦死)、ガタルカナル島(約 3 万人戦死、私の叔父はここで戦死)、硫黄島(約 2 万一千名戦死)、沖縄、東京大空襲、広島と長崎への原爆投下など、戦争がもたらす悲惨には限りがありません。その究極の原因は人間の原罪にあります。

 

2.あなたの祖先の数は?

さてあなたは、自分の祖先を何代前まで知っていますか。

それで今日は祖先の数を、数学的に計算してみます。

私の祖先の数は、父と母の 2人、父の両親と母の両親で 4 人、この 4 人の両親が 8 人、これを順次繰り返して、10代までさかのぼった祖先の総数は 2046 人。(正確な計算:2+4+8+16+32+64+128+256+512+1,024 = 2,046)。

さらに 20 代まででは約 210 万、30 代までは約 21 億 5千万です。
一世代 30 年として概算すれば、過去 300 年間で約 2000 人、600 年間で約 200 万人、900 年間では約 20 億人の私の祖先が生きていたことになります。

しかしこの計算法では、900 年前の日本の人口が約 10 億人となり、900 年前の日本総人口約 1000 万よりはるかに多くなり、矛盾があります。

この事実を勘案し、祖先の総数を約一千万人と仮定しておきます。しかしこれら膨大な数の祖先たちの中で、私が知っているのは、父と母、父方の祖父母の 4 人だけなのです。
では祖先をさかのぼれば誰に達するか。進化論は、類人猿に、さらにさかのぼって
アメーバに、究極には物質に達すると主張します。他方、聖書は、祖先をさかのぼれ
ば、究極には最初の人アダムとエバに達すると宣言しています。

 

3.祭司として祖先と家族を祝福する。

自分の祖先の数を約一千万人として、この中に主に愛された人は、ひとりもいなかったのか。

家族や親族の中で唯一最初のクリスチャンと思っていた私には、つぎの御ことばは、大きな励ましでした。

 

「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからで
ある。 出エジプト20:6」

 

「主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため、彼らの後
の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日、ある通りで
ある。 申命記10:15」

 

今、私が主に選ばれているのは、かつて創造主の愛の中にいた祖先がいたため、と
聖書は語ります。

創造主の救済計画の中では、祖先―自分―子孫という家系全体が一つのセットです(第2テモテ1:5)。

ですから私達がキリスト者として忠実に歩むとき、私達に注がれる祝福は祖先や家族、親族、そして子孫にまで及びます。
ですから、「自分はこの家族に遣わされた祭司、私が主と歩むから家族は主に守られ
る。」と祭司の立場で、祖先と家族のためにとりなし、祝福できます。

理由は以下の通りです。

(1)最後の審判はまだである。

第一に最後の審判はまだであります。それは創造主の父なる神だけの権限です。主に救われないで亡くなった魂は、今も、よみにて最後の審判を待っており、最後の審判において、使徒信条が語るとおり、さばかれます。

「主は、・・・かしこより来たりて、
生けるものと死ねるものとをさばきたまわん。」 (使徒信条)

 

(2)キリスト・イエスがとりなしています。

第二に祖先を最も愛している方はイエス様です。

イエス様は祖先を創造し、祖先を贖うため十字架で命を捨て、復活し、今も天にて祖先のためにもとりなしておられます。

 

「罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方
であるキリスト・イエスが、神の右の座につき、私たちのためにとりなしていてく
ださるのです。 ローマ 8:34」

 

(3)イエス・キリストの贖いの力は無限です。

第三にキリストの贖いの力は無限、それは過去・現代・未来における全ての人におよびます。

このことを決して忘れてはなりません。

 

「しかしキリストは、・・・・やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血に
よって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
ヘブル 9:12」

 

(4)祭司としてとりなし祈ることができます。

第四に私たちはイエス様にならい、自分の家系およびこの地に遣わされた祭司として、とりなし祈ることができます。

 

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
ヘブル人への手紙 12:2」

 

4.祖先には感謝を、礼拝は創造主に

私は今、アダムとエバまでの膨大な数の祖先たちに思いをはせています。

その中のひとりでも存在しなかったら、今の私はこの世に存在していません。

祖先は命の源ですからとても大事です。

ですから聖書は、「あなたの父と母を敬え。出エジプト20:12」と命令しています。
両親を敬い、祖先に感謝するように命じています。

それでもこれら全ての祖先を創造したのは、創造主です。

ですから祖先への感謝の真の実践は、イエス・キリストを通して、創造主を信じ、崇拝し、仕えることです。
実に「祖先には感謝を、礼拝は創造主に」であります。

お盆対応シリーズ(1) 創造主は唯一全能
                                 三留 謙一

 

お盆を迎え、「ああ気が重い」と思う方も多いのではないでしょうか。

では私達クリスチャンは、どうすれば、祖先と真正面から向き合い、家族を祝福できるのでしょうか。その第一報です。

 

1.仏像の盗難と売買

2014 年に長崎県対馬から仏像三体が盗まれました。
その二体が翌年に韓国から返還されました。しかし、残りの一体は、「昔、韓国か
ら盗まれたもの。韓国に所有者がいる。だから返還できない。」と韓国政府のこと
ばでした。
また数年前のNHKプロジェクトXは、「今、仏像の盗難事件が、全国で多発し
ている。京都や奈良だけでなく、田舎の無人の寺からも盗まれている。それは日本
の仏像が、芸術品として高く評価されてきたから。」という報告でした。
それを裏付けするように7年前、ニューヨークのオークションで、古い仏像が
落札。価格は推定14~15億円、購入者は日本の新興宗教教団らしい、とのこと
でした。
会津は仏像の宝庫で、国内では奈良地方に次いで多く、2番目とのこと。その
代表は湯川村の勝常寺。そこには平安時代の仏像 35 体(うち 3 体は国宝、7体は
国の重要文化財)が保存されている。それゆえに国宝に指定されたとのことでした。
では日本には現在どれほどの仏像があるのか。もちろん数え切れません。しかも
今も仏像は製作され、売買され、盗まれています。クリスチャンから見れば無意味
ですが、毎月、新聞に販売公告がでるほどです。これらの動向に対する聖書の警告
です。

 

「彫刻師の刻んだ彫像や鋳造、偽りを教える者が、何の役に立とう。
もの言わぬ偽りの神々を造って、これを造った者が、それにたよったところで、
何の役に立とう。
ああ。木に向かって目をさませと言い、黙っている石に向かって起きろという者
よ。それは像だ。それは金や銀をかぶせたもの。その中には何の息もない。
ハバクク書2:18、19」

2.創造主とこの世の神々との比較
「あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主は永遠の神。地の果てまで創造された方。 イザヤ40:28」

 

「そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世
の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神(創造主)以外には
神は存在しないことを知っています。
なるほど多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも
地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神(創造主)がおられるだけで、
すべてのものはこの創造主から出ており、私たちもこの創造主のために存在して
いるのです。 第一コリント8:4~6」

 

すなわち聖書の神は唯一全能であり、天と地の創造主、永遠の神です。
さらに分かりやすく言えば、
(1) 物質からできたものは創造主ではありません。

太陽も、高い山も、巨木も大きな滝も、創造主ではありません。創造主は永遠、

不変、無限なる霊です。

 

(2) 人間が造ったものは創造主にはなれません。

純金の大きな仏像も、いかに芸術性の高い彫像も、やはり物質で作られたものにすぎません。

 

(3)人間は生きているときも死後も創造主にはなれません。

どんな偉大な人も、やはり人であり、創造主に造られた一被造物です。

私たちの祖先も同じです。

 

3.私たちの覚悟・・・ニ君に仕えず
「われらの神は唯一全能、天と地の創造主。私は二君に仕えず、固く節操を守りま
す。」
この生き方、この覚悟が、武士道にも通じ、人々の心の琴線に触れます。家族を
主へ導く一歩となります。 恐れることはありません。このようにして、家族や
親戚を祝福していきましょう。
「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。第一テモテ6:12」