おはようございます☀
鳶職の現場で、宗教勧誘員のようだと言われている。
空です。
「忙しい」と言うと、
「終わった後は何してるの?」と聞かれる。
「勉強してます」と答える。
「何の?」
少し間があって、
「占いの勉強です」と言う。
その瞬間、
空気の質が変わる。
占いという言葉は、
人によっては
宗教、洗脳、依存、非科学、
そういったイメージと直結するらしい。
ここで面白いのは、
正しいか間違っているかではなく、
**人は“知らないものを既存の枠に入れて理解する”**という構造だ。
理解できないものは、
危険という棚に置く。
怪しいというラベルを貼る。
それは攻撃ではなく、
安心のための整理行動だ。
だから責める必要はない。
人は変えられない。
そして、自分も無理に変える必要はない。
必要なのは、
視座を一段上げることだけ。
占いの勉強をしている、と言ったときに起きる反応は、
相手の世界観の表明だ。
それは
「自分は現実主義だ」という宣言かもしれないし、
「精神性に距離を置きたい」という防衛かもしれない。
そこに善悪はない。
ただ、世界の地図が違うだけだ。
ここで感情を乗せると、
摩擦が生まれる。
だが、観察に徹すると、
これは一つの社会的現象になる。
・肉体労働者が精神性を語ると違和感が生まれる
・占いという言葉が持つ文化的バイアス
・未知への警戒反応
すべて、興味深いデータだ。
怒る必要はない。
証明する必要もない。
ただ、
「ああ、この世界ではそう受け取られるのか」と
受け止めるだけ。
鎧を脱ぐとは、
反撃しないことでもある。
理解されることを前提にしないことでもある。
自分の軸は、
他人の理解の上には立っていない。
鳶職で汗を流し、
夜にカードを開く。
肉体と精神。
物質と象徴。
この二重性を
自分が楽しめているなら、
それで十分だ。
視座を変えると、
批判は攻撃ではなく、
観察対象になる。
違和感は、
排除すべきものではなく、
世界の多様性の証明になる。
受け止め方を変えるだけで、
世界は少しだけ立体になる。
人は変えられない。
自分も変えなくていい。
ただ、
立つ位置を変える。
それだけで、
同じ現場も、
同じ言葉も、
別の景色に見えてくる。
