久しぶりに見るとPRが一番上になっていて、焦った!!
ひとまず一言でもと思って・・・
このブログ本にしてみたいと持っているのですが、いつになるやら・・・
そして続きには姉たちの話をまとめないと、ネタが無くなりつつある私です。
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ひとまず一言でもと思って・・・
このブログ本にしてみたいと持っているのですが、いつになるやら・・・
そして続きには姉たちの話をまとめないと、ネタが無くなりつつある私です。
何度もここで出てきましたが、我が家は昔ながらの柄の悪い長屋に住んでいました。
と言ってもそこは、とても人情に溢れたところでもあったと今は思います。
しかし沢山の兄弟が一緒に住む部屋は、今時のリメイクや模様替えなどをしたところで大した効果も無く、綺麗なところで住んだという記憶はひとつもありません。
あんな状態の中では何をやっても無理だったのだと思います。
そんな我が家にも想わぬことが起こりました。
それは都市開発の為の立ち退きです。
新聞会館の裏と言う、表と裏では段違いですが、立地だけは良いところに住んでいましたので都市開発の一番の候補地になったのです。
そう・・・丁度私たちの住んでいた家のあたりにモノレールが走ることになりました。
その為、神戸市から私たち住民には立ち退くに当たって、何種類かの選択肢からチョイス出来るようになっていました。
それは
①引っ越して市営住宅に住む。
②お金をもらって、その後は自分で住むところを探す。
③神戸市の持っている土地を借りるか、もらう。
この3種の方法の中でも、今住んでいるところが賃貸か土地を持っているか、またその場所でどのくらい住んでいたか(居住権)?
また何件分の土地に住んでいるか等で条件が変わったのです。
家は貧乏と言えども、父の組長時代の遺産とでも言えるでしょうか・・・
組のあった所と、若い衆が住んでいた所・私たちが住んでいた所の3件の家がありました。
ひとつは1階がお店で2階に両親が住んでおり、もうひとつは兄夫婦・そしてもうひとつは私たち姉妹が住んでいました。
その3件もそれぞれの家が2件分有ったので、合計6件分ありました。
兄夫婦と弟夫婦はそれぞれが市営住宅に移り、嫁に行っていない私たち残った者は両親と共に新しい家へと移りました。
その新しい家は神戸市の選択肢の中で③の神戸市の土地をもらえるように母が交渉し、そしてその土地も毎日毎日、足が棒になるほど歩いて探し回りました。
そして素晴らしい場所を見つけてきたのです。
それは神戸の少し山の手とでも言いましょうか・・・角地で神戸が一望できる場所でそこに新しい家を建てることになったのです。
今まで住んでいたところが嘘の様な想いでした。
神戸の花火大会の日は屋上から花火が見えて、焼肉をしながら家族で見たものです。
家は下が駐車場とタバコ屋(両親の営む)、外から階段を上がると、姉が経営するカフェバー(今はあまり言いませんが、当時流行りました。)
2階は私と姉・両親との住居・3階は姉夫婦の住居となりました。
それはとても立派な住まいになりました。
姉の経営すると言いますか・・・そこから神戸市への借金返済もあてられたので大変でしたが・・・
そのカフェバーもとてもよいお店で、お店の中の角(外から見える)に素敵な電話ボックスを作り料理は姉の旦那様が元コックをしていたこともあり、手伝い、美味しい食事の出来る見晴らしの良い、素敵なお店になったのです。
ご近所さんやこの家だけを知っている人から見たら、私たちはお金持ちのお嬢さんだったのです。
つづく・・・
母と姉と3人で韓国へ行ったことがあります。
それは初めての海外旅行でした。 と言うのも当時、韓国の国籍では海外旅行へ行くにはまずは母国へ行かなくてはパスポートが降りなかったのです。
その為、一番行きたい国では無かったのですが、やむなく行くことに。
そしてそれは民団の団体旅行で『母国訪問団』と言う団体旅行でした。
私と姉は『母国訪問団』というネーミングにピンと来ていなかったのです。
後でそれが凄いことなんだという出来事に合うまでは・・・
それまでに母は何度かその団体旅行で韓国へ行き、自分の兄や親戚に会いに行っていました。
その都度、母はいろんな物を買って持っていくのですが、それが現地で高く売れて旅行代が浮くとの事でした。
それはネスカフェのインスタントコーヒーや、子供のひきつけ様の薬で<ひやおうがん>だったり、折り畳み傘にパンティストッキング、それ以外にも色々な日用品が主でした。
私たちは『そんなんホンマに売れんのん?』とよく聞きましたが、戻ってきたときには本当に全部売り切れて帰ってきました。
そんな母を私たちは笑っていましたが、自分たちが行くことになり、私たちも少し持って行くことになりました。
そして半信半疑で母ほどの量では有りませんでしたが、買って行きました。
韓国では勿論観光で色々と連れて行かれましたが、どうしてだか自動車工場なんかもその工程に入っていました。
そしてその団体旅行が終わり、日本から持ってきた物を売る為に、私たち家族と何人かの人たちがプサンへ行くことになっていました。
プサンではホテルの一室に集まって、ホテルの従業員の代表が数人、商品を買いに来ました。
ひとつづつ商品を出すと、どんどん買い手が付き本当に売れて行ったのです。
最後は持ってきたものは全て売り切れ、私が持っていたウォークマンをほしがって、それも売れてしまいました。 ・・・・・本当にバカ売れでした。 『・・・もっと持っていけば良かったね。』と姉と後で話したものです。
旅行費は勿論、おこづかいまで残りました。 こんな時代・・・今でも信じられませんが、実体験です。
その時バスガイドさんがトイレ休憩のたびに、トイレでストッキングをあげていました。(じゃま臭いのか中に入ってやりません。)
『あぁ~パンストじゃ無いんだ・・・ストッキングなんだ~』と思い、パンストが売れることも納得しました。
私たちはそのプサンに一泊し、次の日は母の親戚のいる済州島へ向かいました。
済州島の空港ではすごい人込みでした。 ・・・それは私たちを待ち受けた新聞記者たちでした。
何事かまったく分からなかったのですが、次の日の新聞の一面に『母国訪問団』として、私たち家族の写真が載っていて驚きました。
お買い物に行っても、その新聞を見た人が私たちに優しくしてくれたことを覚えています。
お買い物では遠い昔、小学校で習った韓国語で、値切って安くしてもらったりと、まだ覚えていた韓国語で通じることに喜びを感じました。
もうすぐ父の日がやって来る。
そんな時・・・今は両親とも他界しているので、昔のことをいろいろ思い出す。
父は以前にも書いたけれど、ヤクザの組長をしていました。
ヤクザと言えば【刺青】です。
勿論父も例外ではなく立派な登り竜の刺青がありました。
それも手首の少し上から足首まで、ビッシリです。
私のすぐ上の姉の結婚式でのこと。
それはキャンドルサービスが始まって、白いワイシャツ姿の父に不幸が起きました。
それは父と言うより・・・姉に起こった不幸かもしれません。
ブラックライトに照らされると、白いシャツなどは中が透けて見えるのです。
登り竜が浮かび上がっているでは有りませんか。
姉の友人や新しい親戚は、もう既に足を洗った父が元ヤクザと言うことは知る由も無く、そのブラックライトで浮き上がった刺青を見てどう思ったでしょうか?
それでも何とか結婚式は無事済みましたが、姉や私たち家族は冷や冷やものでした。
男の人へのプレゼントは難しい物ですが、父の日になると兄弟からのプレゼントとしてポロシャツなどを探しました。
がこの時期、既に夏物が殆どで半袖が中心で、手首までマンガ(刺青のことを私たちはそう呼んでいました。)が入っていたので、長袖を探すのに苦労しました。
夏の暑い日も父はず~っと、暑さを絶えていたんです。
母にすると『あんなもん入れるからアホや・・・』と一言。
私は小さい時から父にマンガが入っているなんて、友達にも内緒でした。
でも、大人になって最近は刺青に対する認識が、若い人の中で変わってきていることに驚かされます。
その初めが、父が入院をしている時に姪が点滴をする父を見て、
『おじいちゃん、どうしたん?』
『あれ刺青? すごいなぁ~ カッコいいやん。』と言っていました。
姪の感覚からすれば、格好の良いことなんだと・・・
それに世間では刺青を入れる若者が多く居ること。 それに普通の主婦までもいるとニュースで見ると驚いてしまいました。
『一度入れると一生消えない。』と聞いてきた。
今はレーザーで焼いて消すことが出来るらしいが、それでもひどく傷の残ることも多いそうだが、そんな事を知っているのだろうか?
父は消えないマンガのせいで、一生大変な想いを引きずっていた事を知っているので、私はそんな簡単な気持ちで入れる刺青は信じられないし、刺青を入れたヤクザにとっては、刺青は勲章のような物。
そんなチャラチャラしたものではないはず・・・ そう感じる。
父が入院していたときに点滴や注射をする時に、看護婦さんやお医者さんがビクついていたことも面白かった。
既に引退していると思っても怖かったのだろう。
だって刺青で血管が見えないので、針の入れるところが分からないから失敗も多く、失敗すればするほど緊張して、それもお医者さんに迷惑な話だと思った。
今となっては楽しい思い出。
私は小学校の頃、韓国の小学校へ行っていました。
上の姉たちは5人姉妹の内、私を含めて3人と弟が韓国の学校で、長女・次女・長男の3人は日本の学校で学びました。
小学校の時、同じクラスの友達が家族と一緒に、北朝鮮へ行った事を最近思い出しました。
それは最近の北朝鮮問題が取りざたされているからです。
私は『地上の楽園』という言葉は、最近耳にしたのではなく、その頃に聞いた言葉でした。
友人が北朝鮮へ行ってしまう時、何やら不思議な気持ちになったことを思い出します。
皆、幸せになる為に北朝鮮へ行ったのですが、友人も私もまだ小学生の低学年で、両親が決めても離れ離れになり、二度と会えないと思うと涙が出てくるのと『本当に幸せになれるのかなぁ?』なんて思っていました。
私も船が出るのを見送りに行った記憶があります。
何年も経ち、きっと幸せになっていると信じ、そして月日と共に忘れていましたが、テレビでその『地上の楽園』がうそだったと知って、その友人がどうなったのかとても心配しました。
小学校の時、とても偏った教育を受けていたことも、大人になった今は冷静に感じます。
学校の運動場ではよく『金日成、バンザイ!!』と何度も言わされていました。
今考えると何も分かっていなかった、ほんの子供でした。
一種のマインドコントロールのようでした。
『地上の楽園』と思い渡った人たちがどんな暮らしをしているのか・・・
考えると気持ちが暗くなってきます。
私の住んでいた所でも昔は少しだけ朝市があった。
どこからか・・・朝いつものところへ行くとポツポツと出店が出ている。
母がよく行く所では、生地屋さんがハギレを売りに来る。
母は済州島に居た時から隠されて育ったので、家の中ではいつも縫い物をやっていたらしく、昔から洋裁が好きで、このハギレ屋さんの常連客だった。
小さい時から兄弟姉妹が多く、洋服は新しい物を買ってもらった記憶はほとんど無い。
7人も居たら、それは大変だろうと子供ながらに理解していた。
しかしお下がり勿論だが、母は自分の物以外に子供にも洋服をよく作ってくれた。
沢山居るので順番だが、それでも待っていれば自分の順番がやって来た。
自分のほしいデザインを言うと、そのように作ってくれたものだ。
それは私が大人になって、会社へ入っても変わることなく作ってもらった。
今もその時の洋服が処分できずに残っている。
その時はそんなに大層に思わなかったが、今考えると嬉しく、有り難い事だと思う。
旅行へ行くときはその旅行にあった物をリクエストし、ピアノでステージがある時はまた華やかな物を頼んでは作ってもらった。
今私や姉たちが縫い物が好きなのも、そんな母の血を引いている気がする。
縫い物をやっていて『あぁ~、やっぱりお母ちゃんの子やなぁ~』といつもつぶやく自分が居る。
母の凄いところは、一度も洋裁を人に習ったことが無いにもかかわらず、型紙無しに生地にスッとハサミを通して縫っていく。
文句を言ってやり直してもらった事も有ったけれど、ほとんど一発で出来上がる。
最近、3女の姉が洋裁をしているが、母に作ってもらったワンピースが大好きで、自分で作ってみようと思い先生に見せたところ、先生が驚いていたそうだ。
『洋裁の知識の無い人がこれを縫ったのはスゴイ!』
『型紙も取らずにダーツも無しで、この襟の開きを作るのは、素晴らしく、きっときちんと習っていればこの路ですごく達成したかも知れない。』と言ってくれたそうだ。
何度かチャレンジしたようだが、母のようにそのワンピースが綺麗に出来たことはまだ無いらしい。
朝市と言えばもうひとつ・・・ 【魚屋さん】です。
御ひいきの魚屋さんが魚を売りに来ました。
それは新鮮な魚を直接売りに来ていたのですが、今考えると飛んでも無いことですが、父はふぐが好きでふぐが入ると母はよく買って料理してくれました。
その頃のふぐと言っても、ふぐの身が少しくらいだったので、何時もそれをすましにして、ゆずの香りを効かせてとても美味しい、ご馳走でした。
ところがある日、父の希望で父だけには肝いりのものを食べたようです。
食事の最中に舌がもつれて、ロレツが回らなくなったのです。
ふぐの毒に当たったのです。 救急車で病院へ運ばれ、直ぐに手当てされたので大丈夫でしたが、それから一週間くらい入院していました。
魚屋さんは本当に申し訳なさそうでしたが、大事に至らずに済みました。
そんな目に合ってもなお父は、ふぐは変わらず大好きでした。
毒のあるふぐを朝市で、そんなに簡単に手に入れられるなんて・・・やっぱり恐ろしい時代でした。
そんな事当たり前のような時だったんですね、きっと。
だってその後も魚屋さんとの付き合いは途絶えませんでした。
私が中学校の頃、『ご飯や』をやっていました。
その店ではうどん・丼・おでん・おかず色々・お酒などなどを売っていましたが、近所には出前もするお店だったのです。
母ひとりでは無理で私たち姉妹が交代で手伝いをしていました。
韓国からやって来た母ですが、ここではバッチリ和食のお店で、お料理も上手だったので、美味しくて評判のお店でした。
長屋にある、このお店の出前先は色々でしたが、その中で面白いと言うか・・・凄いというか・・・
先にも書いてありますが、何度も言いますが・・・<柄の悪い長屋>です。
その辺りでは色々な通りで、その頃〈ぱんぱん〉と言う、売春を取り仕切っているグループや単独でやっている人が沢山居ました。
呼び込みをする人と、お客の相手をする人とはどうやら役割が別れていたようです。
そんな所へ私たち子供もよく出前を持っていったものです。
注文をする人はその両方の人から来ましたが、急きょお客さんが付いたり、出前を持って行った時に、既にお客を取っているときも有ったりで、慣れるまでそんな所へ出前へ行くのはとても嫌でした。
初めの内そんな私には、如何わしくない所の出前しか回って来なかったのですが、忙しくなってくるとそんな事を言っていられなくなり、行かざるを得なくなり、渋々行っていました。
大きくなって姉たちとそんな話をしていると、意味不明な言葉が飛び交っていた事を思い出しました。
『花・時間・とまり』と言う業界用語です。
これは時間と値段の交渉だと姉から聞きました。(・・・何で知っているのか???)
出前に出した食器を取りに行ったときに、『さっきの注文、花やから40分したら持ってきて~』とか、『急に時間が入ったから、また後で頼むわ。』とか・・・
分からないまま、母にそう言うと『分かった~』って。
小さな子供が『おかぁちゃん、花やて~』という言葉を普通に使っていた事を想像すると、恥ずかしいけれど笑えて来てしまう。
呼び込みのお姉さん達は結構、サバサバして面白く優しい人が多く、いろんな人が居ました。
他にオカマちゃんも居ました。
その頃のオカマちゃんは着物を着て女っぽくしていたけれど、どう見ても女には見えないし、チンドンヤのようなお化粧で、それは凄かったことを覚えています。
オカマちゃんは自分で呼び込んで自分で・・・なんだったんでしょうか?
何だか一匹狼のような気がしました。
時々、誰かが『ガサヤァ~!!』って叫んで走ってきました。
そうするとそこらじゅうの立ちんぼの女の人やオカマちゃんたちが、一斉にダッシュで逃げ回るんです。
時にはお店に走りこんできて『ゴメン!隠して・・・』と言ってカウンターの奥へ隠れていましたが、それは警察の手入れで取締りが突然あったりした時によく起こりました。
私たちは関係ないのですが、そのただならないドタバタはちょっと迫力がありました。
それで逃げ切れずに警察に連れて行かれた人も、何度か見たことがあります。
と言っても数日後には戻ってきていましたが、何度も捕まった人は当分戻って来なかったようでした。
そんな環境の中で育った私たちは、何をしているのか分かりもせずに、近所の友達と<ポンビキごっこ>として
『お兄さん~遊んで行かない?花にする?時間?』なんて、とんでもない事を口走って遊んで、親に見つかっては怒られていました。
でもどうして怒られているのか自覚も無く・・・どうしてなのか不思議でした。
またその時、神戸には外人が沢山居ました。
時代を感じますが、昔聞いたことが有ると思いますが、誰に教わったのか『ギブミー チョコレート』
と言って外人に声を掛けたりしていたんです。その『ギブミー チョコレート』がどういう意味かも知らずに・・・
でも時々そう言うと小銭をくれたりしていたんです。
それも母に知れると怒られたのですが、意味を知らずにやっていた事を考えると恥ずかしくなるばかりです。
終戦直後の話では無いのに、どうしてその時『ギブミー チョコレート』だったんでしょうか?
よく覚えていませんが・・・
知らないとは怖いもの。。。
しかし凄い時代です。
父がヤクザの組をやっていた頃のこと。
これは大きくなって聞いた話ですが、組では〈覚醒剤〉を取引していたそうで、私が小学校に入るか入らないかくらいの時に父は警察に逮捕され、刑務所に入っていたことがあります。
その疑いで母も一時、入っていました。
これは本当に今まで話した事は無い、兄弟だけの秘密だったのです。
7人も小さな子供がいて家は大変だったと思います。
私は小さくてその苦労はあまり感じることは無かったのですが、長女は母の代わりを勤め、弟や妹の世話をして本当に苦労が一杯だったと思います。
両親が居た頃は結構裕福に過ごしていたのですが、それは一変しました。
町内でも初めてテレビを買った家で、相撲や野球などはよく近所の人が見に来ていました。
しかし両親が居なくなってからは、ご近所の親切な人も急にそうでなくなり、とても貧しい生活が始まっていったのです。
ご飯のおかずで一番のご馳走は、ゆで卵が2個だけでした。
それ以外では、チキンラーメンの潰れたクズが大きい袋に入ったものを鍋にして食べたことも、今思えば貧しい食事でしたが、当時はそれが大好きで、取り立てて貧しいと思うことは有りませんでした。
大人になった今も好きですから。
父や母に手紙をよく書きました。
姉からか・・・『賢くして待っているので、早く帰ってきてね。』と言うような同情をかうような内容を書くように言われた記憶があります。
そうすれば手紙は検閲されて、少しでも早く帰れるからと思っていたようです。
その頃、弟は幼稚園生でしたが、毎日寝小便をしてお布団を汚し、洗っても洗っても乾く前にまたやってしまい、そのうち怒った姉が『もう直るまで、そのまま寝とき!』と言い、弟の布団は寝小便の匂いがひどくなって行きました。
弟の布団だけ皆より少し離れて敷いていました。
ところがある日、幼稚園の友達が家へ来て弟を呼んでいたのですが、
『スカンク~ ・・・ スカンク~』と読んでいるでは有りませんか・・・
やっぱり幼稚園でも臭かったので、そう呼ばれていたんです。
小さいながらも自分の弟が『スカンク』と呼ばれている事に恥ずかしく思い、姉にそう呼ばれている事を話して
『布団洗ってやって。』といいました。
少しの間、洗っていましたがやっぱり臭いままの日々が続き、これは母が家に戻ってくるまで続きました。
小さい時に姉は本当に私たち弟・妹の面倒をよく見てくれました。
今考えても凄いことだと思います。 何せ7人兄弟なのですから・・・
その頃から大きくなるまで私は『大きくなったら姉のようになりたい。尊敬する人』とず~っと思っていました。
そんな小さいときからそう思っていたのですから、あまり物事の分からない歳でも姉の素晴らしさは感じていたんですね。
昔、姉は学校の給食代が払えず、お昼の食事の時間は運動場で時間を潰していて、とても悲しい思いをしたそうです。
私は授業料が払えず、そんなときは先生から呼び出しが有って、家に手紙を持って帰るのですが、持って帰ってもどうにもならないことを知っていたので、知恵が付いてくると、呼び出される前に先生のところへ行っては
『先生、今月謝いくら溜まっていますか?』と自分から聞いていました。
可哀想だと思い、そうすれば呼び出される事も無かった。
兄弟が多く、いろんな事で小さいながら苦労していたせいか、小さい時から『自分のことは自分で。』と思っていたので、『大きくなって自分で稼いで何でもやりたいことをやる。』と思っていました。
よくもまぁ~こんな環境で、ひねくれた性格にみんな育たなかったものかと自分の事ながらそう思います。
両親が居なかったことも、子供たちを強くしたのでしょうか?
そして何年かで母が戻り、それからまた数年して父が戻ってきました。
母が戻ってくるときも、ましてや父が戻って来るまでには随分年月が経ち私たちは成長していたので、どう接すればいいのか悩んだこともありました。
母が戻って家庭らしくなっていきました。 そして姉も主婦業から開放されることになったのです。
『お姉ちゃん・・・有難うね!!』
話はさかのぼって6人並んで寝ていた頃のこと。
6人が並んで寝るには一部屋では到底無理なこと。
昔はふすまの戸が一般的で、ふすまを取ってしまうと部屋が続く、よくある部屋でした。
4畳や4.5条など3部屋のふすまをはずして、6人が寝ていました。
前にも書きました、6人に2台の扇風機がフル回転で左右に頭を動かしていました。
昔の扇風機は鉄のプロペラが羽になって回っていて、結構威力も強くとても危険でした。
寝相の悪い小さな子供のこと、夜中に突然『ぎゃ~!!』とけたたましい悲鳴で目を覚ますこともよく有りました。
誰かが扇風機に手を突っ込んで流血です。
鉄のプロペラですからとても危険な扇風機なんですが、暑さには代えられないのです。
夜中にはいろいろ有りました。
私の隣は長女で、夜中に気配がして目を覚ますと、いつも決まって姉が洗面器に水をはり、髪の毛用のピンを畳の間に差し込んでは何かをしていました。
『何してんのん?.』と私が聞くと
『あのね・・・暗くなると出てきて、電気を付けたらここの隙間に南京虫が逃げていくねん。』と。
『こうやってピン止めですくったら出てくるから、それを洗面器の水に入れて殺すねん。』と。
昔は蚊にも南京虫にもよく噛まれ、いつも虫刺されで赤く腫れて点々と痕がありました。
駆除用の薬を焚いても焚いても、いなくなったと思うと、隣の家が薬を焚いてまた戻ってきて、きりが無く、姉は何かに摂りつかれたように毎晩そうやっては夜な夜な『南京虫取り』に魅せられていたんです。
その内、私も気になって夜中になると一緒に起きて、洗面器に水を入れる役をやっていました。
その頃は家だけでなく、そんな家庭は沢山有ったと思うのですが、それでも私の住んでいた所は最初にも書きましたが、柄の良くない所なので、学校で本を開くと突然『南京虫』が出てきたりした時にはビックリするとともに、同級生に見つからないように、こっそり殺して机の中に隠していました。
学校で『南京虫』なんて、ホントビックリです!!
でも姉から聞いた話では、上の姉とは歳が離れていますが、この話を知っているのは私の上の上の姉まで知っているそうですが、学校で頭に『ノミ?』の薬を巻かれたりしたそうです。
真っ白な粉でまた何だったか聞いておきますが・・・アルファベットの3文字だったのですが、忘れてしまいました。
戦後直ぐでは無いのですがそんな事もあったそうです。
今では考えられませんが、そんな時代だったんですね。
さすがに私の時代にはそこまでは有りませんでしたが、『南京虫』はまだ残っていたんです。コレが・・・
扇風機に南京虫・・・夜中は凶器一杯の怖い時でした。