令和7年9月13日 日付が変わって数時間後

私と母の側で息がすーっとなくなっていきました


大学は福祉系に進み、二十代前半は介護の仕事をしていました

父がずっと福祉の世界で仕事をしてきたのを見ていて

また、祖父も父と同じ難病を患っていたので、車椅子を押したり移乗をしたり、日常でした

自ずとその道を選んでいました


今は別の会社に転職しましたが、結婚して、父が祖父と同じ難病にかかったあたりから

父の側でケアができたらいいな、と漠然と思い

実家のそばに引っ越してきました

義母も、実家の側に住むのを快く推してくださったのです


それから10数年

父は杖になり、車椅子になり、、、食事介助も手伝ったり

ここ数年は経管栄養になったり、排泄介助もしたり、母が主介護者ではありますが、できる限り父のケアをしてきました


今年3月に感染症が原因で入院をしましたが、

末期です

と言われ、母と弟とも話し、父を退院させ家で看取り介護をすることにしました

帰ってきて2ヶ月

どちらかというとよくなってる感じがして

末期です、は脅されていたんだと思うようになってました


9月12日の10:42 母から父の体温が冷たく、血圧がとれないと連絡がありました

急いで自転車を全速力でこいで実家に行きました

冷たくなりかけてる父を目の前に

あぁ、その時が今来てしまったのだと

これまで、どう父の死を迎え受け入れて見送るか、死生学やグリーフケアも学びながら考えてきました




午後には血圧も体温も一旦戻ったので

めろた🐶の様子を見に一旦家に帰り、夫に一目会って話してから、再度出直しました


そこからは、早かったです

夕方には肛門が開ききり、直腸にあるものが出てきてしまう状態で、最期のときが間近にきていると訪問看護師さんから教わりました


看取り介護の記事に書いてあった下顎呼吸が始まり、、、いよいよだと思いました


今この生身の温かい父がいるこの時間、この今をたくさんたくさん刻んで味わって感触を焼き付けたいという思いと

逝かないで、ワガママを聞いて、戻ってきて、という思いと

この状態はあとどれくらい続くんだろうか、という疑問と

あと何をしておけば後悔がないのか、あと何を伝えれば父が安心して逝けるのか、という思いと


そうこうぐるぐるしてるうちに、少しばかり眠くなってボーッとしてきた矢先

母が、お父さん唇の色がなくなってる、と言い


父は息を引き取りました


住み慣れた家で最後を迎えられる方は

まだ35%くらいしかいない、というデータを何回か見たことがあります


母が退院と看取り介護を決意してくれたおかげで

私たち家族は35%に入れたんだ!と

私は長年実家のそばにいて、最期まで父の看取りができて、隣駅にいてよかったとゴールテープを切ったような達成感が不思議とありました

介護の仕事はこのために、そして母に在宅介護のイメージを伝えるため、最後までケアができるため、そんなつながりを感じました

父にはケアをさせてもらって、人の命が閉じる瞬間の尊い瞬間まで隣にいさせてもらって、親以上の何か卓越した感謝の気持ちすらありました


葬儀屋さんがいなかったらとてもとても自発的に葬儀はできないものだと

あれよあれよ、次はこれ、と、時は待ってくれず、流れるように荼毘にふすまでも早かったです

そうじゃなかったら、いつまでも見送れないと思いました


 



エンバーミングというものについて

死産のあの子とのご縁について

めろた🐶とグリーフについて


また気が向いたときに綴りたいと思います