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まだ日が暮れそうにない夏の夕方、蝉の鳴き声と子供達のはしゃぐ声を聞きながら、彼女が住むマンションを訪れる。
「あっちぃ…」、これで何度目の愚痴だろうか、意味はないとわかっていても風を求めて手で仰ぎながらエレベーターで三階まで上がり、角部屋のインターホンを押した。
しかし応答はなく、何度押しても出て来る気配がなかった。
家にいないのだろうか?もしかしたらまだ仕事なのかもしれない。
ここのところ彼女とは連絡をとっておらず、今日もアポ無しなので何をしているのかなど知っているはずがない。
しかしこんなことは二人にとってよくあることといったらそうである。
仕方なく合鍵でドアを開けると部屋の電気はついていた。
風呂場や手洗いはついていない、名前を呼んでも返事はなく、ワンルームへ続くドアを開けると涼しい空気の中でソファーに横になっている彼女がいた。
仕事へ行く格好をしたまま目を閉じていて、近付いてよく見ると少しの化粧をしていることから、仕事を終えてそのまま眠ってしまったらしい。
起こすべきか迷うも、彼は寝室からタオルケットを持って来ると彼女に掛けてあげた。
化粧を落とすことも着替えることも後でいい。
数回のインターホンですら起きないのだから、余程疲れているに違いない、だから今は眠らせてあげたかった。
見飽きたはずの寝顔なのにどうしてか懐かしさを感じて写真を撮るけれど、それにしても手持ち無沙汰になってしまったので、どうしようかと辺りを見回す。
とりあえずテーブル側に腰を下ろして、灰皿と前に忘れて行った携帯ゲーム機を近くに寄せると、その横に財布とスマホとサングラスを置く。
それから煙草を取り出すと火を付ける、吸いながら壁に掛かる時計を見た。
まあ、一時間くらいで起きるだろう、そう思いながらゲーム機の電源をつけた。
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「…あかん、空や」
彼の思惑は見事に外れ、何時間経っても彼女は眠ったままだった。
彼女は普段眠りの浅い方なのでこんなに寝入るのは珍しい。
気付けば煙草一箱を吸い終わっているし、ゲームもかなり進んでしまった。
それを伝えられないのがなんだか虚しくてまた時計を見る。
こんなにも目を覚まさないなんて、もしかしたら死んでいるんじゃないか、なわけないか、それにしても暇だな、などとぶつぶつ言いながら手洗い後にソファーの側にしゃがみ込むと、微かだけれどちゃんと寝息が聞こえた。
一瞬触れるのを躊躇う程、見れば見る程美しい顔立ちに息をするのも忘れそうだった。
恐らく彼が付き合ってきた恋人の中で一番の美人だろう。
なのに気取らない、謙遜する姿勢が好きだった。
謙虚な美人でも内心自己陶酔しているとやはりどこかで伝わる時があるけれど、彼女は本当に自分の美しさをわかっていない。
自分に無頓着というか、着飾ることに興味がなかった。
街中を連れて歩いていると感じる視線にも彼女は気付いていないだろう。
しかし彼は綺麗な顔よりも自分のことをよく理解して背中を押してくれる、そんなところに惹かれている。
幸せを遠避けた生き方をしていた彼が初めて誰かを傍に置きたいと願い、また彼女も同じように思ってくれた。
あの日から愛している、いつも偽りのない気持ちで接しているから今でも時々夢に見るのだろう。
出逢った頃の何も知らず真っ白だった彼女のことを。
誰の物にもなることを拒んでいた彼女が唯一心を許した雨降りの夜。
それまで何度も傷つけて不器用な自分では駄目だと思ったこともある、けれど待ち続け許してくれた。
『花には雨が必要だけど強すぎると傷んじゃうよ』
『それでもいい』
『どうして』
『愛で傷つくなら構わない。傷む程愛して欲しい。あなたなら…』
あの時の微笑より綺麗なものを見たことがなかった。
この記憶は懐かしき想い出というよりかは鮮明な現在に近い。
思い出しながら、ぴくりとも動かない彼女を見る彼の眼差しには覚えているのかな…?そんな風な迷いが現れていた。
そう、今の彼女は瞳を閉じている、前より伸びた前髪が目を隠そうとしていた。
しかし彼は目には触らず、胸にかかる染めたことのない天然の黒い髪をはらう、白いシャツのボタンが二つ開いていた。
そこから見える浮き出た鎖骨とシャツから透ける青っぽい下着はふんわりと色気を醸し出していて、まだあの夜が消えない。
罠に嵌まっても構うものか、そんな気持ちで胸に触れた。
痩せているせいで相変わらず豊かではないが綺麗な形をしているのだ。
思い出すだけで局部が熱くなる、いっそ起こそうか、ああ、でも…、軽く撫で回したつもりが思ったより力がこもったのか彼女から微かに声が漏れた。
起きてもらった方が都合がいい訳なので気にせずにもう一つボタンを開けた時、次は言葉がこぼれた。
「だいすき……」
ぴたりと手が止まる、起きたのだろうか?顔を見てもまだ目はつぶっている。
寝言らしかった、何に対しての「だいすき」なのかはわからないものの、どうしても口元がゆるむ。
同時に久しぶりに聞いた声に心細さを感じた、もうそろそろ独りは寂しい、にこやかな彼女と触れ合いたい。
我慢出来ずに「だいすき」と言ってくれた唇にキスをするとようやく彼女は目を覚ましたけれど、苦しげに声を上げて驚き、想像以上の力で彼を押し退けた。
すぐに体を起こして怪訝な顔で彼を見るも、瞬きが止まらない。
「やっ、やだ…!もう…な、なんで…?なんで、あなたが……夢…?」
「ごめん、そんなビビらんでや」
「い、いつ、から…?」
「夕方くらいやね」
「…どうして起こしてくれなかったの?」
「寝てたから」
「もう、起こしてよ…、あ」
無意識に体を隠すのに使ったタオルケットに気づいたらしい。
「これ…」
「ん?」
「ありがと…」
「ああ、別に…」
「なんか、ごめんね」
「何が」
「寝ちゃって。朝とかに来るって言ってくれたらよかったのに」
「疲れてたんやろ」
「大丈夫だよ」
作り笑顔だとわかっていてもその心づかいが愛しすぎて押し倒すように彼女を抱き締めた。
「苦しい」、そう言われても離さなかった。
エアコンで冷えた体を温めるように抱き、それから耳元に唇を寄せて名前を呼ぶ。
「や、くすぐったい…」
「なぁ、何の夢見てた?」
「あっ…あのね」
「うん」
「…あなたの夢を、見てた」
「俺の?」
「あなたの歌ってる姿がすごくかっこよくて、やっぱり好きだなあって思って、ずっと見てたいって、それで…」
「うん」
「聞いたことない曲だったな。温かくて、明るくて、幸せで…。でもあなたらしかった」
そこまで聞くと今度はあっさりと彼女のことを離した。
見詰め合うと彼女は少し不安そうな表情をする。
「…ごめんね。私、何か変なこと言ったかな」
「…」
「…?」
「…」
「ねぇ…何か言ってよ」
「……言葉が出てきよらん」
「え?」
「あかんな。頭真っ白や」
「どうしたの?」
「お前の前やと言葉が…かすむってゆうか…」
「あなたらしくないね」
「ほんまな」
苦笑いしながらわざと目をそらすと吸殻の溜まった灰皿が目に入った。
切ない歌を唄う本当の自分と応援歌を送る彼女が見た自分に揺れ、らしくない態度を誤魔化す為に煙草でも吸おうかと迷うけれど、もう無いことに気付くのと同時に、手にひんやりとした温度を感じた。
ちらりとだけ見る、彼の両手首を彼女の手が包んでいた。
すぐに視線を上げると眠たげな瞳と合った、どんな言うことも聞いてしまいそうな上目遣いにまた言葉が飛ぶ。
「今日…」
「…」
「いつ帰る?」
「んー…」
「もう帰る…?」
甘えるように聞こえる声を意識しないように気のせいだと咳払いをして、大げさに壁の時計を見ると既に四時間が経っていた。
明日は朝から出かけなければならない、なるたけ日付が変わるくらいには帰りたいところだが…。
「そうね…」
「…そうだよね」
「…」
「じゃあ私お風呂入るね」
そう言うと彼女とその温もりが離れて行った。
また独りになる、途端に胸がずきずきと痛む、寒すぎる。
自分は彼女を置いて行くのに置いて行かれるのは嫌で、でも今はそんな子供じみた我儘を省みることは出来ず、いてもたってもいられないから彼女が向かった風呂場に行くとノックもしないでドアを開けた。
目に飛び込んだ鮮やかな青い下着姿の彼女は驚くと慌ててバスタオルで体を隠して少々怒る。
「もう、急に何?」
「…まだ帰りたくなくて」
「…そっか」
「別れの時の苦しい感じが…まだ慣れへんのや」
「わかる気がする」
「笑わんで」
「ね。もう少し一緒にいよっか?」
「うん」
「じゃあお風呂入ろ。洗ってよ」
「その前に…」
バスタオルを剥ぎ取ると引き締まった腰辺りを抱いた。
急に縮んだ距離に恥じる彼女の様子などお構い無しで深いキスを交わすと、彼の行動はもう止まらず、夢中で体中を触りながらやがて下着をずらす。
「やだよ」「やめてって」、笑い混じりに彼女が言う、いつもそうだ、言葉では否定するのに体ごと抵抗はしなかった。
触れ合い過ぎて興奮した彼は「っ、あっちぃ…」と呟いてタンクトップを脱いだ後、ベルトに手を掛ける。
すぐに彼女の手が乗って、少しぎこちない手つきながらも代わりに外した。
「何して…」
「さっきのお返し…」
下着も下ろすと彼女がぎゅっと密着して、また上目遣いをした。
直に触れているのもあってますます体が汗ばみ「あかん…」、それしか言葉が出て来ない。
「何があかんのかな…」
「わかるやろ…」
「ふふ…わかるよ」
「今日はいじわるやね」
「そう?」
「あんまりいじめないで」
「ふふふ、ごめんね。早くお風呂入ろ」
艶っぽく笑って浴室のドアを開ける彼女の捕まえたくなる背中を見たら、今日はもう帰れなくなった。
朝まで愛し合いたい、この情熱をどうにかして欲しい、彼女に対しての気持ちが溢れて抑えられないまま、彼も浴室に踏み行った。
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