でもやっぱり絶望の現実に引き戻されてしまう人も多い。皮肉なことに釈放されることによって 不安と絶望を感じている老人ブルックス。例えば50年間引きこもっていた人を社会に 無理やり連れ出して自活させようとすることを考えてみるとその難しさがわかりやすいと思います。そしてブルックスは社会の中で居場所が見つけられず、絶望の淵に立たされ、刑務所の中にいた時よりもより強い絶望を感じ、 自らの命を絶ってしまいます。ああ、なんと苦しく悲しいことでしょうか、、、。実社会でもこのようにして命を絶ってしまう人は多い。
仲間にモーツアルトを聞かせたアンディは、その一方で 穴を掘りつづけます。穴を掘った先に何があるのかは当然わからない。しかし20年近く掘り続けます。そして所長の不正と殺人を機に脱獄を決意。そしてメキシコのジワタネホで 「それなりに幸せなささやかな人生」を手にすることに成功します。これはある意味映画の中だからできることなのでしょう。実世界でアンディーと同じことができる人はごく少数だと思います、、、。
でも映画の中の話とはいえ、このアンディーの人生に、絶望の中の希望を感じることのできる人は多いのではないでしょうか?実際この映画でもアンディーの友人のレッドはアンディから「希望」という 大きな贈り物を手にします。もしこの「希望」という贈り物を手にしていなかったら、 40年間服役したレッドも 50年間服役したブルックスと同じように自殺してしまっていたかもしれません。レッド自身が 言ってるように、、。
そしてその最後のアンディーとの 再会のシーン。太平洋のなんと青くて美しいことか、、、。「絶望の中の希望」、これは「希望」よりもはるかに美しく素晴らしいものなのかもしれません、、。
カーチスに「 ジーナかフィオかどっちかにしろ」なんて言われちゃったりして、、。でもやっぱりポルコ(マルコ)は 一人で空を飛んでいたい。だから異性とパートナーになったり、パイロットの腕をいかして 空軍に戻ったりしない。そして一人で飛んでいる.。 フィオとふたりで飛んでいるのも楽しそうなのに、、、。
フィオに惚れられそうになりかかったときに、「 こいつを堅気の世界にもどしてやってくれ」なんていうのも、やっぱり一人でいたいから、、、多分、、。
こういうのって、女の人から見ると、少しずるく感じるのかな?だからジーナにも「 ずるい人、、いつもそうするのね、、」なんていわれてしまう。でもマルコ(ポルコ)は やっぱり一人で飛んでいたい。なぜなら多分昔はそうじゃなかったから、、、。第一次世界大戦のころはマルコ(ポルコ)も 大尉として必死に戦争で戦って、そして 生死の境をさまよって、空中に 飛行機の残骸の雲 まで見た。もう少しで天国に行ってしまうところだった。そしてジーナとの関係も多分今とは違っていた。この映画には描写されていないけど、多分マルコ(ポルコ)は本気でジーナのことを好きだった。戦死してしまったベルニーニのことも含めて三角関係とか、四角関係とか、多分いろいろあった。そしてジーナが恋に破れたのと同じように、マルコ(ポルコ)も恋に破れ、そして 戦場であの世にも行きかかってしまった。だから、やっぱり人間の世界の色々とした出来事には嫌気がさしてしまった。だから豚になってしまった。
この映画って、多分一回観ただけではよくわからない映画だと思います。それだけ感情描写が微妙でそして淡い。やっぱりこういうのって日本人的な描写の仕方なのかな?映画の舞台はイタリアなんだけども、、、。
堀江貴文は「人の心はお金で買える」と本に書いて、世間の顰蹙を買い、逮捕されて起訴されましたが、彼の言っていることが100%間違いかというとそうとも言い切れないところが悲しいです。この映画の中でチャップリンが少女の花をバスケット全部分買ったのも億万長者のお金で買っています。そしてそのことに少女は「ご親切ありがとうございました」と言っています。また家賃が払えたのも、目が見えるようになって少女が立派な店を構えることができるようになったのもこの映画の中では億万長者のお金によってなのです。
でも大事なことはそういうことではなくて、少女の祖母が「その方はきっとお金持ちなのね」と言ったときに、少女が「ええ、でもそれ以上の方よ」と言っていることだと思うのです。やはりチャップリンに盲目の少女に対する愛情や思いやりがあるからこそ、少女の側も単に恵んでもらったと思うのではなくて、本当にすばらしい方だわ、なんて思っているのではないでしょうか?浮浪者チャップリンは自分の生計を立てることもできないのに、病気になった少女のことを思い、がんばって仕事を始めます。少女が家賃を払えないで困っていることを思い、そして少女の目が見えないことを思い、ボクシングの試合をして何とかしようとします。結局チャップリンは少女のためにお金を稼ぐことには失敗するのだけども、そこにはしっかりと思いやりや愛情というものがある。だからこの映画は70年以上たった今でも観られ続けているのではないでしょうか?そしてその思いやりや優しさの大事さをチャップリンは表現したかったのではないでしょうか?現実世界ではチャップリンは相当のお金持ちだったと思われますが、でも弱い立場にある人への思いやりや優しさに満ちた人だったのではないでしょうか?もしチャップリンが現代日本に生きていたと仮定して、現代日本社会が抱える問題、例えばライブドア問題や村上ファンド問題のことをどう思うのかな?なんて、ちょっと興味があります。