小早川隆景は名将だっただけに、死んだ時には多くの人が悲
しみ、惜しみました。黒田官兵衛も、その1人です。
黒田官兵衛は「小早川隆景殿が亡くなって、日本の賢人は絶
えた」とまで言い、さらに「船は櫓の余力でも動く」と言っ
て隆景の死に例えました。
どういうことかというと、
「隆景殿が毛利家を支えていた時は、さながら船に船頭がい
たようなものだった。平生よく中国を治められていたから、
隆景殿が亡くなられたからといっても、その時といまも少し
も変わらない。これはひとえに隆景殿の力の残りがあるから
だ」
ということで、その「力の残り」を「櫓の余力」に例えたの
でした。
ただし大事なのはその後で、「にわかに船を漕ぐことを止め
ても、櫓の余力でかなりの距離を船は走れる。しかしその力
が絶えた時は船は止まってしまう」と言っています。その後
で、毛利家に触れました。
「毛利本家の輝元殿も、どこまで隆景殿の余力を活用できる
か。それが輝元殿にとって大事なことなのだ」
と言い、当の隆景は死ぬ間際輝元に、
「決して天下の争いに手を出してはいけない」
と遺言しています。
しかし輝元はどれを守らず、失敗して滅んでいます。黒田官
兵衛はその辺を、見ていたのかもしれません。