その2 「慰安婦問題をめぐる韓国、北朝鮮の動き」
今でこそ「慰安婦問題」といえば、主に日韓二か国の問題のように扱われているが、そもそもこの問題がはじまった当初はそうではなかった。
もともと慰安婦問題の拡大は、1990年代に拡大した「戦後補償の再検討」というテーマのもとで行われていた「戦後補償裁判」と大きな関りがある。
当時、こうした裁判を積極的に支援していた団体のひとつだった「日本の戦争責任資料センター」によれば、1990年から2003年までに提訴された旧日本軍による略奪、殺害などの行為、または慰安婦などの案件や強制連行をめぐる「戦後補償裁判」は実に73件にも及んだという。
その原告を見ると。
「サハリン残留韓国・朝鮮人」
「元軍人軍属(韓国、朝鮮)」
「元従軍慰安婦」
「韓国人戦争犠牲者、強制連行された元徴用工ら」
など、朝鮮半島関係のものが多く、続いて「朝鮮半島以外のもと慰安婦」や「連合国の英・米・豪・ニュージーランド元軍人」などによる訴訟も見られる。
(同サイトより http://space.geocities.jp/japanwarres/center/hodo/hodo07.htm )
これら多くの裁判はそのほとんどが最高裁判決までの間に棄却、または取り下げられているが、一部中国などの徴用工に関しては企業との間で和解が成立したケースもあったようだ。
しかし、なぜこの時期にこうした裁判が相次いだのか。
こうした裁判のひとつ「関釜裁判を支援する会」のホームページに掲載されている「朴在哲『戦後補償立法運動の現状』」(初出は「季刊戦争責任研究30号、2000年」と思われる)によればこうした裁判は。
「90年代に入って戦後補償を求めて提訴された裁判は、サハリン残留韓国人の帰還請求裁判を皮切りに58件に達している(2000年9月現在。在日の慰安婦裁判を支える会調べ)。
こうした裁判と並行して、中央省庁や各地方自治体関係省庁、企業などにも、交渉や申し入れが行われ、法廷の場だけでなく、直接政府機関などへの要請も行われてきたのである。」
( http://kanpusaiban.bit.ph/lippouka2.htm より )
とあり、その目的と取り組みについては。
「現在議論・検討されている戦後処理・戦後補償立法に関連した取り組みは大きく分けて、
・「従軍慰安婦」への補償・賠償を目的とするもの
・植民地出身の元日本軍兵士への補償
・アジア太平洋戦争中の資料の公開ならびに真相の究明を求めるもの
・在日韓国・朝鮮人を初めとする定住外国人への地方参政権を付与するもの
に大別されるものと思われる。本稿では、前三者を取り上げる。
「従軍慰安婦」問題を立法により解決しようという動きは、1995年、国連人権委員会などを舞台に運動を進めていた戸塚悦朗弁護士が「従軍『慰安婦』被害者個人賠償法案」法案を提案したことから始まる」
とある。
これを読むと、これらの裁判は「戦後補償は決着している」という日本政府の見解のために、すでに謝罪、補償の行われる可能性が低いことを理解した上で、さらに「立法府による戦後補償法の成立を通じた問題解決の道」を目指していたものだったことがわかる。
そしてこうした活動の中心となっていたのが訴訟を支援した様々な「市民グループ」だった。
朴氏の主張は続く。
「以上見てきたとおり、戦後処理問題の立法による解決を目指す動きは、95年を前後して本格的に取り組まれるようになった。今日までの5年間は、被害当事者にとっては実に長い年月であり、事実多くの被害者が既に物故している。戦後補償運動は時間との競争とよく言われる所以である。
このように時間的な制限を抱えつつ、戦後処理問題の立法解決を目指す取り組みは、市民グループによる丹念でねばり強い国会議員に対する働きかけと、少数だが極めて熱心な
国会議員との連携の元で進められてきた。こうした取り組みは、国会議員を対象とする国会内院内集会の開催、署名活動、チラシの配布、各党政策機関や地元選出国会議員への働きかけなど、多様な形で進められている。
『条約などで解決済み』との主張を崩さない行政府に、戦後処理に関連した法案を提出する期待がかけられない以上、この種の立法作業は議員立法での取り組みとなる。その際には、様々な手続きが必要となる。」
ここからこうした一連の裁判の目的のひとつが政治家と交渉をするための土台作りにあったことがわかるだろう。
事実、彼らの運動は自社さ連立政権の誕生後に「アジア女性基金」などの「支援」という形となって実現された。
これはあくまでも日本政府が人道上の観点から支援を行うという名目のものではあったものの、政府側とすれば大幅な譲歩でもあった。
しかし、不可解なことに朴氏はこの「アジア女性基金」について。
「在韓被爆者、サハリン残留韓国人、『従軍慰安』」などの問題に対しては、例外的に人道的観点や「お詫びと反省」の観点から病院や老人ホームの建設、『女性のためのアジア平和国民基金』という民間募金により対応してきたが、こうした措置は、被害者の求める謝罪と補償・賠償とは全く異質なものであり、かえって問題を複雑にした。」
と、なぜかそうした日本政府の対応を批判するような評価をしている。
実は、ここに当初は「戦争被害者の救済」を目的としてはじまったはずの運動が「日本政府の責任を問い、日本政府の対応を批判する」という政治闘争へと変貌していった側面があった。
かつて戦後補償裁判の支援を行っていた団体のひとつである「民主主義的社会主義運動(週刊MDD)」のホームページには今も次のような文章が掲載されている。
「孤立する日本政府
二十世紀は、戦争という政治暴力の嵐が吹き荒れ、世界各地で数多くの民衆が犠牲になった時代であった。強大な国家権力に民衆は翻弄され、戦争の被害に対しても忍従を
強いられてきた。戦後補償運動の世界的な広がりには、そうした歴史に終止符を打つという意義がある。
(中略)
国家権力が戦争犯罪にほおかむりできた時代は完全に終わった。普遍的な人権意識に立脚し、正義と人権の回復を求めて立ち上がった戦争被害者の闘いが歴史を動かしたのである。
ドイツやオーストリアでは、強制連行被害者のための補償基金が設立された。米国では、強制労働被害の損害賠償請求訴訟について時効を延長する法案が二つの州議会で可決した。
必要ならば政府の責任で法律を作り、個人補償を実行する--これが世界の流れであり、日本政府だけが背を向け続けている。
来る二〇〇一年は、二十世紀の宿題に決着をつける「戦後補償実現の年」にしなければならない。強制連行裁判では、対企業への抗議・要請行動など、法廷闘争と結んだ
支援運動の広がりが解決の原動力となった。そうした闘いを広げ、逃げ回る日本政府に引導を渡すことが日本の民衆一人ひとりに問われている。
今度は私たちが歴史を動かす番だ。」
( http://www.mdsweb.jp/form/kouryo.html より)
ここから彼らが戦後補償をめぐる一連の裁判と支援運動を日本政府に対する「闘争」と位置づけていたことがはっきりと見えてくる。
つまり慰安婦問題を含む戦後賠償問題の中心は、単純に韓国の反日意識が原因だったわけではなく、こうした各種の市民団体の参加により、もはや「過去の歴史問題の解決」を求めるだけのものではなく、日本政府へ新たな権利の要望さえ含んだものへと変質していた。
これは朴氏らの主張が。
「在日韓国・朝鮮人を初めとする定住外国人への地方参政権を付与するもの」
と、戦後補償という枠を超えて、定住外国人全体への参政権の付与にまで言及するなど、現行の政治制度に対する要望にまで彼らの主張が拡大していったことからもうかがえる。
さらにこうした運動に絡んでいたのが北朝鮮の存在だった。
こうした戦後賠償の流れで2000年に行われた「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)による「女性国際戦犯法廷」では旧日本軍が組織的に行った「強かん」、「性奴隷制」、「人身売買」、「拷問」その他性暴力等の戦争犯罪を裁くという趣旨で模擬的な裁判が行われたが、ここでは昭和天皇も戦争責任者として追求されたことが話題になり「週刊金曜日」などの雑誌では大々的に特集が組まれ、NHKでもとりあげられるなど大きな反響を呼んだ。
しかし「裁判」とはいってもこれには法的な拘束性などはなく、提訴された人物たちの弁護人などもなければ、主催者側が罪を告発し、証言者がの発言に基づいて戦争犯罪を彼らのうちで立証するというものだった。
さらになぜかこの裁判では元慰安婦の「証言」として、当時十二歳だったという北朝鮮人の女性が慰安婦として働かされ、旧日本軍によって繰り返し拷問のようなことをされたなど、素人目にもかなり怪しいと思われるものも含まれていた。
http://vawwrac.org/war_crimes_tribunal/wct01_05_04 より
北朝鮮はもちろん現在も海外への出入国にはかなりの制約が課されており、また国内でも当然言論の自由などが保障されているわけではない。
つまり、主催者側は北朝鮮のプロパガンダの可能性が高いものを証言として採用したということになる。
これには裁判の協力団体のひとつ「韓国挺身隊問題対策協議会」が、以前から北朝鮮の「朝鮮日本軍性的奴隷及び強制連行被害者補償対策委員会」と共闘関係にあったことも影響していたようだ。
韓国で慰安婦問題をこの頃主導していたのは市民団体だったからである。
もともと韓国政府はあまり率先して慰安婦問題を外交の場で取り上げていたわけではなかった。
しかし、日本で慰安婦問題が朝日新聞などの報道により大きくとりあげられるようになると、韓国でもそれに合わせるように次第に真相究明、日本批判の動きが強まっていくようになる。
だが、挺対協の活動には韓国国内でもその傾向に対して批判が見られ、同団体と共に「元慰安婦」とされる女性たちから聞き取り調査を行ったソウル大学名誉教授の安秉直氏は。
「約20年前、私は『韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)』という団体と共同で慰安婦問題を調査していた。しかし、次第に『挺対協』の目的が慰安婦問題の本質に迫ることではなく、ただ日本を攻撃することだとわかり、調査団から離れた。」
と、同団体の運動が日本政府を糾弾しようとする意図のもとに行われていたことを述べている。
(慰安婦調査のソウル大教授「事実をねじ曲げる仕事じゃない」
http://www.news-postseven.com/archives/20130910_210375.html より)
そして、こうした韓国の市民運動の動きと連携していた北朝鮮にもこの時期、慰安婦問題を間接的にせよ日本批判の有効なカードにしておきたい思惑があった。
それは90年代の後半から徐々に、日本国内で「拉致問題」をめぐる疑惑が次第に関心を集めていたためだったためである。
よく韓国も「道徳的優位」、あるいは「精神的優位」などという言葉を用いているが、これはつまり相手に対してどちらが被害者であるか、という関係性を強調したもので、過去の被害者、加害者という構図を利用して交渉を優位に行おうとする考え方のようだ。
とくに北朝鮮の場合、日本が半島における唯一の正統国家を韓国としていることもあり、戦後賠償の問題は宙ぶらりんの状況にある。
この意味でも慰安婦問題のカードの有用性はおそらく熟知していただろう。
このように見ると慰安婦問題や、戦後賠償問題を拡大させたのは日韓、そして北朝鮮をも含んだ革新系の団体などによる「合作」だったという方がおそらくは正しかろうと思う。
さらにこうした動きに対する日本の対応も、歴史問題で揉めるよりはこれまでの歴代の首相の謝罪などを強調して、過去の「実体の解明」を進めるよりも、むしろ相手国との「和解」を優先しようという姿勢が見られたため、歴史教育、とくに教科書の記述などをめぐっては、中韓など一部の国々への必要以上の「配慮」もされていたというが、これにはネットでも「事なかれ主義」という批判が多かった。
参考: http://www.jiyuushikan.org/rekishi/rekishi206.html
この日本政府の「曖昧さ」に対して、韓国では戦後の李承晩政権時代からしばしば行われてきた日本統治時代を批判的に教育しようとする動きから、日本に対しての批判が国内で起きると、韓国政府も日本に強く出ようとする傾向がみられるようになる。
しかもそれは90年代からの「民主化」の流れで、力をつけた市民団体によって一層激しいものとなっていた。
日本と韓国の問で、後に深刻な対立へと発展していく「溝」はこのときから少しずつ広まっていたようだ。
そしてこうした事情を抱える日韓に対して、当時強い外交力と工作能力を保有していた北朝鮮がその影響力を浸透させるのはそれほど難しいことではなかったろう。
このようにして出来上がった「反日」の連帯、つまり国際的に日本を糾弾する流れを作りだそうとすることこそ、当時の良識的な文化人に見られた流れだといえる。
もちろん日本国内からこうした運動、国内の傾向に対して批判の声がなかったというわけではない。
戦後補償の問題はそのまま「日本はなぜ戦争をしたのか」というテーマとも密接な関わりを持ってくるため、とくに一部の保守派からは強い反発が起こった。
こうした「戦時日本の再評価運動」と見ることができるものには、若年層から強い支持を受けた小林よしのり氏の「新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論」の発売や、保守派文化人による「新しい歴史教科書をつくる会」の発足などが挙げられる。
今でもネットの一部には「ネット右翼のルーツは小林よしのりの『戦争論』にある」という主張が見られるのはこのためであり、小林氏自身もまたそのように認識しているようだが、しかし、これは大きな誤解だろう。
確かに小林氏の著書に影響を受けたネット住民は少なくはなかったのだが、当時のインターネットにはまだまったくといっていいほどまとまりのようなものはなかった。
まして思想や潮流があるなどとは到底思えない状態だった。
彼らは政治や、外交に確かに一般人以上に関心があったとはいえ、ネットにはあくまでも「ダベり」に来ていたに過ぎず、こうした歴史問題にせよ数ある話のタネの一つでしかないと考えていた。
むしろこの点では、当時のネット(とくに掲示板)の雰囲気は今のtwitterに近く、ひたすらそのときの「流れ」と「ノリ」で雑談が繰り返されるばかりの有象無象の集まりだったため、非常に「無秩序」であり、またどんな話題でもできる「危険な場所」だったという。
今も2ちゃんねるのスローガンに掲げられている「『ハッキング』から『晩のおかず』まで」は、こうしたネットの特徴をよくあらわしているだろう。
ではこの一見するとまったく水と油のような政治問題とネット住民たちがどのようにして結びついていったのか。
それを紐解くことこそが、ネットが政治運動へと向かっていった大きなカギであるように思われる。
(続く)