【言の葉の道】26


【言の葉の道】25の音図世界の変遷は、千年単位です。言葉、言霊が五十音揃うまでにも相当な時間がかかっています。

以前に、子音を決めるのに母音から始めても上手くいかなかったことから、母音を後ろにする現在でも見られる形になりました。母音を後ろに置くことで、音は長く続けることができるのも、同時に見出されました。例:タ atー>ta

従って、「天津管麻音図」ができるまでに、千年単位かかり、更に「天津金木音図」が生み出された、実際に始められるまでにも、同様の時間がかかっています。この「天津金木音図」の世界は少なくとも、もう三千年は経過しています。

この時間の単位を認識しておくことは、重要です。

言葉になる基本の音(例:タ)ができても、今で言うコミュニケーションができるためには、天候、現象、モノなど見えるものだけではなく、感情、表現などの対象に『名付け』が行われている必要があります。これが、相当な時間を要した理由でもあります。

また、小規模集団や個人で仮に『名付け』ができたとしても、それら『名付け』の結果が共有されていないと意味をなさなくなり、結果、当初の目的であるコミュニケーションは成立できません。

そこでこの『名付け』を担当する神が指名されました。以前にも書きましたが、個人および集団を指しています。

ここまで見てくると、【言霊】の流れは、まさに、『言の葉の道』と言えるでしょう。単なる神話や個人が勝手に設定したモノではないし、天から降ってきたモノではないことがわかってきます。

【言の葉の道】25


心柱は、言霊の母音で構成されています。母音は変化しません。だから、柱なのです。そして、役割としては、始めるという『積極』を担ってています。

この言霊母音(アイウエオ)を受ける役割が、半母音(ワヰウヱヲ)です。受け取る側です。

この母音と半母音を繋ぐ役割が父韻(ふいん)です。母音・半母音と絡んで、子音を生み出す役割が基本です。ちょうど鳥居⛩️の横向きの柱に当たります。

そしてこれら、母音・半母音・父韻を一つの図にしたのが、言霊五十音音図(おんず)と言われていて、それぞれ、時代の縮図になっています。

のんびりと 静かな時代「天津管麻音図」(あまつすがそおんず)、そして、何かを作り出さなければということで組み替えられた「天津金木音図」(あまつかねきおんず)で表され、現代はまだその渦中です。

二つの音図の大きな違いは、「生存競争」が「天津金木音図」に加わったことです。そのことで科学に見られる様な大きな発展を遂げていますが、同時に戦争に見られる犠牲も発生しています。演繹の方向で、各界に広がって行っています。先がどんどん枝分かれして行く状態です。

ところが、天津管麻から天津金木と変遷している世の中ですが、広がりの弊害が見えてきたのと、当初企図した科学などの発展が充実してきている今、次の世の中(音図)に移行する時が来ています。

それは「天津太祝詞音図」(あまつふとのりとおんず)と言われる世界です。演繹に対して帰納と言われる方向です。対立を超えて一つになるという意味です。

「大祓祝詞」(おおはらいのりと)という文章があります。本来は、今で言う総理大臣が民衆に対して、宣言するかたちなのですが、いつの間にか、民衆が奏上する形になってしまっています。神社でよく聞く所謂祝詞です。なぜこうなっているか別の機会に解説します。

この「大祓祝詞」の中に、「天津管麻」を元から刈り取り、「天津金木」も元から刈り取って、「天津太祝詞」の世に帰納することが明示されています。
これが、人の生き様であり、「天津太祝詞音図」の世界が本来の人の世なのてす。

大きな流れを把握すできる目的で、細かい部分は省略して記述しました。


【言の葉の道】24


言霊を直接知りたい場合は、【言霊 備忘録 1】をゆっくり読んでみてください。ここで話しているのは、もっと砕いて、日常的に出会える形を追求しています。

【言霊 備忘録1】は、古事記読解を土台に展開されているので、宗教 神話 スピリチュアルなどがミックスされている様な印象があるでしょう。ただ、諸説ある中で、小笠原氏の著作は、明治天皇の系列から来ているもので、当時の言霊学会でも評価されています。

さて、魂をエネルギーに置き換えてみると、現代でも解釈が容易になり、日常に取り入れやすくなります。

以前に、エネルギーは、例えて言えば、柱の様だと言いました。この柱の周りを螺旋階段が取り巻いており、踊り場はそれぞれ別のエネルギーだと考えてみると何となく、『魂』『霊』(たましい・ひ)のイメージが掴めると思います。

この重層構造から分かることは、下から見上げても、何も見えないけれど、下を見下ろすと、「あんなこと やってたな。」とか「あんなこと 言ってたな。」などが、まるでビアホールの階上から階下を見下ろすが如くです。

階下にいて階上のことは全くわかりませんが、逆に、階上にいて階下のことはよくわかります。

ちょっと神話風に言えば、神のことはわからないけれど、神は何でもお見通しだ。あるいは、お見通しだから、神の下される言葉などは的確だ。となります。

実は「生きている」というのは、この螺旋階段に居るということ。「生きて行く」というのは、この螺旋階段を登っていることです。