ちょうど十年前の今日七月七日、大好きだったばあちゃんが死んだ。 倒れてからの約半年間の入院、闘病生活。
当時僕は大学2年の春休みで、車の免許を取りに実家へ帰省したところだった。駅まで迎えに来てくれた母が、「ばあばの具合が悪くて入院したんだ。」と言った。その表情からは、明らかに僕を心配させまいとする気持ちが見て取れて、僕はそれまでの人生の中でしたことのない覚悟をしなくてはいけないんだと、直感的に感じてしまった。幼い頃の僕は、まあ泣き虫でわがままで甘えん坊だった。母に叱られれば、ばあちゃんに泣きつき、夜が怖くて眠れなくなったらゴソゴソとばあちゃんの布団にもぐり込んで一緒に寝てもらった。ばあちゃんの作ったカレーにケチをつけて全部食べなかったり、思い返せばそれはもうキリがない。その頃の僕に会えるなら、びゃーびゃー泣くまで叱りつけてやりたいくらいだ。母には悪いが、僕はばあちゃんから産まれてきたんだなんて言っていた記憶もある。ばあちゃんは、そんな僕を全部受け止めてくれていた。とてもとても大きかった。(実際太っていて大きかった。)やがて思春期という厄介な時代が僕にも訪れて、あまり自分の部屋から出てこなくなったり、もちろんだけど泣きついたりすることも無くなった。サッカーに明け暮れては、どんどんと音楽にのめり込んでいき、自分だけの世界が楽しく、居心地の良いものになっていた。高校へ行く時は、ほとんど毎朝ばあちゃんは弁当を作って持たせてくれた。なのに愚かな僕は、学食のパンを買って昼を済ませ、学校帰りに半分弁当を食べて家に帰り、「ばあばごめんねー、弁当残しちゃった。」と言って、そそくさと自分の部屋に入っていくこともあった。それでもばあちゃんは「そっかー、少し多く作りすぎちゃったね!」とニコニコとしているのだった。
大学へ進学するために、東京へ行く日のことはとても鮮明に覚えている。その時の家の匂い、皆の顔、朝ご飯のおかずや、着ていた服。母の車に乗って駅へ向かうとき、ばあちゃんは「駅まで行ったら寂しくなるから」と言って、車が角を曲がるまでずっと手を振って、やっぱりニコニコとしていた。あの笑っている顔がくっきりと脳裏に焼き付いている。
大学が休みになれば必ず実家へ帰った。東京でのことをたくさん話した。東京生まれだったばあちゃんは、僕の話を聞いて、「いつかけんちゃんに会いに東京行きたいねー」と言うので、「来てくれたら色んなところに連れてってあげるよ!」と約束したら、嬉しそうに、そしてまたニコニコと頷いていた。そして僕が東京へ戻れば、ばあちゃんはたくさんご飯のおかずを作って冷凍したものを、手紙と一緒に送ってくれた。"お母さんが、あの子が連絡を全然よこさないと言って心配しているけど、便りがないのは元気な証拠。となだめています。" "パソコン教室に行ってきました。難しいけど、けんちゃんと電子メールができるように頑張ります。" "東京へ行った時にしっかり歩けるように、お風呂で手足の運動をしています。" そんな手紙が毎回荷物の中に入っていた。
そうこうとしているうちに時間は流れ、大学3年になる前に車の免許を取っておこうということで、春休みを利用して実家へ帰ることにした。そんなやりとりを母としていた時に、ばあちゃんが少し風邪気味だという話を聞いていたので、春休みの前に電話をしてばあちゃんと話した。電話口では元気そうに「帰ってくるの楽しみにしてるよ!何が食べたい?」と言っていたので、僕はすっかり安心して、もうすぐだから待っててね!と言って電話を切った。
そして実家へ帰る当日、新幹線で新潟へ向かった。僕は何故か分からないのだけど、新潟へ着いた時に何か嫌な予感がして、とっくに駅に着いているのに、迎えに来てくれる母に連絡せず、しばらく駅の周りで時間をつぶした。1時間程してようやく気分が落ち着いたところで母と落ちあった。そして、ばあちゃんが入院したことを聞いた。そのまま病院へ向かい、ばあちゃんのいる部屋へ向かった。ばあちゃんは既に意識が朦朧としていて、もう僕のことが分からなくなってしまっていた。とても信じられなくて、ただただその場で泣き崩れた。話しかけて言葉は返って来ても、それはとても弱々しく、何を伝えようとしているのかも分からなかった。
ばあちゃんは末期だった。手術もできない状態だった。とてもとても我慢強く、病院が嫌いな人だったから、風邪をこじらせたと思って、誰にも体の異変を言わなかったに違いない。それから抗がん剤治療が始まった。母は仕事をしながら、僕は教習所へ行きながら交代で、そして仙台から来た叔母と一緒に、毎日ばあちゃんのいる病院へ行った。まだ2月で、大雪の日もあった。叔母がいない時は自転車に乗って、食べられないと分かっているばあちゃんの好きな細巻きを持って、病院へ通った。春休みが終わりに近づいて、東京へ戻らなければならなくなった頃、ばあちゃんの意識が少しだけ戻って来た。僕のことも分かってくれて、弱々しくも"けんちゃん"と呼んでくれるまでになった。
僕は東京へ戻り、ばあちゃんは個室へ移った。母や叔母と連絡を取って、いつもばあちゃんの様子を伝え聞いた。良い日もあれば、悪い日もあって、もう予断を許さない状態だった。大学が連休になれば実家へ帰ることにした。そうやってばあちゃんに会って帰る時には、もう弱り切ってほどんどしゃべられないのに、「じゃあ帰るね、またね」と言うと、消え入るほどのかすかな声で 「気をつけてね」とばあちゃんは言った。いつも泣きながら東京へ帰る道中はとても辛かった。
夏になり、もうそろそろだという連絡が来た。新幹線の最終ギリギリに飛び乗って病院へ向かった。部屋には母とじいちゃんと、叔父、叔母がいて、ばあちゃんの様子を見守っていた。日付が変わる前に、いとこの兄ちゃんと姉ちゃんも来て、小さい頃、休みになるといつも一緒だった家族8人が揃った。ずっと僕はばあちゃんの手を握っていた。握り返してくれるわけもないのだけど、ずっと握っていた。そして日付が変わった七夕の日の明け方、そっとばあちゃんは旅立った。それまでの人生でしたことのない覚悟をしていたつもりだったけど、全くできてなんかいなかった。結局ばあちゃんを東京で色んなところに連れて行ってあげると言った約束も果たせなかった。後悔や感謝や、思い出とか愛情とか、全部がごちゃごちゃになって溢れ出した。皆で泣いた。いつもばあちゃんと大喧嘩ばかりしていたじいちゃんは、まだ少しだけあたたかい、ばあちゃんのおでこを撫でながら「ご苦労らったな。」と言った。
骨になってしまったばあちゃんを抱えて、病院に挨拶に行った。個室に移ったばあちゃんを担当してくれていた看護婦さんが、「七夕だったもんねぇ、ばあちゃんお星様になったんだねぇ。」と言った。その時、昔まだ僕がばあちゃんと一緒に寝ていた頃、「あの世に行ったらどうなるんだろねー。」なんてばあちゃんが言っていたことを思い出した。ばあちゃんは星になった。こっちにいた頃と何ひとつ変わらない、とても優しい星になった。
十年経った今でも、何気なく風が心地よかったり、空がとても澄んでいたりすると、ふっと思い出してしばらく涙が止まらなくなることがある。大人になったつもりで、もう泣くことなんて無くなったなーなんてうそぶいても、全然ダメだ。
そんなわけで、十年前の今日から、僕にとっての七夕という日は、もう二度と会うことの出来ない、とても大切な人を空に想う日に変わった。
二〇十三年七月七日、東京の空は少しだけ晴れている。