ブログを書かないうちに世の中は大変なことになってしまいました。

コロナのおかげで聞法もおろそかになっていました。

今まで、お話をされる偉い先生が尊いのだと思っていましたが、

それを聞きに来る人々も尊いのだということに気付きました。

しかし、空いた時間にオンラインで習い事したりして

「楽だなあ」

と思ってましたが、そうしていると自分の無能さに落ち込む出来事がありました。

自分を責めて責めてどうにもならなくなり、昨日しんらん交流館に足を運びました。

テーマは

「一心」

一心といえば世親の『浄土論』の

「世尊、我一心・・・・」

かなあと思ってましたが「正信偈」の

「三不三信誨慇懃」

の三信の

「淳心・一心・相続心」

の一心でした。

「私は一心でいられるか?」

ちょうど、手の力でヒーリングをする療法があるとネットで知って調べているところだったのでドキッとしました。

一心はこのように私の力ではできないそうです。

阿弥陀から来るもの→お念仏せな!と思う→それが信心

だそうです。

 

最近ダンナと

「内なるトランプ」

という冗談を言い合っています。

勝ち負けで判断したり、まあ要するにアメリカの前大統領みたいな価値観が自分の中にもあるという話です。

今回法話を聞いて内なるトランプは今何故か影を潜めました。

何かに触れたんだと思います。

なんか、ほっとしています。

 

 

冬の間は時間があるので、最近ヨガに通っています。

ヨガいいです。

体が整うと心も整うのでしょうか。

精神的にすごくいいです。

 

最近は源信の『往生要集』をゆっくりと読んでいます。

初めは「厭離穢土」「欣求浄土」といって、地獄のえげつなさと浄土のすばらしさが書かれています。

地獄は本当にえげつないです。

今年の夏に風邪気味で「厭離穢土」を読んだら、本気で吐き気がして気分が悪くなりました。

この「厭離穢土」「欣求浄土」は人間の自力心に呼びかけているものだそうです。

確かに、

「地獄は嫌だから素晴らしい浄土に行きたい」

というのは自分の心が願うものです。

 

法然は『選択本願念仏集』の「三心章」で『観無量寿経』からしか引用してません。

親鸞は『大無量寿経』の「三心」と『観無量寿経』の「三心」を区別して述べています。

「自力」という考え方は親鸞以前の人はどう思っていたのかなあと思います。

 

我々は時々願うだけで、常に摂取不捨の利益にあずかっているそうです。

努力の意識が一点も入らずにいただくのだそうです。

 

自分が真実になるのではなく、罪悪凡夫の自分をいただくのだそうです。

 

自力が大好きな私は色々考えさせられました。

それといつも思うのですが、罪悪凡夫の自覚ってどんなんでしょう?

なんかすごく自分を見るのは恐いのですが。。。。

 

今日は行けないはずであったある場所での報恩講に急遽行けることになり、聞いてきました。

今日は本生譚について。

本生譚で有名なものは「雪山童子」や「捨身飼虎」があります。

今まで本生譚は知っていましたが、なんとなく

「仏教を語る上ではあまり重要なものではないかなー」

くらいの認識でいました。

 

この本生譚は、この世にいただいた命をもっと尊いものにささげるといった内容のものが多いらしいです。

報恩講で読まれている和讃にも

「身を粉にしても報ずべし」

「ほねをくだきても謝すべし」

といっています。

 

ブッダのさとりの真実は凡夫の理解を超えているそうです。

つきぬけているものであり、それをあらわそうとすると言葉の持っている質が違うそうです。

無限の持っている真実性を(有限の言葉で)教えようとする矛盾が起きるそうです。

ブッダも「三界をこえる」といっており、これは人間の体験できることをこえることだそうです。

 

このように、命がけではじめて得られるものが仏教のさとりだそうです。

それをあらわすにはただの説明ではダメだそうです。

だから本生譚という物語として話されるようです。

 

これを聞いて滅茶苦茶ドキッとしました。

「私は命がけで求めているか?」

確かに私の知る教えの喜びに遇ったように見える人たちは聞きぬいていらっしゃいます。

考えさせられました。