どこを見ても変。
ものみの塔2013年10月15日号
12 世の主人は,クリスチャンである奴隷の生活を難しくすることがありました。パウロはコリント人への第一の手紙の中で,「あなたは奴隷の時に召されましたか」と問いかけ,こう諭しました。「そのことで思い悩むことはありません。ですが,自由になることもできるなら,むしろその機会をとらえなさい」。(コリ一 7:21)奴隷状態からの自由は好ましいことでした。今日,多くの国では,特定の年齢まで学校教育が義務づけられており,その後は自分で進路を選択するようになっています。しかし,この世での成功を押し進めるためにさらに教育を受けるなら,全時間奉仕を追い求める自由を制限することになるでしょう。―コリント第一 7:23を読む。
塔13 10/15 12-16ページ「エホバに奴隷として仕えなさい」
「奴隷状態からの自由は好ましいことでした。今日,多くの国では,特定の年齢まで学校教育が義務づけられており…」
義務教育を奴隷制度に例える発想。
おそらく義務教育という言葉に着目したのでしょう。しかし義務教育の目的は,親の経済状況や裁量によって子供たちが無教育のままになるような状況を避けるという人権の尊重と健全な社会の維持が目的です。詳しくは義務教育の目的,目標 - 文部科学省をご覧ください。
上の研究記事の文章を見ると,義務教育以上の教育を否定していたラザフォードの時代を思い出させますが,どんどん時代に逆行してるように見えます。
実際には統治体より「世」のほうがずっと子供たちの将来を考えてるように思えます。
そして
「この世での成功を押し進めるためにさらに教育を受けるなら,全時間奉仕を追い求める自由を制限することになるでしょう」
「この世での成功」って何を指して言ってるのでしょうか?
結局,何を否定しているのかが不明瞭です。セリーナ・ウィリアムズのように金メダルを取ることなのか,プリンスのようにグラミー賞をとることなのか,ココ・ロシャのようにスーパーモデルになることなのか。
「この世での成功」を否定してるのか?
しかし実際読んでみると結局は大学教育そのものを否定しているのです。
続いて挿絵が出ています。

上と下の段にそれぞれ5枚のパネルが出ています。
キャプションはこうなっています。
「どちらの主人の奴隷になりますか」
意味がわかりません。なんですかこの強引な二者択一問題は。
こういうのを「誤った二分法」と呼びます。
誤った二分法は非論理的誤謬の一種であり、実際には他にも選択肢があるのに、二つの選択肢だけしか考慮しない状況を指す。
…他に選択肢はないという主張は、両極端だけを選択肢とする誤った二分法の例である。その場合、選択肢はそう主張する人の提案だけにしぼられる。もちろんその話者は他の選択肢がないと信じているわけではなく、それについて議論したくないというだけのことが多い。代替案に反対するというよりも、代替案の存在そのものを否定することでそれらを無効化しようとする。
Wikipedia
先ほどの挿絵を見ると,上の段は姉妹が奉仕ばかりしている様子が描かれている。下の段は勉強と仕事をしている様子が描かれている。
上の段の姉妹の建築作業は職業ではなくて王国会館建設の様子のように思います。だとすると上の段には世俗の職業の話題がまったく出てないわけです。なぜ?比較としてはおかしくないか。
下の段には夜遅くまで勉強して大学を卒業した姿とその後の仕事の様子が描かれています。
では上の姉妹はいつ仕事してるんでしょう?仕事しなくても良い立場なのか?
あと どうせなら老後の姿まで描写するのがフェアですよね!
続く見出しはこうなっています。
「高等教育? それとも最高の教育?」
これまた「誤った二分法」の典型が出てきます。
読み進めると「最高の教育」というのは「毎週の神権宣教学校」のことであったり「CD-ROMのWatchtower Library」のことだったりするんです。
比較するところが違うだろって突っ込みたくなります。
ところで ものみの塔の奴隷制度を例で思い出しました。
かつて 多くの黒人が奴隷貿易で中南米に送られました。サトウキビのプランテーション農業で働かせるためです。
後にイギリスは奴隷制度を廃止する決定をくだしました。
ところが中南米の黒人の多くが,そのまま白人の農場で安月給(貯蓄できない程度)で働くことを選びました。
理由は孤立した黒人は「行くところがない」からでした。
そして奴隷主の白人たちは黒人に教育の機会を与えることを嫌いました。
なんだか似たような構造を感じます。