思い付きの駄文
「鬼と人の狭間」などと題して、先日ソロしていた時に思いついたことなどを。 炭焼き小屋の番、などという仕事も決して悪いものではなかった、と男は思う。厳冬の山にこの深い夜、周囲に物音を発する気配のひとつなく、ただ焚火の明かりが届く中にぽつねんと、まったき孤独の裡に座しているだけのことが己に与えられた仕事であっても。目の前で踊る焚火の光が男の頬を赤く照らしているが、ろくな手入れも施さず、ただ乱雑に伸びただけの頬髭を蓄えたその頬が、ごく僅かに動いた。笑ったようである。 フロノンドを北に半日ほど離れたこの山間にある一軒の炭焼き小屋の番をしてほしいという、山林管理組合からの仕事をギルドを通じて受けたのが二週間ほど前の話になる。冬の間は炭焼き小屋を訪れる者がなくなるが、その間に獣や不逞の輩が住み着いてしまっては困る、ということらしい。毎年決まりの冒険者が請け負う仕事であったようだが、今年はその者の都合がつかず、急きょ代役が必要になったようである。しかし街からそこまで遠くはあらぬといってもその間訪れる者がなく、それがために、火の気ひとつない冬の山小屋に食い物持参で二週間……とあってはそうそう引き受ける者があるはずもなく、そこにこの男、ちょうど仕事の手すきであったものだから、名乗りを上げればすんなりと決まったものである。二週間分の食い物、燃料、日用品をたんまり詰め込んだ背嚢をしょい込んで冬の山道をのこのこと登り来て、その日より孤独の日々が始まった。 決して野宿に不慣れではない。風雪吹きすさぶこの時季の山中で夜を明かしたこともないではない。それでも二週間という期日を背負ったがためであろうか?風の音ひとつに身をわななかせ、刀を掴んで背後の闇を振り返ることが多かったのは。昼の陽射しの中にどこか遠くの枝から雪が落ちるか何かして、それが響くたびにその方の、眩い雪焼けに目を凝らして佇むことが多かったのは。されどそれらが真新しさを失って心に訴えるものを亡くすまで、三日はかからなかった。街で耳目にすることのまるでないものに慣れてしまうと、男は全くの孤独の裡に過ごさざるをえなくなった。 周囲に気を向けるものがなくなると、気は常に己が内側に向くようになった。心の臓の鼓動の一つ一つを明瞭に意識するようになった。意識が雪焼けの虚空をさまようと目を晦ますその光の中に、雪粒が異なる角度で放つ光の一条一条を数えるようになった。吹きすさぶ風が背後に迫ると、それが孕んだ塵芥の所在を風の音の乱れとして、そのいくつを数えるようになった。自らの神経が研ぎ澄まされていることを感じるのである。それは超常の域に達したように思え、もしいま剣を執ったとすれば我が身体は自由自在にして、もはや天下に並ぶものなしとすら思えるほどのものとなった。試みに剣をとり、抜き打ちにしてみる。それは向かい風を裂き、それに乗って飛来した小指の先ほどの枯れ枝を狙い通りに斬って背後に落とした。激しく回転して飛来する小枝を、縦にと思ってその通りに斬ってのけるのである。太刀筋は自在であった。 されど悲しいかな幻想に過ぎない事だ、いかに自由闊達なる心境の裡に剣を振るうことができたとしても。我が太刀筋の自在なることを訴え、我こそ天下無双也と叫んだところでそれを聞く者の一人として、ここにはいない。まして剣の技の絶妙なることを証だてるとすれば、それは決して枯れ枝を斬る技に求めるものでもなかろう。剣の技とはあくまで、斬り合いにおいて敵を斬る技を指すべきものである。研ぎ澄まされたこの感覚が、剣の技に本当に寄与するものであるかは、試してみなければわからなかった。そしてそれを試すべき相手がいるのはこの山中にではなく、人々が暮らす中に、であろう。 だから悲しき幻想に過ぎないのだ、と男は思う。この、獣のように研ぎ澄まされた反射は、外界との交わりを絶ち、意識を己が内側にのみ向けることで得られたものである以上、人々に混じって暮らす中で失われていくことが必定である。さもありなん街にひとたび戻れば、内面にのみ集中するわけにはゆかぬ。例えば呼びかけてくる人がいたとして、その人が訴えかけてくる意味と内容の一切を遮断して、意識を我が内面にのみ向けたとする。するとこの男の場合、意識が向かう先の内面とは……(どこそこに隙がある。こう動けばこの人の小手を斬れる。こうかわされても続けて胸が突けるし、肩も斬れる。) というようなもになるのである。例えば道を尋ねてくる人を前にしてその人が言うことを意に介さず、このようなことばかり考えるようであっては、およそまともな人間の思考とは呼べまい。それを名づけるとすればもはや人ではなく、(もはや剣鬼と呼ぶべきものだ。) 道を尋ねられれば応えるのが人として当然であるし、挨拶をされれば返すのが人としてあるべき当然の態度である。そうでなければ余人は遠ざかることだろう。人と交わり街に暮らすというのはそういうことで、ならば剣鬼として研ぎ澄ました感覚が失われていくことは必定であった。 しかしその感覚こそ、斬り合いの場で剣の技を使うにあたって最良のものだった。敵がいかに変幻自在なる太刀筋を使おうともその意味を遮断して惑わされず、我が内面より出で来る無意識の一刀こそが必勝の剣たりうるし、この男が学んだ流派では、それをこそ「夢想剣」と名付けて極意とするのである。こうして山中に籠り、精神を研ぎ澄ました今こそが、あるいは夢想剣を繰り出す心境に達しているのかもしれなかった。そしてその心境は街に戻れば失われて、再び人として、剣の極意から遠ざかる日々が待っているのである。 二週間という期日が今日で終わる。荷はすでにまとめ上げているから、あとは交代の人がくるのを待つばかりだった。仮初の剣鬼であれたこの二週間は決して悪いものではなかった、と思う。しかし同時に、(俺は人だ。人であらぬわけにはいかん。) とも思う。人であらねば世に住めず、世に住めねば斬り合いの技の進境を確かめるべき、闘争の相手も見出せまい。されどその闘争の場にあって達するべきは、人を捨てることでのみ得られる剣鬼の極意……(矛盾しておる。) と、男は思った。やがて交代の人が山道を登ってくれば、交代の挨拶を済ませるために歩み寄っていくことだろう。それは紛れもなく、人としてするべきことだった。(まことに、どちらつかずの我が身であることよ。) そう思った時、口元に苦笑いが浮かんできた。