自分の子どもが
不登校になる前から


不登校というのは

その子どもが悪いのでもなく
能力が低いわけでもなく

原因はいろいろあるにせよ

単に学校というシステムに
合わないだけであり

無理に登校させようとするのは
逆効果である

ということくらい知っていた。



だから
近所のお子さんが

学校では明るく面白くて
人気があったけれど

中学に入ってから
おとなしく授業を受けることが
苦痛となり
不登校になったときに

そのお母さんには

「○○くんは
規則だらけの学校は
きっと窮屈なんだよね。

面白いし、コミュ力あるし
学校に行かなくても
大丈夫だよ」

なんて言っていた。


それは
心から思っていたことで

学校に合わない子どもは
つらいだろうなと
理解していたつもりだった。



しかし

自分の子ども(長女)が
中学で不登校になったときに
思ったことは


「え?なんで?

ウチの子、優等生で
規範意識も高くて

委員とか部活とか
学校の活動にも積極的だし
友人関係にも問題なくて

ムチャクチャ
学校に適応してるのに

え、なんで?」

というものだった。




そして
無理に学校に行かせては
いけないということも
知識としては持っていたので


子どもに対しては
「今日も学校に行かないのね」

と確認するけれど
それ以上は言わず

いかにも理解している風を
装いながら

その実
行かないことに不満だったし
がっかりしていたし

きっと顔にも所作にも
出ていたことだろう。



学校に無理に行かせようと
してもしなくても

親が真に理解していない

という点には変わりなく

子どもにとっては
何の意味もなかっただろう。


***

子どもが不登校になって

親として
人間として
学んだことはたくさんあるが

その一つは

「当事者になってみないと
分からない」

ということだ。



不登校に限らず
さまざまな場面で

当事者以外には
分からない事情があることは
理解していたが

それでも
たとえ傍観者であっても
知識や共感力があれば

なんとなく分かるし
想像できるような気がしていた。



しかし
実際に当事者になってみると

そんな想像力では
まかないきれない衝撃が走るのだ。



もちろん
肉体の死や命が関わる場面では

当事者になってみないと
分からないことがあることは
謙虚に想像していたと思う。



けれど
不登校の衝撃というのは

直接、命が脅かされることはないが
自分の価値観を崩される衝撃なのだ。



人間は
自分の信念のために死ねる生き物だ。
(そうではなければ戦争など起きない)


それくらい
自分の持っている価値観が
覆されることには苦痛を伴う。



しかし
その苦痛に耐えるのではなく

そもそも囚われていた価値観を
捨ててしまえば

痛みはなくなり
問題も解消するのだ。




どんなに理解があるとしても
傍観者である限り

価値観を変えたり捨てたり
する必要などなく

何の痛みも伴わない。




傍観者が
このことに気がつかない限り
(そして気がつくことは大変難しい)

当事者と
それ以外の人間との
間にある溝は

残念ながら存在し続けるだろう
と思う。



しかし
このことに気がついてからは

不登校以外の
自分が傍観者である場面において

当事者と自分との
決定的な違いを
意識できるようになった。


これは
子どもが不登校になったことの
収穫の一つである。