「メサイアコンプレックス」という言葉がある。

これは、自分が救われたいがために他人を救うという意味を持つ。

自分のために人を利用するため無意識に人を苦しめたり、最悪の場合は人に不幸や死をもたらすものである。

感謝されることや自分のための善行という自分本位な動機が先立つものとされているが、その心の奥には「大きな存在」への強い執着もあるのではないだろうか。

スピリチュアルや自己啓発の世界において、人々の注目を集めるような存在になると自分は大きな存在であるという錯覚に陥りやすい。

また、「大きな存在」と繋がりを持つことで、自分も特別な存在であるかのように優越的な感覚を覚える者も少なくない。

近年、この「大きな存在でありたい」という執着によって、自分を見失う者が多い。

多くの人から尊敬を集めたいとか、人よりも先に行きたい、もっと高い評価を受けたいとか、人の評価を意識した言動や行動が目立つ者を多く見受ける。

実は、この肥大化した自己顕示欲というのは放置すると、とても厄介なことになる。

まず、常に自分が必要とされるためのものを作り上げてしまう。

善が生じるために悪を生み出したり、真実をねじ曲げたり、自分に都合のいい事実を仕立てるような作為的な行為も多くなる。

だから、言葉が抽象的で曖昧な表現も多くなる。

まるで、言葉巧みに外面をよく見せる厚顔無恥である。

自分本位というのは、とても怖ろしいものである。

地位であれ名誉であれ自分が手にしたいものがあると外側をきれいに見せながら、平気で人を傷つけたり、人の命まで奪う。

無意識で人を傷つけてる者が多く、気がつくと、自分が原因で人が死んでいるという事実を突きつけられる。

そもそも、自分が救われるために人を救うというのは、まことの善ではないのだ。

人に尽くすことだけが徳を積むという考えがあるならば、大きな間違いである。

自分が目立つために人を押さえつけたり傷つけていては、人にどれだけ尽くしても徳を積むことにはならないだろう。

最近、自分の限界から目を背け、自分の可能性ばかり追い求め、人として大切なことや守るべきものが見えていない者が多い。

はっきり言っておく。

人間の人生は、「善行の有無」だけで決まるものではないのだ。

人に幸せをもたらす行為だけが、高く評価されるものでもない。

多くの者を率いる指導者となり社会的影響力のある存在や、偉業を成し遂げ成功者となることだけが、すべてでもない。

誰かのために生きるという考え方は素晴らしいとは思うが、そればかりが価値のある行為ではない。

 

次回は、この続きを書いてみる。