石川 裕一郎(聖学院大学教授/反貧困ネットワーク栃木共同代表)

 
「ブラックバイト」という言葉をご存じだろうか。一言で言えば、学生・生徒の正常な生活を大きく損なうようなアルバイトのことである。具体的には、アルバイトなのに正社員あるいはそれ以上の長時間労働と責任を課され、部活・サークル活動はおろか授業にもろくに出席できず、また、定期試験等の学暦を考慮されずに一方的にシフトを組まれることにより学業成績が悪化し、最悪の場合退学に追い込まれる━━こういう事態を招くアルバイトのことである。ノルマ達成のための自腹購入を強制されることもある。
 こういった事態が現出している根本原因は、既に広く知られる「ブラック企業」と同様、この国・この社会の在り様そのものに存するというのが本稿の立場である。端的に言い換えるならば、日本国そのものがいわば「ブラック国家」ではないかという認識である。以下、とりとめのない印象論に終始するが、暫しお付き合いいただければ幸いである。
 さて、「ブラックバイト」や「ブラック企業」に苦しめられる21世紀初頭現在の日本の生徒・学生・労働者の姿には、唐突に思われるかもしれないが、71年前までの日本軍兵士を容易に連想させるものがある。私は職業柄(そして趣味としても)古今東西を問わず戦争映画をよく観るのだが、1960年代くらいまでに撮られた日本の戦争映画には、1970年代以降に撮られた、あるいは諸外国の戦争映画と比べて際立った特徴が一つあるように思う。それは、戦争の悲惨さそのものより、「日本軍=皇軍」というシステムがいかに愚劣で非近代的な組織であったかをこれでもかと強調することである。『人間の条件』(松竹、1959~61年。主演:仲代達矢)、あるいは『陸軍残虐物語』(東映、1963年。主演:三國連太郎)はその代表例である。
 これらの諸作品を観ればわかるが、そこでは、戦争そのものの残酷さや非人間性よりも、旧日本軍の組織内部の酷い実態を描くことに重きが置かれているのが明らかなのである。おそらく当時の映画界には軍隊生活の実体験者がまだ多かったからであろう、そこで描かれている兵士の日常生活のリアリティ、たとえば新兵に対する古参兵の無意味な、しかしながら陰湿かつ執拗かつ凄絶ないじめやしごきのシーンには、観ているだけでこちらも息苦しくなってくるものがある。これらの作品は戦争そのものに反対するというよりも、日本社会の最も愚劣な面が集約されているであろう「軍」という組織の現実を鋭く告発しているのである。
 映画ではなく現実のアジア太平洋戦争の実態に目を転じるならば、その愚劣さは、軍指導部の兵站軽視と戦略眼の欠如が招いた兵士の戦病死率の異常な高さとして表れている。なにしろこの戦争での命を落とした日本兵の過半は、本来の戦闘行為ではなく、餓死を含む病死によるものだったのである。フランスの哲学者ミシェル・フーコーは、近代の権力は中世以前のそれとは異なり「人々を殺すのではなく生かす権力(bio-pouvoir)」であると特徴づけたが、1945年当時の大日本帝国はその近代的権力でさえなかったといえる。兵士を人間としてではなく、使い捨ての・取り換え可能な消耗品のように扱う━━71年前のこの国はまさに「ブラック国家」であったと言っても過言ではないだろう。
 そして、それだからこそ現行憲法の「戦争放棄」は、単に国家が戦力を保持し交戦する権限を否定するのみならず、戦争を否定したこの国における人権保障の土台になっていると言えるのである。憲法の条文に即して例を挙げるなら、9条(戦争放棄)は、13条(個人の尊重と幸福追求権)や25条(生存権)の理念と実効性を下支えしているということである。 (以下、続く)

いしかわ・ゆういちろう 早稲田大学法学部卒業、同大学院法学研究科博士後期課程単位取得退学。専門は憲法・フランス法。最近の共編著書に『裁判員と死刑制度』(新泉社、2010年)、『現代フランスを知るための62章』(明石書店、2010年)、『リアル憲法学〔第2版〕』(法律文化社、2013年)、『フランスの憲法判例Ⅱ』(信山社、2013年)、『憲法未来予想図』(現代人文社、2014年)、『国家の論理といのちの倫理』(新教出版社、2014年)、『これでいいのか! 日本の民主主義:失言・名言から読み解く憲法』(現代人文社、2016年)など。