こんばんは。ブログ投稿24日目です。
今日は昨日に引き続き私のスポーツ歴についてお話したいと思います。今日は中学校編です。
入学当初
中学校では、クラブチームと学校の部活動の2種類の選択肢があったのですが、私の中学校は比較的野球部が強かったためなんの迷いもなく部活動に入りました。小学校の選抜大会で野球に対する自信をなくしていたのですが、野球自体は好きであったため他の部活動を考えることはありませんでした。
入学当初は3年生の大会が近かったこともあり、体力づくりがメインでした。今までの野球人生で試合に出ないということがあまりなかったので、その期間はあまり野球を楽しむことが出来ませんでした。なんとなくの日々を過ごしていく内に3年生の最後の大会は終わってしまいました。その年の地区大会はスタンドから3年生の姿をずっと応援していたのですが、3年生の偉大さにただただ感心していました。負けた瞬間に中学の野球人生が終わるというプレッシャーの中すごいプレーを連発する姿はとてもかっこよく、自分が2年後に同じようにプレーするのなんて到底無理なんじゃないかと思っていました。
3年生が引退すると新チームが始まりました。その頃の私は小学校時代とは大きく変わり、辛い練習をしたくない、真面目にやるのがばからしい、どうやったらさぼれるか、ということをいつも考えていました。この辺りから小学校時代がいかに偽善者ぶっていたのか認識するようになり、そうした自分を変えなけらばいけないという誤った考えが助長されたことによって、このような性格になってしまったと思います。おかげで、同学年の友達からとは馬鹿の一緒にばかなことをしたり、愚痴をいいあったりするような関係を築けた一方で、小学校時代の自分を知っていた先輩からは幻滅されていました。そんなわけで、最初の頃はほとんど試合に出ることはなく、また試合に出られないことに関しても特に何も感じていませんでした。
新チーム
そうした状況はある試合をきっかけに大きく変わりました。たまたま出た試合でいいプレーをできたことが先生の目に留まり、レギュラーとして試合に出られるようになりました。それまで、試合に出るイメージを全くしてこなかったためか1試合1試合が大変で、かむしゃらに取り組んでいました。どうして試合に出られるようになったか考えたのですが、私の長所である言われたことをコツコツ継続することが身を結んだことと思います。入学して基礎的な動きをいうものを教えられてからはほとんど放任主義だったのですが、私はそうした教えを野球ノートに毎日コツコツ書いて、実践していたため気付かない内に大きく成長することが出来ていました。
初めての大会は私ささいなミスによって負けてしまいました。おそらく先生も私のやる気のない態度に気づいていたのか、私のミスは大いに責められました。この時から試合に出ている以上は責任ある練習をしないといけないと感じたためか、少しづつ練習態度が変わっていきました。それでも、私はチーム内で一番怒られたといっていいほどに目をつけられていました(今思うと期待の表れだったのかもしれません)。こうした練習態度の向上が功を奏したのか、さらに上手くなっていき、次の年の地区大会も昨年同様優勝することが出来ました。夏の大会連覇ということを達成したため、私の最後の大会では3連覇という今までどのチームも成し遂げたことのない大きなプレッシャーがかかることとなりました。
仮主将
新チームになり、キャプテンを決めることとなるのですが、私たちの代は問題児が多く、キャプテン気質の人間は一人もいませんでした。とりあえず、一時期の間だけでも仮キャプテンを決めることとなったのですが、不幸なことに私が引き受けることになりました。あまり記憶は定かではありませんが、ものすごい適当に決められたことを覚えています。私自身キャプテンは小学校時代の経験から死んでもやりたくないという思いがあったのですが、仮ならいいやという思いで安易に引き受けたこの選択は後に大きな影響を与えることとなります。
私たちの代は自分でいうのもなんですが、性格に難はあったもの、能力面、戦術理解度が高く、チームとしてのレベルは高かったと思います。秋の大会も順調に勝ち進んで、後2つ勝てば全国大会とうところまで勝ち上がりました。今まで地区大会で優勝することは何度かあったのですが、県大会というレベルで結果を残したことはなく、チーム全体に大きな期待が高まっていました。そうした中迎えた大会は私の誕生日(10/29)と同じ日で、この上ない素晴らしい誕生日にしようと意気込んでいましたが、その試合に投手として出場した私はミスを連発し、ほとんど私のせいといってもいいくらいに負けました。人生で一番落ち込みました。家では私の誕生日を祝うはずだったケーキが用意されていましたが一口も食べませんでした。最悪な誕生日です。
それでも、辛い気持ちを抱きながらも仮主将としてチームを引っ張っていかなければいけなかったため、勝つために何をしなければいけないか必死に考え、その意見をチームメイトに常にぶつけていきました。この時の私は、今でからこそ分かるのですが、非常に視野が狭く、自分の考えていることは全て正しいという認識でいました。案の状、チームメイトは全くついてこず、私自身はというと、なんでわかんないんだ、頭悪すぎるだろという、自分以外の人間はおかしいという大きな勘違いをしていました。そんなこんやを続けている内になんでまだ仮主将やってんだろうという気持ちを持つようになり、ふとしたきっかけ(先生に怒られた?)で仮主将をやめることを直談判しました。新チーム発足から時間がたった中での主将(このころは仮主将という認識は私だけで、周りの人間は完全に主将という認識でした)交代ということでチーム内には大きな激震が走ったことと思います。しかし、私がそうしたことはもはやどうでもいいことと思っていました。
最後の大会
そんなかんやで、私たちのチームは能力こそ高かったものの、試合で結果を出せず、結果を出すことがないまま、残すは最後の大会のみという状況になりました。そうした中、仮主将という重責を逃れた私はどんどん調子を上げていきました。余分なことを考えず、自分のことに集中することが出来たことは大いに関係していると思います。ただ、1年生のころに夏の大会で見た3年生のようにどうしたらなれるか、負けたら終わりというプレッシャーの中でどうしたら活躍できるか考え、練習に取り組んだことこそが一番の要因だと思います。練習中から負けたら終わりというプレッシャーを課すことで、夏の大会は全く緊張せず臨むことが出来ました。
夏の大会で私は獅子奮迅の活躍をしました。今まで、自分の活躍が直接勝利に貢献したという経験はなく、自分の一打、一投でスタンドが沸き上がるという経験は本当に素晴らしいものでした。人生の中で一番輝いていた瞬間はという問いがあれば間違いなくこの瞬間を上げます。結局、県体会でも快進撃は止まらず、東日本大会というところまで進むことが出来ました。この成功体験は、本当の意味での自信というものを初めて獲得出来た瞬間でもありました。
振り返ってみると、仮主将を続けていて同じような結果が出せたかはわかりませんが、一度引き受けた仮主将という役職を放棄したことは少なからず心の中には引っかかっていました。ただ、仮主将を辞めた後に自分の出来ることは何か考え、実行に移したことは間違いなく正しい行動だったと思います。
高校で野球を続けることの決心
本来、野球は中学までと決めていたのですが、最後の大会で結果を出し、自信をつけたことで、高校野球を続けるか迷うようになりました。私が進学しようとしていた高校は野球が非常に強く、また練習量も尋常じゃないくらい長かったため、野球を続けるのならば、勉強という選択肢は捨てるといっても同然のようなものでした。それでも、当時の担任の先生から「やらないで後悔するくらいなら、やって後悔した方がいい」という言葉を頂き、続けることを決心しました。本来であれば高校野球=甲子園を目指すというものだと思うのですが、私自身はそこまで甲子園という存在はその段階では意識していませんでした。
今日はここまでです。
なかなか気付かない内にボリューミーな内容になってしまいましたが、振り返ると、どんどん野球が上手くなって、結果が出るようになって野球人生の中で一番楽しい時間だったと思います。
明日は高校時代についてお話したいと思います。思いだしたくないこともありますが、逃げずに過去の自分と向き合いたいと思います。
それではまた明日。