茨城の田舎を歩いて知ったこと、
それは、
何気ないその辺のお店で食べるそば
がとてもおいしいということ。
おばちゃんが日常の続きでそばを打ち、
家族に出す延長でお客に出すスタイル。

今どき珍しく、おんぶヒモで赤ん坊を
背負ってあやしながら調理場と座敷を
行ったり来たりするおかみさん。
お隣におよばれした気分で
「まるで突撃隣の昼ご飯だ。」
なんていう思いですすっていると、
勝手に親近感もわいてきて、
おいしさがしみてきます。

僕は時々、無性にそばが食べたくなる性質で、
茨城でおいしいそば屋を探すこと10年以上、
お気入りのそば屋さんは
いくつか見つけましたが、
いつぞやの記事にした、大先輩が出した
そば屋の感動に匹敵するお店に出会えず、
そばジプシーをしていました。

ネットで探し、人に聞き、車を飛ばし、
回ってみれど、職人の技には感動するものの、
肝心のそばの味には納得がいかなかった…

ところがところが、
ネットにも広告にも、
街の口コミにもないところに、
おいしいそば屋が何軒も、ありました。

山のふもとの、お店もお客も、
彼らの日常の生活の中で、
ふつうに食べられていたそば。

「おいしいから食べてみな!」が、
直接関わりのある人々の中で、
大切にシェアされていている世界。

なんとか多くのお客に出して
利益をあげたいとかではなく、
「出来る範囲でおいしいものを作って
喜んでもらおう」
以外のなにものでもない世界。


では自然体なサービスがお客を呼ぶのか
というと、それだけではやはり普通で、
そこには、宇宙のはからいというか、
天の味方というか、

そもそも、その地で採れる、
そば粉がうまい。

という強力なフォローがある、
ということに気づきました。

新鮮な、出来のいいそば粉の
産地だからこその、
うまいそばということです。

そば粉とそば屋、どっちが先なんだと、
考えてみましたが、これは
きっと、どちらも同時、なんですね。

そば粉が採れる土地だから、
おいしいそばが打てる。
そば屋が近くにあるから、
そば粉を作ることができる。

お互いが、豊かな恵みがそこにある、
と気づいた時に、
日常の中に与えられるそれぞれの仕事、
なんだと思います。

茨城は米どころでもありますが、
米は平地で人の手をかけて
育てる必要があります。

山あいで水をためておけない土地では
そばのたくましい生命力が必要で、
むしろ厳しい環境だからこそ、
そばがおいしく実ることができる
という自然のはからい。

ないかも知れないと思う気持ちを
あるかも知れないと切り替えたときに、
豊かさはやっぱり味方になってくれる。
ということなんでしょうね~。









心屋マスターコース35期受講中
日本メンタルヘルス協会認定カウンセラー