宗教について①

宗教について②

 

と考えてみたわけですが、

では、「佛教」とは何なのか?

 

「佛教」は、歴史上において佛陀(覚者)となった釈尊によってはじまったわけですが、サンスクリット語ではBuddha‐Anuśāsanā(ブッダ‐アヌシャーサナー)発音はよくわかりませんが、「佛(Buddha)」と「教(Anuśāsanā)」てなことだそうです。

 

サンスクリット語の文法では、2つの語が結合する場合に、6通りの結合の仕方があると定められているそうで、これを六合釈(りくがっしゃく)というらしい。

で、その中から「佛教」の場合は3通りが適用とのことで、

持業釈(じがっしゃく)・依主釈(えしゅしゃく)・有財釈(うざいしゃく)

の3通りとのこと。

 

1つ目の持業釈(じがっしゃく)では、

「佛教」とは「佛陀がすなわち教え」ということ。

すなわち、佛陀とは単なる歴史的な一人物ではなく、佛陀の教法に示された法(真理)を具現化したものであるという意味において「佛教」であるとのこと。

 

2つ目の依主釈(えしゅしゃく)は、

「佛教」とは「佛陀の教え」ということ。

すなわち、佛陀によって説かれた教法という意味において「佛教」であるとのこと。

 

3つ目の有財釈(うざいしゃく)は、

「佛教」とは「佛陀の教えを有する者」ということ。

すなわち、佛陀となるべき教法・仏道を歩むものであるという意味において「佛教」であるとのこと。

 

要するに、

「佛教」とは、

 

佛陀(覚者)とはなにか?

佛陀の教法とはなにか?

佛陀となる佛道とはなにか?

 

てなことであるということです。

 

これらが、「佛」「法」「僧(サンガ)」の三宝にあたり、三宝こそが「佛教」であるわけです。

 

『華厳経』における三宝三帰依がまさに「佛教」という言葉が示す意味ということです。

 

自歸於佛 當願衆生 體解大道 發無上意
自歸於法 當願衆生 深入經藏 智慧如海
自歸於僧 當願衆生 統理大衆 一切無礙

 

自(みずか)ら仏(ぶつ)に帰依(きえ)したてまつる。まさに願(ねが)わくは衆生(しゅじょう)とともに、大道(だいどう)を体解(たいげ)して無上意(むじょうい)を発(おこ)さん。


自(みずか)ら法(ほう)に帰依(きえ)したてまつる。まさに願(ねが)わくは衆生(しゅじょう)とともに、深(ふか)く経蔵(きょうぞう)に入(い)りて智慧(ちえ)海(うみ)のごとくならん。
 

自(みずか)ら僧(そう)に帰依(きえ)したてまつる。まさに願(ねが)わくは衆生(しゅじょう)とともに、大衆(だいしゅう)を統理(とうり)して一切(いっさい)無碍(むげ)ならん。 

 

 

「佛教」と「宗教」 こんな感じですかね。