今年、2018年ははじめて日本人がハワイ移民として横浜からハワイ.ホノルルに出港してから150年が経ちます。

 その日は、1986年5月17日。つまり明治元年に当たりますが。

、実は慶応4年でもあります。

ここで、一つ、わからないことがあります。「徳川幕府の最後の政策実行の一つだったのか?」それとも、「最初のハワイ移民を追行したのは、大政奉還ごの新明治政府によってだったのか?」ということです。私は前者だと思うのですが、皆さまはどう考えられますか?

当時の詳細な歴史を知りたくなりました。

 

ところで、6年程前ですが。某冊子で、ハワイ訪問のことを書きましたので、ちょっとそれをご紹介いたしますね。

 

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ハワイ移民について  新田純子記 

 日本人のハワイへの移民は非常に早く、調べてみるとなんと、幕末の幕府へハワイ王国からの要請で、徳川幕府との間に「移民の交渉」があったという。即ち、万延元年(1860)、日本からの遣米使節団が帰路ハワイに寄港し、当時はカメハメハ4世の時代であったが、親書を幕府に渡すよう信託され、日本からの移民を要請された。サトウキビ収穫の労働力の要請があった。そこで幕府によるハワイ移民団が計画されたが、明治政府への移行による混乱のなか、明治元年(1868)第一回の153名のハワイ移民が強行された経緯がある。

 その後、明治18年(1885)に日本は第一回ハワイ移民をハワイに送り込んでいる。NYK(日本郵船)山城丸移民輸送という航路がハワイまで通ったが、これが日本として正式の初のハワイ航路であろうか。これはもとは共同運輸の企画。共同運輸は渋沢栄一らの民間会社で、浅野総一郎も明治16年から事務長として業務に関わっていた。ハワイへの初航海は明治18年6月。しかし、その年の秋には共同運輸は日本郵船と合併し、ハワイ航路は日本郵船の管轄となった。厳しい労働条件にも我慢強い日本人は耐えに耐え、しだいにハワイに根を降ろしていった。貴重な労働力であったが、しかし、あまりに多くの移民が押し寄せた為であろうか、やがて移民排斥運動が起きる。

 しかし非常に多くの日本人が勤勉努力を積み重ね、ハワイノの農業や産業を開いたことは事実である。私たちの世代から見れば祖祖父の世代であろうか。現在のハワイの人と話してみると、日本人の血がはいっていると、誇らしげにそれを話してくれることもある。

 海辺で怖いのは津波。今回の滞在先は湾に面していて、津波が来襲すれば恐ろしい。避難の方法を常日頃、考えておかねばならないであろう。ハワイのなかでもハワイ島は日系人が多いが、ヒロは何度かの津波に襲われたことは知られている。  

 「太平洋津波博物館」の写真が手元にある。「災害は忘れた頃にやって来る」と昔から言われるが、

このような施設を創ることも、日本でも今回の大津波を忘れない為に必要なことかもしれない。

 次に関心を持ったことは、ハワイ王国の盛衰であった。カメハメハ王は日本の子供達にもよく知られているハワイの象徴である。1795年からはじまった王国だが、1893年(明治26年)の革命で共和制となり、総一郎が訪れた明治30年には実質的には米国領的な状態であったようだ。そして、1898(明治31年)、ハワイがアメリカに正式に併合されてしまった。

 このこ経緯も詳しく調べてみたいと思う。

 ハワイ王室と日本が非常に親しかったことなどは、伊香保のハワイ王国公使別邸を訪れればより鮮明になるはずだが、来年3月まで工事中とのことで、開館した頃にまた取材したい。

 

ところで、明治31年、浅野総一郎の東洋汽船のハワイ航路で、横浜~ハワイを走った日本最初の船舶は蒸気船は日本丸6500総トンでした。太平洋の白鳥と呼ばれたとても美しい船舶でした。日本郵船はまだ当時、ハワイ航路はなく、日本人がはわいやサンフランシスコへ行くためには、浅野の東洋汽船に皆こぞって乗船したのでした。

 

その日本最初の蒸気船.日本丸をご紹介しますネ

蒸気船日本丸 6163トン 1897822日竣工 東洋汽船所有

野口英世 その他大勢の日本人が渡米の際には乗船した。

東洋汽船は足掛け30年間、横浜-ハワイ-サンフランシスコ 航路を運営した後、大正15年に日本郵船に大型豪華客船8隻(13000トン級)と太平洋航路を涙を呑んで引き渡した。

以上