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ズッコケ三人組




著者: 那須 正幹, 前川 かずお, 前川 澄枝, 高橋 信也
タイトル: ズッコケ三人組の卒業式―花山第二小学校六年一組

ズッコケ三人組と言えば、学校生活をいまいち楽しめない少年少女の心のオアシスである、と勝手に解釈している。そうした子供たちにとって、ズッコケ三人組に描かれる「文化祭を成功させるために四苦八苦する」「修学旅行で一騒動起こす」「山で遊ぶ権利を巡って隣町の小中学生と戦争ごっこを繰り広げる」等々の物語は、身近な出来事ではあってもいつでも楽しめる出来事ではない。さくさく読めて共感できる「日常」の部分と、読者をわくわくどきどきさせる「非日常」の部分が絶妙に混ざり合っているズッコケ三人組のような作品は、某ハリポタや某指輪や某ドラクエFFが群雄割拠して非日常的エンターテインメントの飽和状態が出来上がっている今日、貴重だ。

しかしそんなズッコケ三人組も、上記の作品をもってとうとう完結してしまった。作者の那須正幹氏は以前から「ズッコケ三人組は五十冊目で終わらせる」と公言していて、私も小学校時代その言葉を本の後書で読んだ。刊行ペースからあと何年でズッコケ三人組が終わるのかを計算し、約五、六年後という結果を出したのだが、たかだか十年強しか生きていない当時の私にとって五、六年などという時間は永遠に等しく、自分がズッコケ三人組の最終巻を読んでいるところなど想像もできなかったのを覚えている。「ズッコケ三人組の卒業式」を本屋で見つけたときはそうした記憶が一気に蘇り、私は軽い恐慌状態に陥った。巻頭の「ものごとには全て、終わりがある。永遠に続くと思っている君の子供時代も、いつかは卒業式を迎えるのだよ」というような意味の一文を読み、しばし虚脱感に襲われたものである。

作者は完結を記念してのインタビューに「昔は、読者から『三人組がしたことを自分もした』『三人組が行った場所に自分も行った』という手紙をもらうことが多かったのだが、近頃は『三人組は自分ができないことをしてくれるから楽しい』という手紙を多くもらう」と答えている。作者の時代と違って山や空き地で子供が遊ぶこともなくなり、塾や習い事に子供が時間を使うようになり、アニメやゲームといったインドアの娯楽が台頭してきたということだろう。そうした時代にこそ、日常の自然さと非日常の面白さを兼ね備えたズッコケ三人組は子供たちを楽しませるのではないかと個人的に思う。この記事を読まれている方の中に小学校中、高学年の子供あるいは知り合いをお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非ともズッコケを勧めてあげて下さい。

アンチ癒し系ミュージックのススメ




アーティスト: KORN
タイトル: Korn

昨今の日本の音楽は、愛だ自由だ夢だ希望だと喧しい。無論、そうしたポジティブなものに飢えている現代社会のニーズに応えるのは、音楽として正しい姿勢である。しかし本当に応えていると言えるだろうか。愛や希望を連呼するのは、そうしたものを訴えるのとは逆効果である。愛や希望という言葉が、いつでも聞けるチープなものになってしまうからだ。そして本当に愛や希望を表現したい者が、直接的な言葉を連呼するだけに止まるはずがない。人がポジティブになるには、乗り越えなければならない現実の壁、ネガティヴな感情が山ほどある。言葉だけではいけないのだ。真にポジティブを追求するミュージシャンならば、目を背けたい現実、人が克服するべき悪感情の歌もきっちり歌ってくれるはずではないだろうか。しかし街を歩きテレビを見れば、それこそチープで使い古された言葉たちが、㎏単位で売り買いされる魚の死体よろしくあちこちに転がっているばかりである。去年の紅白歌合戦などは、私は見ていて気が気ではなかった。グリッドマン(注・「ゲシュタルト崩壊」参照)が人間の不甲斐なさに怒りをなして全国のブラウン管をジャックし紅白歌合戦の視聴率を計測不能(低すぎて)にしてしまうのではないかと思ったものである。まあそんなことはどうでも良いが、とにかく私はそんな現状に夢も希望も抱けない。チープな言葉にも飛びついてしまうほど今の世の中は疲労困憊しているのか、そしてそうした世の中の疲れに商業主義がつけこんだ結果が、猫も杓子も狂ったように癒しの歌を歌うこの現状なのか、とむしろ夢や希望とは程遠い気分になってしまうのだ。繊細で複雑であるべき人の心のひだが、「癒し」という商標に塗りつぶされてしまっている気がする。
何だか書いてて憂鬱になってきた。こんな文章、理屈っぽいとか根暗だとか言って誰も読んでくれないのではないかという気がしてくる。しかしそんなことではいけない。さっさと本題に入ってしまうに限る。

90年代後半をラップと重低音で支配したカリスマロックバンド、KORNを紹介したい。今回写真を掲載した彼らの1stアルバム「KORN」に、歌詞カードは付いていない。代わりに、ヴォーカルのジョナサンが記した膨大な量の楽曲解説がある。この曲を書いたとき俺はこんな気持ちだった、この曲では俺のこんな思い出を歌った、等々。その独白の内容がまた壮絶である。学生時代手酷いいじめに遭った、親に虐待された、とトラウマのオンパレードだ。無論歌詞だけでなくその音楽性も、ジョナサンの苦痛を完璧に体現している。ギターは地を這うような重低音を吐き出し続けるしメロディにはポップさの欠片もないしヴォーカルは吠えているか囁いているかのどちらかだしはっきり言って聴いてて気が滅入る。最後の曲などはジョナサンのむせび泣きが3分も続く。しかし私は、ポジティブさとは程遠いこの作品に、確かな希望を見た。感動を覚えたのだ。何故ならコーンは暗いが決して後ろ向きではない。彼らの音楽は、ジョナサンの不屈の精神の化身だ。嫌な思い出にフタをして形だけのポジティヴィティを求めることもできた。自殺することもできた。しかしジョナサンはそうはしなかった。持てる力を使って、音楽表現という形で己のネガティヴな現実に立ち向かったのだ。希望や勇気の塊ではないか。

気分が沈んだとき人が聴く音楽は、大抵明るく気分を盛り上げるようなものだ。気分が暗いときに更に暗い音楽を聴いて勇気付けられるという人はあまりいない。しかし、そこであえて暗い音楽を聴いてみるというのはどうだろう。音楽を、単なる雰囲気付けの道具ではなく、自分と同じ人間の感情や意思の表れだと意識するのだ。ミュージシャンは自分の感情や思想を音楽で表現する生き物である。暗い音楽は、ミュージシャンが己の現実を乗り越えようと努力、苦悩、試行錯誤を重ねた結果生まれたものだと考えると、愛着が湧いてくる。この人も苦労したんだなあ、でも頑張ってその経験を音楽に生かしたんだなあ、俺も一丁頑張るか、と少なくとも私はそういう気分になるのだが、如何なものだろうか。気分が暗いときはそれに輪をかけて暗い音楽を聴いてみる。結構クセになりますよ。

ゲシュタルト崩壊

某トリビアの泉によると、「一つの文字をじっと見続けると、この字はこんな形だったっけ?という違和感を生じる現象」のことをゲシュタルト崩壊と呼ぶという。私もその現象の存在には数年前から気付いていたが、それが一般的に認知されたものであり、あまつさえ名称を得ているなどとは思いもしなかった。しかし私は、ゲシュタルト崩壊を引き起こすのが文字に限らないことを知っている。じっと見続けると違和感や不安感を生じるものは、文字の他にもある。

人間の顔だ。

百聞は一見にしかず、一度実際に人間の顔を凝視してみて欲しい。実験台としては生きて動いている実物の人間がベストだろうが、他者からじっと顔を見つめられるというのが人間にとって甚だしいストレスであるのも事実だ。安易に親兄弟や恋人友人を実験台にしてしまってはその後の人生に禍根を残しかねない。こんな馬鹿な実験に人生を捧げるのは賢い生き方とは呼べないので、ここはテレビの中の人で我慢しよう。怒り出すことも文句を言うこともないので実に安全だ。しかし、私はあまりテレビを見ないから未だ見たことがないだけで、ひょっとしたら、視聴者が私の顔をじっと見ていると言ってスタッフに怒り出すタレントが存在するのかもしれない。危険を感じたら直ちに電源を切ってコンセントを抜きテレビモニターを電波の届かないところに隔離する必要がある。人間引き際が肝心だ。余談であるが、昔グリッドマンというテレビヒーローがいた。身体を電気信号に変えてサイバースペースに潜り込み、電気の届くところならどこへでも行ってしまうのだ。恐ろしいヒーローだ。フィクションで良かったと思う。しかし近い将来マッドサイエンティストがグリッドマンを生み出してネット上に放つかもしれないので、そのときのために、モニター上の情報から危険を察知して迅速に対処する訓練を積んでおくことをお勧めする。

こんなところでいいだろうか。アメーバブログ利用規約のような文書をマニュアルなしで書けと言われたときのため(注・「アメーバブログ利用規約を熟読する」参照)に、アメリカの電子レンジの「生きている動物を加熱してはいけません」のように過剰に用心深い文章を書く練習をしてみたのだが、やはりなかなか神経を使う作業である。ここが私の限界のようなので、もうそろそろ本題に戻ろうと思う。人間引き際が肝心だ。

人間の顔面におけるゲシュタルト崩壊である。笑ったり怒ったりと人間の表情は流動的で、表情豊かな人の顔はまるで一体の生き物のようだ。笑っている人を見ると、顔面全体がその人の笑いたい気持ちを表現しているのだという認識が漠然と発生することだろう。しかしじっと見ていると、その認識は変化する。顔面全体ではなく、右目、左目、口、鼻の四箇所が、別々の生き物に見えてくる。笑っているのはその人の顔ではなく脳で、顔は信号を受けて動いているに過ぎないのだということが分かるのだ。ゲシュタルト崩壊を体験した今、あなたはもうもといた世界には戻れない。あなたの人間を見る目には、違和感と不安感のフィルターがかかってしまうのだ。なんと恐ろしい実験か。素人にはお勧めできない。やるという方は自己責任で行動して頂きたい。

アメーバブログ利用規約を熟読する

・該当すると退会させられる事項の中に「会員の死亡」という一文が含まれているのを確認し、鬱になる。
・発生するとサービスが停止する事態の中に「戦争、内乱、暴動」が含まれているのを確認し、鬱になる。
・ああいう規約って誰が書いているんだろうか?マニュアルとかあるのかな?と疑問に思う。なかったときのことを想像し、更に自分が規約を書く仕事を任される場面を想像し、鬱になる。
・規約に(若干の妥協はあるものの)同意したので、「同意する」をクリック。しかしクリックの直後、「同意する」の横に「同意しない」というアイコンがあるのを発見。クリックしたい衝動にかられるが、既に画面が変わっているので仕方なくこの記事を書く。「同意しない」をクリックしていたらどうなっていたのだろうか。アメーバブログは、規約に同意しないと言ってきた人間にどんな反応を示すのだろうか。「またのご利用をお待ちしています」とかそういう文章が出てくるのか?わざわざ「同意しない」アイコンを用意したアメーバブログの意図は?まさかあれが、真にアメーバブログを利用するに値する人間を選別するためのフルイだったのでは??ハンター試験の二択の正解が「どちらも選ばない」だったように、あの局面で「同意しない」を選ぶことのできた者だけが、真のアメーバブログの利用者になれるのでは??あの利用規約の中には、私が気付かなかっただけで、こっそりと「本当はアメーバブログになんか興味はないと誓う」という一文が混入していて、アメーバブログというサービスを使いこなせるのはつまりそうした類のトラップを見破れるほどの才覚を持った人間だけなのでは???真のアメーバブログとは???一体どんな目くるめくコンテンツが、サーバーの裏側に隠されているのか????私の想像は果てしなく膨らむが、既に登録を終えた今、真偽を確かめる術はない。鬱になる。