出典:ライトワーカーのブログ(翻訳者:NINAさん、訳編集者:JUNさん)
今回の「Kokoro Century」さんのブログ配信には、私は痛いところを突かれました。不登校・中退者の救済をして私はデキるなら他者を一人でも多く救済したいと願ってきたからです。しかし、その想いすら「押しつけがましいエゴ」だと気づきました。
最終的には、当事者であるご本人及び周囲のご家族の意思に委ねるのが正解でした。
何もしないで放置しておくのが良いと言っているつもりはありません。それはそれでダメです。支援する側も支援される側も双方とも後悔の念が残ってしまうからです。
助かるチャンスを提供することは必要不可欠です。そして、その後は「見守る」姿勢も同じく必要不可欠です。しかし、そこから先は当事者らに委ねるしかありません。
それまでに投じた努力が無駄に帰すると残念に感じてしまうのは、支援者側のエゴに過ぎないと実感したのです。

妻が心酔していた人物から受け取った土産(パピルス絵画)
私の亡妻に関して言えば、「死を通じて学ぶ」ほか選択肢がなかったケースです。私は自分自身の心が救われたいから、という理由で言い訳しているのではありません。
結婚相手がトコトンやり抜くタイプの私だったからこそ亡妻に逃げ場がなく死ぬ運命になってしまったのだという想いを感じたこともありました。もし結婚相手が私でなくもっとイイ加減な相手だったら、今も彼女は生きていたかも知れないと感じたこともありますが、こればかりは一意性の高い実人生を通じた実験的な検証は無理です。
では、私が世間体を気にして離婚(生別)を回避し、彼女を救命したいと無理やりに工作していたかと自問自答すると、私の心中のどこを切り刻んでみても皆無でした。
こうすることに果たして意味があるのか否か、私自身は解らないまま、ひとつの選択に対し、全方位から是非を吟味する活動はし続けてきました。そして私自身、人は誰でも私と同じ考え方をして各自の実人生を生きているんだろうなと信じてきました。
人は皆、同じに見えていても同じではなかった、という現実に私は当惑しています。