秋山登、1960年大洋初優勝時のエースである。

 

三原脩の秋山登の起用方法については、気になっていた。

三原脩は「西鉄時代の稲尾にせよ、大洋時代の秋山にせよ、私は投手を酷使してその寿命を縮めたことなど、一度もない」と語ったという(富永俊治「三原脩の昭和三十五年」より)。

同書によれば、秋山が本調子でなければ、先発させたとしても三回でマウンドからおろしたとも記されている。実際はどうだったのだろうか?

有志が発信されている”クラシックSTATS鑑賞”、”日本プロ野球記録”とNPBの公式サイト、手元にある「日本プロ野球記録大百科第4版」「プロ野球70年史」ををもとに、秋山登の年度別のSTATSを先発、救援別に集計すると、いろいろ見えてきた。

 

以下に秋山登の通算STATS、先発、救援別も合わせて示す。(赤字はリーグ最高)

参考に、リーグ平均防御率、チーム順位、監督名も付記した。

年度別のSTATSを見ると、秋山の成績の傾向は、①三原監督以前('56~'59)②三原監督前期('60~'64)➂三原監督後期('65~'67)の三期に別れると思う。

 

①三原監督以前は'56年に25勝25敗のイーブンで新人王を獲得。56年から59年まで4年連続最多敗戦、56年から58年から3年連続最多投球回、56年から57年最多完投。まさしく大洋投手陣の屋台骨であった。しかし、年々勝ち星が減り、勝率が悪くなっていった。

 

②60年の大洋初優勝〜64年2位となった大洋の第一次黄金期といえる5年間、引き続き秋山は主戦投手として4度20勝をあげる。

しかし、66年から奪三振率が低下。そのため、表の66年、67年はそれまでと少し色を変えている。

 

➂65年から67年の3年間は二流の成績、三原が退陣した67年に秋山も引退。

 

④チームが好成績だった60年、62年、64年以外は、特段防御率が優秀というわけではない。

 

⑤実働13年、全てのシーズンにおいて秋山自身の勝率はチーム勝率を超えている。これは正直驚いた。

 

これを先発、救援別で見ると、以下のようになる。

1.②➂の三原時代は先発よりも救援のほうが成績が良い。三原監督が秋山の資質を見抜いて救援主体の起用を行なったと見える。とくに64年は先発としては凡庸な成績だが救援で12勝2敗という好成績を挙げている。なお、三原以前の59年まで救援成績が良いというわけではなかった。

 

2.リーグ最多敗戦の27敗を喫した57年であるが、QSが34試合、QS率.850。過言すればこの人が先発すれば、控え投手はいらない状況であった。

 

登板成績を集計してみて、延長15回を一人で投げ抜いた試合、救援した翌日に先発、セーブがない時代だったが救援しチームの勝利に貢献する秋山の姿が見えるように感じた。この作業を通じ、すっかり秋山登という選手が好きになっていた。

なお、当初の疑問についてだが、優勝した60年、先発して3イニング以下の降板を調べたが5試合。三原は当時としては気を使った起用をしていたのかもしれないが、先発投手よりもリリーフ投手としての秋山を重用した結果といえるのではないか。稲尾については別途ブログにしてみる予定だ。

 

※編集後記

年度成績と各試合の集計が合わない年もあり(59年)、またそれ以外の集計誤りもあるかもしれないが、ご容赦願いたい。

WHIPも四死球が分離できなかったため、先発と救援のWHIPは四死球数で代用している(*を付けたのはその意味)