────いや、違う。
冷静になるんだ。彼はSではない。
イニシャルがSなんて五万といるし、第一、彼は日記に書かれている身体的特徴と一致していない。
Sは高身長らしい。僕より頭一つ分くらい高くてスラッとしていて、スーツがよく似合うと記載されていた。
彼は僕とほとんど変わらない身長だし、スーツを着る職業でもない。
ひとつひとつ日記と照らし合わせて考えてみれば分かることだ。
────だけど、彼に心惹かれているのは紛れもない事実だし、この感情に気づいてしまった以上、なかったことには出来ないくらい僕の中に浸透していた。
ならばもう、かつての恋人を探すのは止めようと思った。見つけたところで顔も名前も覚えてないし、もうSには新しい恋人がいる可能性もある。
だから、僕も今を生きよう。またいずれ記憶を失ってしまうかもしれない恐怖に怯えながら暮らすより、たとえ忘れてしまっても【充実した日々】を過ごした事実を、このUSBに記録しておこう。
そして、彼にはこう言おう。
『僕と友達になってくれないか』と。
たまに食事して、たまに遊びに出かける。そんな関係を築いてもらえないか、カフェに行ったら聞いてみよう。
友達ならずっと近くにいられるから……
────────
「今までありがとう。もう恋人探しは諦めることにするよ。」
いつもの席で、いつものコーヒーを飲みながら、僕はカウンター越しにいる彼にそう告げた。
「もう、いいんですか?」
「うん。過去を追いかけるより、今を生きようと思ったんだ。だから、僕もいい加減働かなきゃってさ。」
「……確かに、そのほうが賢明かもしれませんね。過去は過去ですから。」
「それでね、櫻井くんにお願いがあるんだけど……」
「なんですか?」
「……その、良かったら僕と友達になってくれないかと思って…」
「友達?」
「あ、嫌ならいいんだ。ごめん、変なこと言って。忘れて。」
「俺と友達になってくれるんですか?」
「え?」
「ぜひ、よろしくお願いします。」
「あ、うん!よろしく!」
「それで、さっき言ってた話ですけど…」
「さっきの話?」
「うちでバイトしませんか?」
────────
まさか自分が、注文を取られる側から注文を取る側になるとは想像もしていなかった。
「おはようございます。」
「おはようございます。って、だいぶ早いですね。」
「なんか緊張しちゃって。ごめん、迷惑だったかな…?」
「いえ、全然。じゃあ、荷物置いたらテーブルと椅子拭いてもらえますか?カフェエプロンはそこに置いてあるの使ってください。」
「分かった……あ、ごめんなさい。分かりました。」
「アハハ、無理しなくていいですよ。」
こうして、僕は彼のカフェでバイトさせてもらうことになった。初めてのことばかりで最初は全然使い物にならないと思っていたのに、日頃から彼の働きぶりを無意識に観察していたからか、接客は難なくこなせた。
「松本さん、過去にもカフェの経験があったんじゃ?」
「もしかしたらそれもあるかも知れないけど、これまでずっと櫻井くんの動きを観察してたからだと思う。」
「それってどういう…?」
「あ、いや、その…深い意味はないからね!」
────この感情を決して表に出してはいけないし、悟られてもいけない。
彼は僕がゲイだと知っている。それに対して偏見はないのも知っている。だけど、彼が異性愛者なのか同性愛者なのか、僕は知らない。
自分の気持ちを隠してでも、友達として一緒に居られれば、それで十分なのだから。しかも、この店でバイトすれば、もっと彼と一緒に居られるし、もっと彼を知ることが出来るだろう。