戦争や内紛。
そんなものが世界では今でも
あちらこちらで
起きているわけですが
そのような現状を見て

あぁ、日本は平和だな。

生きていることのありがたみを
もっと感じなくては。

などなど

そんな感想文を小中校時代に
書いたような気がします。

小学生相手に南京大虐殺の
ねつ造写真を見せつけて
したのかも分からない
かつての日本の悪行を通し
現代日本の平和ぼけを憂い
上のような感想を抱かせることにより
あの先生は何を思わせたかったのか。

目に見える酷い状況を見て
周りの安心安全を感じることで
あちらよりも酷くないから
文句なんて言えない。
我慢我慢。。。

平和や幸せという言葉が
他と比べることを大前提とした
言葉として
使われることの違和感。

隣の隆君には腐ったバナナがだされたけれど
僕の前には奇麗なバナナがだされたから
そのありがたみを感じて食べなくては。

隆君と僕には何も関連性が無いじゃない。

バナナなんて嫌いだから食べない
っていう選択肢はわがままなのでしょうか。

腐っていないというありがたみを感じながら
ぬめぬめとした謎の物体を口に頬張らないと
いけないのでしょうか。
嫌いなのに。

視覚的に感じる平和と
精神的に感じる平和というものを
すり替えて我慢を強要するのは
何故なのかな。

他国が戦争をしているからといって
それは止めるべきものであり
平和の度合いを比べる道具に
使うべきではない。

平和は比べるものではなく
感じるものなのだから。