外国人力士が増えまくっている大相撲界ですが、どうせ増えるならばモンゴルに偏らないで国際色豊かな顔ぶれになってほしいもの。
そんな中、今後期待できるのが、鳴門部屋の「隆の山(たかのやま)」さんです。
「隆の山」というしこ名ですが、ご出身はヨーロッパのチェコ共和国であられます。お相撲さんでありながら、筋肉質で端正な顔立ちをされたナイスガイもあります (^-^
そんな隆の山さんは、現在幕下6枚目。今場所は、5勝1敗と好成績!
来場所での新十両昇進も期待できます。
今日は、暑かったですね。
暑い場所で思い出すところといえば、関東ならば埼玉県の熊谷市ですが、東海地方ならば岐阜県の多治見(たじみ)市です。
多治見は、数年前、熊谷と同点で日本で一番暑い気温を記録しました。
多治見も熊谷も、周囲を丘陵に囲まれているところは地形的に似ているので、温度があがりやすいのでしょう。
しかし、多治見は暑いだけではなく、熱つながりで焼き物の産地でもあります。
さらに多治見は、将来開通する予定のリニア新幹線では、岐阜県の停車駅有力候補地でもあります。
今でも、多治見は名古屋から40分程度のアクセスなので、名古屋通勤圏ですが、将来は東京や大阪へも気軽にアクセスできる都市へと成長できる可能性を秘めています。
すべてはリニア開通次第ですが、多治見の「長期的な」未来は熱く、そして明るそうです(^-^
知名度はないけれど、インパクトのある戦国武将を紹介するシリーズ。
今回は、東北地方の「公式」戦国大名 芦名盛氏(あしなもりうじ 1521~1580)。
芦名盛氏公は、陸奥国南部(現在の福島県会津地方)を治めていた戦国大名です。ここでなぜ、「公式」とつけたかというと、戦国大名には公式と非公式があるからです。
公式とは、室町幕府から正式に「あんたは戦国大名!」と認められていたという意味です。
戦国時代は下剋上の世の中ですから、力のあるものが上に立ちます。しかし、「俺は今日から戦国大名!」と周囲に公言しても、室町幕府から正式なお墨付きをもらっていない大名も数多くいました。
そんな戦国大名の中、室町幕府から公式に「戦国大名」と認められていたのは、東北地方では芦名氏と伊達政宗で有名な伊達氏だけでした。
つまり芦名氏は、伊達氏と共に室町幕府(中央政界)にも知られた大名家だったというわけです。
この芦名盛氏公、芦名氏を代表する名君です。
芦名氏が治めた会津地方といえば、会津若松が中心です。今では、白虎隊や赤べこ、喜多方ラーメンなどを思い出しますが、芦名氏が治めていた当時、「会津若松」は「黒川」と呼ばれていた城下町でした。
盛氏公は、芦名氏16代目の当主。彼は、領内で続いていた反乱を積極的に押さえ、周囲に勢力を拡大します。盛氏公がすごかったのは、外交政策を巧みに利用して、勢力を拡大していったところです。
彼は、武田信玄、上杉謙信、北条氏康といった大大名と状況に応じて同盟、離反を繰り返し、有利な状況をつくりあげていきました。
こうした盛氏公の活躍で、芦名氏は全盛期を迎えました。その領土は、会津一円から、越後国(現在の新潟県)の北部にまで及んでいたといわれています。
しかし、そんな芦名氏にも暗雲が立ち込めていました。
1575年には、盛氏公の嫡男、盛興(もりおき)公が若くして酒毒にて病死します。すでに隠居していた盛氏公は二階堂氏から養子を迎え、自らも老骨に鞭打って政務に復帰しますが、5年後の1580年没。
盛氏公亡き後の芦名氏はまず、養子に入った盛隆(もりたか)公が1584年、家臣に刺殺されてしまいます。その後、芦名氏家中は後継者問題で二分してしまいます。
そのとき、芦名氏の後継者候補だったのが、伊達家の小次郎(伊達政宗の弟)と常陸国(現在の茨城県)の戦国大名、佐竹義重の三男 義広公でした。
後継者問題は結局、佐竹家の義広公を推す一派が勝利しました。佐竹家から養子に入ったのが、芦名家最後の当主、芦名義広公(1575~1631)です。
この芦名義広公と伊達政宗公が、猪苗代湖畔で雌雄を決したのが、1589年の摺上原の戦いです。
この戦いで敗れた芦名義広公は、実家の常陸国へ逃亡。黒川城には、伊達政宗公が入城しました。
これにより、芦名家は名君盛氏公の死後10年をもたずして滅亡しました。ただし、芦名家を滅ぼしたのが、同じ「公式」戦国大名だった伊達氏というのは、何か不思議な気もします。
もし盛氏公が存命ならば、巧みな戦略で政宗公と対話し、芦名家を存続させたかもしれません。