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見事な虹でしたね。

これを今日が最後の職場で、見ました。

3月13日、仕込み。
3月14日、休み。だけど芝居を観に劇場に行く。
3月15日、家で倒れる。くも膜下出血。欠勤。
3月16日、日にちを15日と勘違いして、職場に行く。

本当は出勤のはずだった15日は行かず、本当は休みのはずの16日に
行った時、相当やばそうだったようです。
ふらふらして、こけていたそうです、
熱があるっていうから、普段の調子悪い時の延長かなって思ったけど、
と職場のママ的存在の人に言われました。
いいから帰れって言ってもなかなか帰らないし…とも。

やっぱり、本人が自分の口で物言うからには、
大丈夫と言ったらそうなってしまうのでしょうか。
周りの人は、不思議がったとしても、思うだけで、
まさかくも膜下とは思いませんよね。。。


しかし、今日。
ほとんどのスタッフの居る前で、
ちゃんとご挨拶できて、よかったです。

ようやく、一区切りつきました。


やっぱり、どこまでいっても仕事人間なのかもしれない、私。

こんなに迷惑かけて、4か月もほっぽって、
しかも辞めて、
そんな私でも「よかったね」って言ってくれる、
皆様、あたたかすぎて、本当に感謝しています。

本当に、恵まれていると思います。

ずーっと、3月から懸案だったことが、今日、やっとけじめがつきました。
ひとつ、大きなことが終わった、そんな感じ。


安堵のため息の後に漏れ伝うものはなに?


3月は、15日と16日の記憶が曖昧で、日付の感覚が狂っていて、
15日がバラシのはずなんだけど行ったっけ?行ってないっけ?
でも、なんだかよくわからないけど、行ったらバラシ表が置いてあって
もう終わっちゃったんだ…みたいなのだけが記憶にうっすらとあって。
だからずっとずっと気になっていました。
母に、PASMO持ってって入出場記録調べて、とまで頼みました。
実際母はそれどころではなく、結局調べてはいないのですが。
それには、行って無かったらすごく申し訳ないことをしてしまった、という
責任感からくる焦りでした。
(入院した17日の朝に職場の人にメールした事実はその時点で頭から消えている)

4月には、前回2年前の時と違って、2週間経ってもなかなか前に進めない、
その焦燥感と病気の疲れと、契約更新のことがあったので、
とりあえず私の中の答えは「辞める」でした。
治ったとしても、またハードに働くのはつらいとさえ思っていました。
今思えばそれは病気に負けそうだったからだと思いますが…。
照明辞めても、ほかの仕事でも、舞台にはしがみついていられる道は
たくさんあるだろう、とも思っていました。

術後の痛みと血球数低下の時期もそう思っていました。
けれど、ようやく回復の兆しが見え始めた4月下旬、5月頭。
唐突に、
辞めたくない、と思いました。
あきらめたくない!
でも今の状況で、いつになるかわからない、回復する速さも見えない、
そんな状況で、
そして、今こうして迷惑をかけて辞めていくのに、
そこにもう一度すがることはできないという、
これも責任感からくる焦りが、自分の首を絞めていました。

その考えも緩やかに、「一度辞める。けれど、きっとまた戻ってくる。
できれば、また同じ場所ででも増員でいいから働きたい」という願望に変わっていきました。

5月下旬、突然病棟に現れた照明のチーフ。
「無事でよかったよぉ」というその言葉には、はっきりと心からそう思ってくれている事が
感じられたし、自分の言葉でちゃんと、また戻って来たいということも伝えられました。

5月いっぱいで退院できるかと思いきや、
様子見 様子見の、緩やかな入院生活終盤。
6月の2週にようやく退院できた時も、
いまいち落ち着かなかったのは、
今後の生活の苦しさをわかっていたから。
無職でも県民税や国保は待ってくれない。

しかし、バイトを始めるにも、まだ、外転神経麻痺は残っていて、
複視の残るこの体で、たくさん動くことすらままならない。
入院生活終わりごろからひきずった皮膚科の病気も長引き…

気づけば暦は7月に入り、
なかなかタイミングも合わず、
今日という日をようやく選び、
そしてその1週間くらい前から、やっと複視も取れてきて、
家事もいろいろやったりとか、
やっと、本当の回復を感じられる今。

ようやく、ご挨拶に行けました。
4か月、長かった。
でも、働いていた2年3か月のほうが早く感じた。

もちろん、現場はいつもどおりで、
私だけ、なんだか浦島太郎状態。

ですが、皆さん、無事な私を見て、
よかったね、と言ってくださって、
本当に、本当に、よかったです。

今日片付かなかったら、また来週来よう、とか思っていたので、
そういうものが意識の片隅にあったので、
だから、今日が最後とか、思ってなかったのが幸いしたみたいで。

でも、片付け終わって出て、帰るときに、
ああ、今日が最後なんだ、とか思って、
今日も最後に職場のメール使ってご挨拶メールを送ったけれど、
それももうすぐ、アカウント自体なくなるんだろうか…とか思ったり、
でも、一歩出たとき、またここに、来るさ、
別の形で必ず来るさ、
って思って、なんか溢れそうになるのをぐっと抑えて、

帰ってきました。









私の中でこの劇場は、これほどまでに大きかったのです。

大学4年の1月から飛び込んだプロの世界。
当時のチーフは厳しくて、
優柔不断な私は全部見抜かれていました。
でも、おかげで、判断力と、ハッキリものをいう、ということは身につきました。
学卒やそこらで、扱える機材も少なくて、でも、日本の演劇業界の
最前線の人たちの公演も扱うわけで、
そんな中で、にわか、から、プロへと成長させてくれた現場でした。
この2年間、ただがむしゃらに、まっすぐに、向かってくしかなかった場所が、そこでした。

10日以上の連勤とか、深夜作業の泊まりとか、
先輩方のご機嫌も大事だし、劇場の人間は広く大きく視野をもたないといけないこともそうだし、
周りの方々の素晴らしさにも尊敬を覚えていたし、
大変だけど、濃密な現場でした。

私の、社会人としての、初めての場所が、
自分の場所から、
自分の場所、だった場所、へ変わりました。

ここで働けるということは、誇りでした。
私の経歴は、誇れるものになりました。

たくさんのことを学ばせていただきました。
まだまだな部分ももちろんあるけれど、
発展途上の私でも成長させてくれる場所でした。

ここで働けて、本当によかったです。

またいつか、戻ってくるために。

今は、充電期間。

そして、自由な時間。


hideちゃんの言っていた、夢と自由の意味が、少しわかる気がします。

ひとつ、落ち着きました。
すっきりした感もあります。

病気になって、こうなってしまって、悔しくはあるけれど、

神様がそうしろってんなら、ならうしかありません。


でもいつか、
自分の足で、またそこを通れるように。
その時の自分が、今より一回り大きくなっているように。


私は歩き続けます。



→ to be continued ... →