先日行った和歌山の博物館にある古民家のトイレを見たとき、これまた懐かしい空気が頭の中に広がった。

今でこそ、白い陶器の洋式トイレたまに和式トイレが当たり前の世の中であるものの、私が物心ついた時のトイレは木の床に木の便器が当たり前であった。

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便器の底がすぐそこに見える現代便器と違い、便器に開いた穴は子供心に底なしを想像するような重圧感があり、家の中でも恐い場所の1つがトイレであったことは間違いない。

今では当たり前のトイレットペーパーも、私が初めて日常的に使ったのは小学校高学年くらいで、その前がちり紙と呼ばれるA4サイズくらいに切り揃えられた高さ40センチくらいで売ってる柔らかい紙であり、トイレの片隅に置かれて使うたびに当然低くなっていった。

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ちり紙の前は、なんと新聞紙がA4くらいに切り揃えられトイレの片隅に置かれていたのが、記憶上最古のトイレ専用紙であり、そのままでは固いので両手で揉んでくしゃくしゃに柔らかくして使ったものだった。

トイレの場所も現代は家の中が当たり前だが、その昔はせいぜい屋根が母屋から続いているだけの別棟が主流であり、便器が陶器になるのに比例して家の中に入ってきて、水洗化で匂いの問題もなくなり今では暖かくシャワー付のトイレさえ標準装備になってきている。


日本衛生設備機器工業会の資料によれば、そもそも当然ながらオールフリーだったものが、平安時代に現代で言えば“おまる”にあたる樋箱(ひばこ)というものが上流階級の間で使われ始めた。

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鎌倉時代にはトイレという専用場所の概念が出来、江戸時代には大便所と小便所が分離し、小便所には朝顔形の便器が用いられ、便器は木製で武士以上の上流階級が使用したが、一般庶民の間にはまだ便器は普及していない。

明治に入って陶器便器も一部で使われ始めたというものの国内で普及することはなく、やがて名古屋に日本陶器合名会社が設立されて、大量生産するヨーロッパ式近代工場を建設して海外に輸出しようとしたらしい。

大正になり、東洋陶器株式会社(現TOTO株式会社)設立されて、福岡の小倉に製陶研究所を作って近くの門司港からアジアへの輸出を始めたという。

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大正12年に関東大震災が発生し 復興特需により陶器製のものが普及し始めたと説明されているから、この辺から日本では本格的に陶器製便器が普及を始めたらしいのだが、なんせスローな時代であり一気に全国に広がったというわけでなく関東大震災で被害を受けたあたりが中心のブームだったようだ。

昭和20年の終戦を受けて、占領軍の特需というので陶器製便器も大きく売り上げを伸ばし、戦争の影響で統廃合もあったのだが、戦前から好調であった東洋陶器に受注が集中して全特需の90%に及ぶ量を引き受けた。

こうしたなか、東洋陶器のライバルメーカーであった名古屋製陶所が大きく売り上げを下げてしまって、それに代わるように陶管やタイルを製造に強かった伊奈製陶株式会社(現 株式会社INAX)がトイレ業界に進出してきたという。

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昭和50年には、トイレが和式と洋式の出荷量が同じとなり、これ以降洋式トイレがシェアを上げ、昭和62年には、松下電工株式会社(現 パナソニック電工株式会社)水洗便器の製造販売を開始した。

昭和55年ころには、温水で洗浄できるシャワートイレが販売を開始したというというのだから、簡単に上辺だけをなぞってみても、トイレというか便器には結構な歴史があるのが判る。


ふう、今日も朝から長い記事になってしまった。


 ・・・おの・・・